キュレーターズノート
考えるテーブル「志賀理江子連続レクチャー」
能勢陽子(豊田市美術館)
2011年12月01日号
対象美術館
日常的に多くの展覧会を観ているが、それらはその時、その場かぎりでどんどんと流れていって、まるで次から次へと作品を消費しているような後ろめたさを感じることがある。今回何を取り上げようかと考えたとき、強く心に残っているものがあった。それは展覧会ではなく、せんだいメディアテークで開催されている写真家・志賀理江子のレクチャーだった。
志賀のレクチャーは、今年の6月に始まり、来年の3月まで、10カ月にわたって全十回行なわれる予定である。第一回「イントロダクション:北釜へ」、第二回「コミュニティの中へ──宇宙人だった」、第三回「オーラルヒストリー──血肉の唄と言葉と身体」、第四回「触れない、触れられない──思い上がるなという警告の存在達」、第五回「写真は抗う──拾われた写真、この世の中の99.9パーセントの写真について」、第六回「イメージ①──過去・現在・未来から脱する空間への儀式(ゲスト:竹内万里子)」、第七回「イメージ②──強烈に明るい場、遠く冷たいまなざしにさらす(ゲスト:甲斐義明)」、第八回「消えたか否か未ださめぬ──今回の震災について起こった事の全て」、第九回「箱庭──写真と空間の関係、今回の展示について」、第十回「北釜を招く──仮設住宅で一緒に生活している人達を招いての会話」。これらのレクチャーは、志賀が仙台空港と海の間にある名取市北釜に魅せられ、そこに住むことになった経緯に始まり、今回の東日本大震災のことも含めて、来年秋の展覧会に繋がっていく。
私が拝聴したのは、10月23日の第五回であった。この日の話は、志賀が津波で流出した写真を拾い集め、それを洗浄し、集会所に展示して、持ち主、もしくは親族に返却するという活動を通して、人間にとっての写真というものの存在が浮かび上がってくるようなものであった。「この世の中の99.9パーセント」というのは、作品として一般に開陳されることのないこの世界のほとんどの写真、つまり他者の眼に触れることのない、個人的な写真のことである。志賀が写真を拾い集めたとき、それらのほとんどが、家族や友人などの身近な人を映したものであることを実感したという。こうした写真は、大災害でもない限り、他者の手に渡らない。志賀はそれを十分留意したうえで、それでも強く存在を示してくる写真と、そこに写っている者に対する愛情と敬意をもって、この活動を行なうことにしたという。汚泥のとてつもない力にあらゆるものが流されても、写真は表面に浮かんでくる。それは地面に突き刺さった白い紙切れとして、その存在を示す。それらは、慌しい撤去作業の途中でも、大切に扱わなければいけないという気持ちを抱かせ、また家族や友人を亡くした人には、それが亡くなった人の替わりになる。軽く扱えないような畏怖心と、同時に大切に押し抱くような愛しさを感じさせる写真。それは、そのなかに映っている人や時間とともに、大切で不可思議な存在となる。
レクチャーは、志賀が1時間半ほど話し、その後、来場者から質問を受けるというかたちを取る。90分話をするときの情報量は、とても多い。初めこの連続レクチャーのことを知ったとき、一人の作家が自らの活動について10回も話せば、内容が重複したり、新鮮味が消えていくのではないかと訝しんだけれども、そんなことはなかった。すでに開催された他の回についても、書き起こしたテキストを読ませてもらったが、そのすべてをとおして、志賀が北釜に来てからの話が、段階を追って丁寧に語られている。第五回とこれから行なわれる第八回は、特に震災と強く結びつく話になるだろうが、それもこうした一連の話の流れのなかにある。それらは、地域と一個人の写真家としての関わり、撮る側/撮られる側(観る側/観られる側)の関係、他者との結び付きとはどういうことかということ、またある関係性を持ったなかで制作の自由を担保することなど、その都度、濃密な内容が語られている。これだけレクチャーの回数が必要なのも、志賀が北釜に来てから三年半のあいだで行なった試行錯誤を知れば、理解できる。志賀は、北釜の高齢者から順にインタビューを行ない、そのテープ起こしをして、さらにそれを書き取っていく。そして、それらを口に馴染むまで何度も暗誦する。それらの資料はすべて津波に流されたというが、無数の北釜の個人史が、志賀の身体に受け止められている。奇妙な話、どこにでも溢れていそうで、それぞれ異なる話が、根っこでひとつの地域に繋がって、志賀のなかに複雑な層を成して溜まっている。志賀の北釜での写真は、その身体をとおして撮られたものである。
