キュレーターズノート
今和次郎 採集講義/今純三と考現学/再考現学
工藤健志(青森県立美術館)
2011年10月01日号
対象美術館
そして、この二つの展覧会に先行して[phase1]が2011年の7月からスタートしているのがACACの「再考現学」。10月から12月の[phase2]、2012年1月から3月の[phase3]と半年以上にわたって展開される長期的プロジェクトである。「現代の社会構造や生活文化、地域の日常生活と芸術の関係のあり方をアーティストの創作活動を通じて探求し再考」し、「私たちの日常生活に潜むささやかだけれども豊かな創造性を描出し、芸術文化という観点から築く多様な価値観を内包することができる社会や生活像について熟考」(同展リーフレットより)することを目的としている。そして、「現代美術をフィールドとするアーティストの多くは、私たちの日々の生活と密接に関わるものを素材とし、社会に問題提起をするように作品を制作しています。彼らは常に自身をとりまく環境を注意深く観察し、そのなかで様々な情報を収集整理し咀嚼したうえで、最終的に作品という形式で活動を展開していきます」(同上)という前提に立って、[phase1]で紹介された作家は西尾美也、mamoru、飯田竜太の3名。
衣服とコミュニケーションの関係性をテーマに他者や共同体へと介入、多くの人々との協同作業をとおして、その過程や状況そのものを作品化していく西尾は、今回青森で約4,000の古着を採集。まずワークショップで1,000のコーディネートを考案し、考現学よろしく分析カードを記入のうえ、そのコーディネートをすべて作家自ら着用した映像作品を制作。撮影後にすべての古着は解体、パーツやデザインで分類され、それぞれインスタレーションの構成要素となっていく。展示はボタンを使った「Buttons / rain」の迷路からはじまり、花柄の服で構成された花びら「Floral prints / Flower」、袖の部分だけを天井から吊り下げた「Sleeves / Waterfall」、セーターをほどいた毛糸で再度編まれた「Sweaters / Clouds」へと続き、最後は残った素材をまるで地層のように積み上げた「Clothes / Strata」で締めくくられる。2010年にナイロビで行なわれた「Overall Project in Nairobi」の延長線上にあるプロジェクトとも解釈できるが、今回のインスタレーションを見ていると、解体された衣服からは身体を喪失した「死」が想起され、雨、花びら、滝、雲、地層といった自然へ回帰し、歴史化されていく人間存在の本質が映し出されているようにも思えた。それは「Sleeves / Waterfall」の印象が、死者の身につけていた衣服を本堂内部にずらっと吊り下げている「川倉賽の河原地蔵尊」(津軽の民間信仰の拠点でイタコの発祥の地でもある)のイメージと重なったからかも知れない。西尾が作り出した「風景」は圧倒的に美しく、ひたすら静謐でもあったが、その身体の欠落した衣服内側の「暗黒」からは無数の他者の声が聞こえてくるかのようであり、そんな抽象化された他者との交感装置としても、このインスタレーションは機能していたように思う。
飯田竜太は「コンセプト」を重視する作家であるが、「もの」としての強度も高く、書物を切り刻んで成立させるその彫刻作品は純粋な美しさをたたえている。書物のなかの文字がバラバラに分断され、意味が剥奪されたうえで立ち現われる物質としての魅力。それは、本という知と情報の堆積した層から緻密な手作業で価値を発掘していく考古学的な営みのようにも見えるし、一方では文字とその組み合わせにおける言葉、その組み合わせによる思想や物語、そうした書物の重層的な構造を、「頁」というレイヤーをカットすることでバラバラに解体し、複数の意味を生じさせようとするポスト構造主義的な試みのようにも映る。いずれにせよ、そこでは書き手の主張は消失し、意味生成の決定権が受け手にゆだねられていく。
