キュレーターズノート
InterLabの機能と存在から見たYCAM
阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])
2012年02月01日号
対象美術館
メディアテクノロジーを使用したアートは、その時代の革新技術やフォーマットをほぼ全面的に肯定して取り込んでいくことが常といえる。しかしそれによって、技術が到達する限界やプラットフォームの縛り、あるいはトレンドに当然左右されていくという事態も生じることになる。それが時代の反映者/証言者としての行為でもあり、なかには技術の限界を超えるヴィジョンを、技術の枠内から予告する役割も担っていく者も出てくる可能性があるだろう。その意味から、作品という在り方を眺めてみるなら、遡源となるコンセプトや抽象的構想は、長期的に生き続けながら、それをリアライズする表現母体は、旬の技術的リアリゼーションに落とし込まれるが、すぐさま新しい技術や状況の到来によって上書き・更新されることで進化・変態していくという、分裂した状態が生まれていくことになる。これが、これまでのアートにはない特徴であるともいえる。
このようなメディアアートの性質に対応するという視点から、技術研究開発とサポートのためのラボ「InterLab」(以下IL)を持つYCAMの特異性を活用し、ここ半年から数年にわたり継続しているプロジェクトを紹介してみたい。ILが内部にあることには、作品の制作/サポート屋が常駐しているに留まらない、より積極的な意味を見いだせるのか。作品制作/マネージメントを行なううえで、アーティストサイドにはむしろ見いだせない、IL(技術者)側に特権化可能な長期的ヴィジョンの蓄積は可能かといった問題提起を意識する必要がある。
まず、現在YCAMで公開中の三上晴子の《Eye-Tracking Informatics(アイトラッキング・インフォマティクス)》は、まさにアップデートによって生まれ変わり、進化するメディアアートの最適な事例といえるかもしれない。三上は、情報戦争および情報社会と身体というテーマを一貫して追求し、その時代の最新の情報技術に取り組んだインスタレーション作品を発表し続けてきた作家である。(2011年10〜12月には、YCAMも協力したかたちで、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で大規模なインスタレーション──三上晴子「欲望のコード」──を個展として開催し、かなりの好評を得ている)。今回、YCAMでは、YCAM InterLabとの共同研究開発のもとに、彼女の90年代後半の代表作《Molecular Informatics(モレキュラー・インフォマティクス)》という作品を、ほぼ15年ぶりに、コンセプトを同根として技術的に全面リメイクを行ない、新作《Eye-Tracking Informatics》として展示公開した。
「自らの視線を視る」という作品《Molecular Informatics》は、1996年に東京で初公開され(Canon ARTLAB制作)、その時点ではキヤノンの開発技術であった、視線入力センサーを応用したディスプレイ搭載型デバイスを顔面に装着した観客が、1人で体験するバージョンがまず発表された。モレキュラー(Molecular)とは、球体分子状の構成要素を指しており、この作品では、虚空のバーチャル3次元空間内を自分の視線の向く方向に進んでいくと、その軌跡が白色の分子の連なり(線的視線)となって可視化されていくというものである。例えば、右方向に視線が継続的に維持された場合、画面がその方向にラウンドし、結果的に後方を振り返ることができ、すると自分の視線の軌跡が見えてくる。モレキュラー・テクノロジーは、現在はバイオやナノ分野で活用されているが、分子にコマンドを与えると、さまざまな3次元立体がフレキシブルに形成可能になるというという、宇宙技術からも注目されていた当時の先端ヴィジョン研究から引用されたものである。このモレキュラー・システムの採用は、視線の動きの不安定さを示すためであり、どのような形態を生むかはじつは予測不能であるという、線的な連続性よりも、不安定な接続性や抽象性の強調や、アモルファスな対象へのフレキシブルな対応を可能とするリアリゼーションの結果とみなすことができる。
この1人体験版は、翌1997年にオランダのV2オーガニゼーション(ロッテルダム)でアップデート・バージョンが公開され、そこでは体験者2人が視線のみで同時に対話を行なう形式に発展的に変更された。これは、100%制御・意識化できない自らの視線に、自己が他者となって向き合うという、自動記述的な最初のバージョンのアプローチからすると、コンセプト的にも大幅な変化になる。2人版の場合は、少なくとも相手の視線の存在が、最初から他者の他者としての対象となりうることになり、自己リフレクションからコミュニケーションにポイントが移行してしまう。とはいえ、視線のリアルタイムでの動きによる予想のつかない相互の絡み合いは、意図的な造形やたんなるランダムネスでは生まれない形態の存在を認識することになり、さらにここでは、2者が接近すると、その部分にだけ2者のそれぞれの独立した視線の軌跡同士を連結する赤色のコラムが発生するようなプログラムになっていた。それらの形態は総体として非線形的であり、有機的な一種のバイオアーキテクチャーともいえるような造形物としても見える。この2人バージョンは、非常に好評を博し、オランダの後、何カ所かで展示されたが、その後何年かを経るうちに、急速に進んだ情報処理技術に対応するバージョンが開発されず、作品は体験できない状態のままストップされていた。
