キュレーターズノート
町家掃除と原発事故/イェッペ・ハイン 360°
鷲田めるろ(金沢21世紀美術館)
2011年05月01日号
対象美術館
金沢で古い町家を買った。長く桶職人が住んでいた家で、仕事場だったミセ(道路に面した部屋)には多くの道具や材料が残っていた。側面の板を割り出す「ヘギ」という道具や、曲面に削りだす鉋など、桶屋特有の道具もあった。トオリニワには、箍にするための長い竹がつり下げられ、たくさんの板材があった。古い小箪笥からでてできた新聞の切り抜きによると、金沢で最後の桶職人だったようだ。
町家と関わるのは今回が初めてではない。2007年のアトリエ・ワン「いきいきプロジェクトin金沢」では、町家の調査を行ない、ガイドマップ「金沢、町家、新陳代謝」をつくった。自分も設立メンバーの一人であるCAAKも町家を拠点としているし、2008年の「金沢アートプラットホーム」では再びアトリエ・ワンと町家の改修を行なって、まちやゲストハウスを発足させた。そして自分自身も町家を借りて住んでいる。
そうした関わりのなかで、町家が、町人、すなわち、商人や職人の仕事場兼住居であるということを知ってはいた。しかし、「ミセ」については、その名称に引きずられて、製品を売っている場所というイメージしか持っていなかった。いまもときどき見かける金物屋さんのように、通りに面した土間に、たくさんの商品が並んでいる場所。そのため、家の裏の方で商品をつくり、それを通りに面したミセで売っているように想像していた。
だが、購入した町家は、ミセが加工場であった。桶屋さんのご子息である前の所有者によると、桶を売ってもいたという。家の前の道で、酒造用の大きな桶をつくっていたと隣の方に教えてもらった。売っていた場所なのか、つくっていた場所なのか、想像しきれないまま改装のための片付けを始めたが、懐かしそうに覗きこんで「昔ここで桶を直してもらった」と声をかけてくれる通りがかりの人が幾人かいた。それで気づいたのは、かつては、新しい商品をつくることよりも、修理の比重が高かったということである。いまのように、大量生産した製品を流通させ、使い捨てるというわけではなかった。大工道具に関する本のなかでも、このような発言を見つけた。
「もともとは目立て屋さんが、いろいろな道具を売ってたんです。一般的にいえば、売るだけという店はない。目立てをする人が道具を後ろに置いておくという形です。」
(社団法人 全日本建築士会付属建築道具館 編『大工道具の本』、理工学社、1998、118ページ)
桶屋は、酒屋から発注された桶などをつくりながら、近所の人たちの、桶という日常的な道具のメンテナンスを受け持っていたのだ。道に面した加工場であるミセで桶屋が仕事をしているところに、緩んだ桶を持って行って直してもらったのだろう。
さて、ちょうど町家の片付けに手をつけ始めた頃、東北で地震が起き、福島の原発で事故が起きた。金沢は幸いにも直接的な被害はまったくなかったが、さまざまなニュースに接するうちに、少なからず自分の価値観や生活態度に影響を受けた。それはおもに電気に関してだった。普段どのようにつくられているか意識することもなかったもっとも基本的なインフラである電気が、じつは脆弱で、不安定で、危険を誰かに負ってもらいながらつくられているということをいやがおうにも意識させられた。
特に興味を持ったのは、平井憲夫氏による文章である。この文章の信憑性についてはさまざまな意見があるので、こちらもあわせて参照いただき、ご自身で判断いただければと思うが、私が関心を持ったのは、平井氏が、設計よりも施工に、建設よりも運転中のメンテナンスに目を向けている点である。発電所をつくるにあたり、誰かがネジを締める必要がある。だが、一般的に、どのような施工現場でも、一本のネジをきちんと締めているかどうかまでは、監理者の目の行き届かない部分が必ずあり、職人の仕事に対する誇りに支えられているものだと思う。しかし、原子力発電所のメンテナンス現場は、職人が誇りを持って取り組めるような現場なのだろうか。
職人が誇りを持てるかどうかは、その仕事や業界が輝いていることも重要かもしれない。人に自慢できるような仕事であれば、やりがいもあるだろう。しかし、もっと重要なのは、使う人と職人が、お互いに顔の見える継続的な関係であるということではないだろうか。直し続けて使うという文化が失われ、誰がつくったか、誰が直したかがわからない関係では、職人も誇りをもって仕事に取り組むことが難しいと思う。それが大量消費の使い捨て文化であり、そのもっとも純化されたかたちが電気である。電気は、誰がどこでつくったものかわからないし、使ったら終わりである。その匿名性において、同じエネルギー源でも炭などとは決定的に異なるものである。しかしながら、実際には、どこかで誰かがボルトを締めないと生まれない。このギャップにこそ、最大の危険があるのではないか。このギャップは電気にもっとも象徴的に示されているが、いまの社会のすべての曲面で言えることだろう。そしてそれはもはや容易に変えられるようなものではない。原発の事故によって、このことを突きつけられたように思う。
同じコミュニティに属する近所の人たちの道具をメンテナンスしていた職人の時代に戻ることはできない。ものをつくっている人と現場を、使う人が想像すること、そして、使う人のことを、つくる人が想像すること、その想像力を鍛えることが重要なのだろうと思う。その想像力によって少し社会は変わるだろう。そのために日頃からメディアやミュージアムがはたせることは大きい。
学芸員レポート
4月29日より、金沢21世紀美術館で、私のキュレーションした展覧会「イェッペ・ハイン 360°」展が始まった。デンマーク出身で、ベルリンを拠点に制作を行なう作家である。鏡や光をよく用い、見る人の動きに反応したり、鏡を回転させることで空間の知覚を混乱させたり、観客がペダルをこいで動かしたり、ユーモラスに、軽やかに、いたずらっぽく、さまざまな方法で、見る人に働きかけるような作品群である。8月31日まで。