キュレーターズノート
第10回サッポロ未来展/札幌ビエンナーレ・プレ企画2011
鎌田享(北海道立帯広美術館)
2011年05月01日号
対象美術館
一カ月ほども前のことになるが、3月の終わりから4月の初めにかけて、札幌市の北海道立近代美術館を会場に、ふたつのグループによる展覧会が相次いで開催された。
ひとつは3月下旬に開かれた「サッポロ未来展」。この展覧会は、2002年より札幌市内のギャラリーを会場に、継続的に開催してきた。北海道出身ながら、東京をはじめ道外の美術学校で学んだ/学んでいる作家たちが、年に一度集うという趣向である。出身地で作品を発表すること、またこの会をきっかけに新たな交流が生まれることは、作家たちにとっても刺激であろう。第10回目を迎えた今年は、舞台を移し、〈ノマディックサーカス〉というタイトルを掲げて開催する運びとなった。訳せば「巡回サーカス」といった感じであろう。そこに示されるように今回の展覧会は、動的な方向を色濃く志向した。鑑賞者の参加をうながす作品や展示、パフォーマンスやライブ演奏といったステージ・イベントとの融合、表現形態の多領域化などが、それである。
もうひとつは4月上旬に開かれた「札幌ビエンナーレ・プレ企画」。札幌では2014年の本開催を目指して、ビエンナーレの検討・準備が、徐々にではあるが進められている。その周知、コンセプトの成熟、実施ノウハウの蓄積など、いわば助走のために、今回のプレ企画展は開催された。そのタイトルは、〈美術館が消える9日間〉。サウンドアート、メディアアート、パフォーミングアート、ネイティヴアート、漫画やアニメなどのサブカルチャー……、さまざまな領域の表現、さまざまな形式の作品を一堂に紹介することによって、アートや表現の刷新を図るというのが基本コンセプトである。
ふたつのグループ展ではいずれも、参加性や舞台性、そして多領域性といったものが、特徴としてあげられる。期せずして同じ方向性を示したのはどうしてなのだろうか?
これらの要素が大きな注目を集めるようになったひとつのきっかけは、2005年の横浜トリエンナーレ「アートサーカス(日常からの跳躍)」であろう。しかし美術の歴史をひも解いていくと、また別の文脈が立ち現われてくる。1920年代におけるダダやシュルレアリスム、ロシア・アヴァンギャルドの祝祭、あるいは1960年代における前衛美術運動の饗宴……。これらのなかでは、宴や演劇、あるいはパフォーマンスやハプニングといった語を冠しながら、参加型・舞台型・多領域型の試みが、数多く繰り広げられた。
絵画や彫刻にみられるように、そもそも美術とは静的なものである。参加性も舞台性も、そうした美術の生得的な資質を逸脱するものである。また多領域性とはすなわち、脱美術性とも言い換えられる。すなわちこれらの方向性は等しく美術を超克するもの、美術を〈解体〉し〈拡張〉するものにほかならない。
ところが今日の試みには、そこまでの破壊性と創造性を感じえない。なぜなのか?
今日に至るまで、美術の自己解体と自己拡張は極限まで進められてきた。その結果、美術/アートの一般的なイメージは無効化した。かつては絵画とはこのようなもの、彫刻とはこのようなものという、一般解が成立しえたが、現在では望むべくもない。また、美術・アートの指し示す領域は、極めて広範囲にわたるようになった。
アートは無限に広がり、その正体はつかみづらくなったのである。その結果、アートやアーティストと、社会や鑑賞者とのあいだで、乖離が生じるようになった。この乖離にもっとも大きな衝撃を受けたのは、アーティストである。そしてこの乖離を防ぐために、アートと鑑賞者を再び結びつける方法を、盛んに試みるようになった。このときに有効性を見出された手法がすなわち、鑑賞者の参加をうながすことであり、演劇性をまとうことであり、多領域と融合することであった。
やや皮肉なもの言いになるが、かつての〈破壊と創造の槌〉は180度その役割を変え、〈融和への新たな手法〉として私たちの前にふたたび姿を現わしたことになる。ゆえに今日の作品は、かつてのそれと比べてはるかにマイルドなのである。
それにしても……、サーカスを名乗り、美術館が消えるといい、いずれも脱美術館をそのタイトルに掲げたふたつのグループ展が、美術館を舞台に開催されるのは、なぜなのか。これもまた、マイルド化の表われであろうか?