今回リニューアルした《Eye-Tracking Informatics》では、「自らの視線を視る」「2人の視線によるコミュニケーション」というコンセプトは維持したまま、現在の最新技術の成果を反映するかたちで、全面的にリニューアル/リメイクを行なった。まず、YCAMの2011年の企画であるLabACT Vol.1でアップデート公開した、ニューヨークのザック・リーバーマンらによるオープンソースプロジェクト「The EyeWriter 2.0」をベースにして、さらにYCAMで改良を加えた視線入力のハードのシステムを利用した、装着デバイスなしの体験スタイルへと変更した。3D用グラスのような顔面への装着物という不自由な制限をなくし、かつ高解像度な映像をプロジェクションで広範囲の視界を確保して、自由な空間ナビゲーションの可能性を広げようという意図である。そのために、体験の前提となる「The EyeWriter 2.0」やLED照明を搭載したアーム付きのコックピットを、YCAM内部でデザインした。これには、映画『エイリアン』のプレ・ストーリーにあたるリドリー・スコットの新作映画『プロメテウス』の宇宙船操作室やH・R・ギーガーのドローイング、また『攻殻機動隊』『トップをねらえ!』などの数々のアニメのデザインプランを参照して、身体とマシンのバランス形態を可能な範囲で検証した。さらに、サウンドプログラムにevala、ビジュアルプログラムに平川紀道という優れたアーティストをゲストスタッフに迎えて、各コンテンツ表現要素を全面的に見直し、緻密な映像ビジュアルデザイン、処理速度、速度体感、3次元音響空間効果、低音の振動子採用など、大幅にアップデートを行ない、その結果、かなりのレベルのインタラクティブ表現にまで到達したと言ってもいいだろう。
《Eye-Tracking Informatics》体験ブース
ここで、15年の経過時間を隔てた2作《Molecular Informatics》と《Eye-Tracking Informatics》を比較してみるなら、前者は当然のごとく処理速度が当時のレベルであり、かなり間引いたフレームレートで進むため、カクカクした動きでしかナビゲーションプロセスを表現できなかった。それが後者では、すでに分子連鎖の表現方法は破棄して、視線の先端は、複数の神経線で構成された触覚毛になっており、視線方向があるエリアに集中すれば太い線に結線され、多数の方向に秒間内にブレる場合は細密な線のアンコントローラブルなクラスターとして局所で爆発した形態になるといった、緻密な描画プログラムが採用された。とにかく、処理速度がかなり速いため、対象として視線の動きとはなにかをじっくり見極める前にランドスケープが変化し、視線というヴィークルに乗って、早駆けしていく感じになる。
このビジュアリゼーションは、現在の脳科学や複雑系科学の成果を反映した知見の具体化として、脳内の認識と、神経的な尖端感覚の認識のデータ処理量の相違を圧倒的に感じざるをえない。「自らの視線を視る」という、ある意味フロイト/ラカン的な自己解体確認要素は、むしろ認識判断重視の旧作《Molecular Informatics》の表現のほうがフィットしているという見方もできるかもしれない。とにかく、この2作品では、時間/空間の関係性が、どのようなフレームレートバランスで、形というデザインのなかに割り振られていくのかといった、アウトプットに対するプラットフォームや作品として直観的アプローチが違いすぎるのだ。
少しばかり話を脱線するなら、このようなメディアアートの、技術をベースにした展開形リメイク(作品コンセプトは同一だが技術は相違する)が、はたして同一の作品といえるのかどうかという問題も考えねばならない。あるいは、リニューアルやリメイクという行為において、作品の同一とはどのようなことかということである。さらに穿った見方をするなら、モダニズムのパラダイムにおける作品と、パフォーミングアーツ、さらにはメディアアートにおける作品において、「作品」という意味的な同一が同期可能なのかということもある。そう比較してみると、同一を要求する要因には、作品を規定する要素はなにに依拠しているか、同一でなければならない理由があるのかにかかってくるので、作品の同一が依って立つ基盤は、内在的理由だけにあるのではなく、唯一的美術史形成やアートマーケット(これらは単一基準を生産し、多層的時間や分裂空間共有を内部に持たない)の限界にかかわる、操作者の都合に理由があることが、それとなく見えてくるように思えるのである。とりあえず《Eye-Tracking Informatics》においては、リメイクというより、全面改訂または新規バージョン制作といった言い方が妥当であり、ほぼ新しい作品であるといってもいいような印象がある。
今回比較した2作は、異なる技術的リアリゼーションチームによる制作になっているが、作品としての技術的な変化の過程を記録・記憶していく母体は、作品という単体でなく、作業者側(つまりIL的な存在)にある可能性がある。作品に対して、一対一対応するILのあり方でなく、IL自体が系統樹のような在り方として、技術と制作を考えていく体制を考えてみても良いのではないかと思うのである。