Mamoruのサウンドインスタレーションは、衣服、書物と同様に身辺的な素材が発する音に着目した作品である。本がめくれる時の音、氷が溶けてコップに落ちる水滴の音(ただし氷を保管する冷蔵庫のモーター音のほうが耳につくのはちょっと……)、ハンガーがぶつかりあって奏でる音、風を受けてビニールがこすれるゴミ袋などなど。われわれの生活から採集された音の見本帳であるが、それをどう解釈し楽しむかは、やはり受け手の能動的行為に託されている。
以上、感想を簡単に記してみたが、いずれの作品も「現代美術」というフレームを強固に用い、「アーティスト」の視点によって「日常」や「生活」をわずかにずらし、そこに新たな解釈や価値創造の可能性を付与するものであった。われわれ鑑賞者に求められるのはまずなんらかの「気づき」なのである。今回の展覧会には「衣食住から社会をまなざす」(「まなざす」という造語を用いることにはやや抵抗を感じるが)というサブタイトルが与えられているが、震災を受けて、これまでの人間の生き方や暮らしぶり、社会のありようを問い直す試みは確かに重要であろう。しかしたんに日常や生活をモチーフとしているだけで、即「考現学」と位置づけるのはいかがなものか。
和次郎の都市と人間の関係に注がれたまなざしは、人々の生活を超越的な視点からとらえ直し、新しい価値を提示していくというような啓蒙的活動とは決定的に立場を異にする。1972年に和次郎を会長として発足した「日本生活学会」の設立趣旨には、「われわれは生活の中で展開される人間の可能性に、かぎりなき信頼と愛情とをもちつづけたい。その意味では、生活学は生活擁護の運動とつながるであろう。生活のなかで人間を発見し、人間を通して、生活を見つめ、そのことによって、人間にとっての〈生きる〉ことの意味を探求すること」とあるが、目にする事象のことごとくを採集し、そして分析することで、人々の生活の特色を明らかにし、そこに立脚しながら未来像を描いていくのが考現学にほかならない。和次郎の視点には人間とその生活に対する徹底した信頼と愛情があった。言い換えるなら、「アカデミズム」や「アート」の特権性を否定するところから考現学は出発したと言っても過言ではなかろう。太田南畝や喜多川守貞らによる江戸期の記録書や戯作文学から和次郎が影響を受けていることは明らかであるが、その洒脱な表現や、権威、権力に抵抗するかのような文章からは、どこまでも民衆のそばに寄り添おうとする和次郎の「決意」が見て取れる。
そう、1920年代にすべての人々がブリコルールであることを和次郎はすでに見抜いていたし、その背景には近代的な啓蒙主義に対する懐疑があった。ミシェル・ド・セルトーは会話、読書、買い物、散歩など、それまで無意味と考えられていた「ふつうのやりかた」のなかに、「生産的消費」へとつながる「独自のやりかた」を見出し、近代的な支配/被支配という構造を乗り越える視座を提供したが、まさに和次郎は「日常的実践」を大正期から行なっていたことになる。その意味で和次郎の思想はまさにポストモダンの嚆矢と言えるし、考現学が関東大震災をきっかけにたどり着いた方法論であることからも、東日本大震災を経験したわれわれは、いまこそ和次郎の態度と思想から学ぶべき点が多々あるように思う。ただし、今回の震災をめぐるいくつかの取り組みを見ていると、多義的な意味を含んでいる「日常」という言葉を曲解、または拡大解釈して、人間とその生活を再び啓蒙的な支配(生産)/被支配(受容)の関係に構造化してしまうような事例も見受けられるゆえ、その点には充分な注意が必要であろう。
ということで、話をACACの「再考現学」に戻します。展覧会の英文タイトルは〈Re-Modernologio〉と付けられているけれど、これまで見てきたように、どうやら本展の目的は考現学という概念の問い直しや再解釈にある訳ではなさそうだ。むしろ「〈現代〉をアートによって〈再考〉」するいう点が重視されたものであり、「再考現学」というタイトルは言わば一種の言葉遊びなのだろう。じつは、この洒落っ気こそ、ある意味でもっとも和次郎的じゃないかなと思った次第。
今和次郎と考現学に関連した今回の三つの企画は、当然ながら、東日本大震災以前から準備されていたものである。しかし、震災後に開催されることを「偶然」ではなく、「必然」ととらえると、和次郎の想いがより深く理解できるように思う。この機会にぜひとも青森まで足を運んで欲しい。