キュレーターズノート

菊畑茂久馬 回顧展──戦後/絵画、混浴温泉世界2012

住友文彦

2011年10月01日号

 いま、これを書くために思い出しても展覧会を見たあとの幸福感が残っている。残念ながら長崎県美術館の会場には足を運べなかったのだが、それでも充実した気持ちを抱いて美術館を出たあと、雨が降る大濠公園を眺めた。

 まず、ひとりの現役の作家の作品を回顧することで、美術表現とこれだけ深く真摯に向き合う姿勢に触れられることがその大きな理由だと思う。芸術家への道を歩むうえで恵まれた家庭環境にあったわけではないが好きで絵を描き出し、前衛芸術運動に参加することで表現の可能性を押し広げる実験にも参加し、しかし他人の価値基準に寄り添わないで独自の感覚を大切にしながら、必要だと思われる発言や行動も厭わない菊畑の生き方には、多くのことを学ばせてもらい、問いかけをもらうような思いがした。それらが会場を歩いていると、作品と資料の両方からバランスよく感じとれる。しかも、近年の大画面による大作が入口と出口に配置され、そこで急速な社会と作品の変化に揺さぶられるだけでなく、しばし足を留めるような時間を味わうこともできた。入念に作り込まれた図録は余韻を響き渡らせる役割を十分にはたしてくれている。菊畑はもちろんのこと、作家が亡くなる前にこのような回顧展を世に送り出す役割をはたした美術館にも多くの人から賛辞が送られてほしい。
 そのうえで、この展示を見て印象が残っているのは、それまであまり見たことがなかった作品だった。ひとつは《植物図鑑》(1965)。その名のとおり、木の上に植物の絵が連続して描かれている。反芸術の時代を感じさせる激しさや毒々しさはない。新しい表現の形式を生み出す挑戦ではなく、この作品には思索のかたちが現われているような感じがした。もうひとつは《ウォーターパイプ》(1967)という多種多様な形と色のスケッチが並べられた部屋だった。


左=菊畑茂久馬《植物図鑑 二》、いわき市立美術館蔵
右=同《植物図鑑 三》、高松市美術館蔵
右端のパネルは、破棄または行方不明の《植物図鑑》


菊畑茂久馬《ウォーターパイプのためのエスキース》、1967、(29点組)、 北九州市立美術館蔵品

 《植物図鑑》は長岡現代美術館賞の展示に出され、その後、菊畑は「沈黙の時代」と言われる作品の発表を控える時期を迎える。しばらく後になると『なぜ、植物図鑑か』という著作を中平卓馬が1973年に発表している。急激に変化する都市をスピード感いっぱいに切り取り、アレブレと呼ばれた粒子の粗い表現手法で注目されたプロヴォークの活動を終わらせ、写真に断片的な記録の集積を見出そうとする中平の関心は、たとえば李禹煥が過度な表現を排除して「あるがままの世界」と出会うことを目指した「もの派」の実践とも響きあうものだった。
 菊畑の沈黙。それは後に戦争画についての論述や山本作兵衛への私淑を開始する時期につながることから考えると、自らが立つ近代という時代と向き合おうとするときに、美術表現と視覚を成り立たせているさまざまな社会的、文化的条件がその思索の先にはあったのではないかと思いたくなった。勝手な推測だが、李、中平、そしておそらく高松次郎なども含めたじつに多くの作家たちが自らの足元を問い直そうとする思索を繰り返した共通の言説空間に菊畑もまた参加していたのではないか。
 それは、世界にひとつの統合されたかたちを与え、それを創造することができる人間を中心においた世界観を疑い、批判するものである。断片的なイメージの集積、モノの機能や意味を剥奪させたオブジェ、そうした作品には90年代の後半からおもに欧米で注目されだしたアーカイヴ形式の作品とも連続した問題意識を作品の根底に見ることができるのではないだろうか。現代の私たちはこの価値転換以後の世界を生きている。それゆえに、60年代の作家たちが発した問いかけや沈黙について考えを巡らせることに大きな意義もあると感じた。

菊畑茂久馬 回顧展──戦後/絵画

会場:
[A]福岡市美術館(福岡市中央区大濠公園1-6/Tel. 092-714-6051)
[B]長崎県美術館(長崎市出島町2-1/Tel. 095-833-2110)
会期:
[A]2011年7月9日(土)〜8月28日(日)
[B]2011年7月16日(土)〜8月31日(水)

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