2009年にバンコクで国際交流基金主催の展覧会「Twist and Shout: Contemporary Art from Japan」をしたとき、志賀と一緒に仕事をさせてもらった。その地に根ざした新作をということで、共に調査を行なったのだが、そのとき一般家庭を二軒ほど訪ねた。その過程で、私のなかで勝手に逡巡していたことがあった。それは、どこまで志賀の作品を理解してもらったうえで、撮影の許諾を得ることができるかということであった。というのも、志賀の写真はけっして対象を美しく映し出すものではない。むしろ表面の皮を剥がして、その背後にあるものを剥き出しにするような強さを持っている。しかし、それは対象の暗部を曝け出すというのではなく、人間そのものが持っている、生に付きまとう生々しさ、畏怖、そこからある美しさが光を放ち始めるようななにか、である。しかし、写真に写る人は、そこまで望むだろうか(結局志賀は、バンコクで頻繁に見かける、バイクに二人乗りした若い恋人たちを刹那的に撮影することにしたので、私の懸念は無用なものになった)。しかし、私の勝手な心配など遥かに及ばないほどの強さで、なにより志賀自身がそのことを認識して、そのうえで北釜に向き合っていた。しかし、そのようにして長期間同じ地域に留まることは、並大抵のことではない。撮る/撮られる(観る/観られる)という関係や、個人の領域に踏み込むような侵犯性、それらに付きまとう窃視症的な感覚。そうした後ろめたさや疾しさもすべて包み隠さず、自らの身体で、時間を掛けてそこに向き合っていく。そうすると、相対する関係性を越え出てくるなにかが現われてくるような気がする。それは北釜での制作のことだけでなく、今回の一連のレクチャーにおいてもそうであった。こういう不特定多数の人が訪れる場所で、自らの内面を剥き出しにすることは、ある意味危険なことでもある。しかし自らの逡巡も含めて、多くの他者の前で感情を包み隠さず開陳し、ともに内面を探ろうとするかのようなレクチャーは、まったく予定調和のない生身のものに触れているような感触をもたらした。
志賀の活動に対して、日本各地で益々盛んになるアートプロジェクトをとらえ直すための糸口になるのではないかと密かに考えたことがあった。作家が地域に入って、住民とコミュニケーションを取ることで制作を進めていく。しかし、それらはどこか予定調和的で、制作の過程が重視されるため、作品のクオリティや第三者の視点がなおざりになってしまうことがある。主催者が行政なので、アートやアーティストが地域振興の目的に使われてしまうのではないかという危惧もある。しかし、志賀は誰に頼まれたわけでもなく、後ろ盾もないままで、北釜の海と松林の観たこともないような美しさに魅せられて、一人集落に入っていった。一人の作家が地域のなかに入って、長い時間をかけて全身全霊で個人や地域の記憶、風景を受け止め、そこから抽出されたほんのわずかなものを私たちは観ている。それは、地域とアートという一般的な括りはなんの意味も持たないくらい、内面的に強いものを与えてくれる。
北釜で撮られた写真は、これまでに昨年開催されたあいちトリエンナーレで展示されたくらいである。それは、継続している制作のほんの一部だったかもしれない。しかし今回のレクチャーは、樹木が根を張るように、北釜の歴史と個人的な感情が幾層にも複雑に絡み合う背景を垣間見せてくれた。そこから感じたのは、ある地域のことだけれども、同時にどこでもありうるような普遍的なもの、またはある時間に棹差しているようで、膨大な時間に連なっているものである。志賀はインタビューの過程で、北釜の人たちがしばしば口にする「どこさもいがねえ」という言葉に、ある強さを感じたという。もしかしたら、私は(あえていわせてもらえば私たちは)、〈変わらない〉ということから眼を背けてきたのかもしれない。〈変わらない〉ということは、どこにでもいける、なんにでもなれるという自由に反するもののように思えるし、耐え難い退屈さに繋がっているような気がするから。しかしその実、ありとあらゆる可能性を求め続けて、空を掴むような焦燥感を抱えることが、社会全体の閉塞感に繋がっていることにも薄々気づいている。自分が生を受けたその地で、すべてを受容する強さ。それは諦念と裏腹のようだけれども、私たちがそれを避けられるようになったのは、長い歴史のなかでもほんの一世代、二世代前の、つい最近のことである。もしかしたら、私たちの身体にまだ繋がっているかもしれないもの、その観ようとしてこなかったもののなかに、生の確かさ、豊かさを垣間見ることができるのかもしれない。志賀の写真を観ていると、そのようなことを考えさせる。
考えるテーブル「志賀理江子レクチャーについて」
学芸員レポート
豊田市美術館では、2012年1月7日から山本糾の写真展「光・水・電気」を開催する。それにあわせて、所蔵品を中心に、写真や写真を媒体とした現代美術による展覧会、「みえるもの/みえないもの」を開催する。出品作家は、荒木経惟、アルマン、クリスチャン・ボルタンスキー、ソフィ・カル、ナン・ゴールディン、川内倫子、松江泰治、ボリス・ミハイロフ、中川幸夫、中西信洋、ローマン・オパルカ、ミケランジェロ・ピストレット、 志賀理江子、曽根裕、杉本博司。これらの作品は、写真の特性を活かし、また、はぐらかして、「みえるもの/みえないもの」の双方を浮かび上がらせる。1月8日(日)午後2時からは、志賀理江子による公演会「腹の中のカナリア」を美術館の講堂にて開催する。