キュレーターズノート
宮本佳明「福島第一原発神社──荒ぶる神を鎮める」、秋風景の逆照射
中井康之(国立国際美術館)
2012年03月15日号
3月11日が近づくにつれ、見聞きする情報の多くが東日本大震災と福島第一原発事故関連に集中してきている。私は、基本的に、美術表現がそのような災害に対して無力であるばかりでなく、そのような外部の現象を反映するばかりの表現を信じることができない、という立場をとるものである。このような古典的とも言える芸術至上主義の観点から美術を考えるのはけっして私ばかりではないだろう。しかしながら、椹木野衣と宇川直宏の対談「震災後に芸術を定義し直す」(『新潮』2012年1月号、2月号)で論じられているように、日本で美術表現を考えることは、このような災害列島において繰り返された被害の記憶を語り継ぐ方法を確立していくことではないかという趣旨などに優位性があると、多くの者が感じているかもしれない。それが時限的なものであるのか、椹木が主張するように「西洋美術とは異なるアートを切り拓いていくしかない」といった根源的にわれわれの美術の在り方を問い直すようなようなものになるのかは、まったく予断を許さない状況であることだけは確かであろう。
以上のようなことを頭の片隅に置きながらも、今期はいくつかの手応えを感じた個展と、美大芸大の卒展を紹介することで、ことさらにそのことに触れる必要もないと考えていた。しかしながら、それらを文字化する作業に入る前に、勤務先の近傍で開催していた建築家・宮本佳明の個展「福島第一原発神社」と遭遇することによって、自らの意識のなかでは後景として隠れていた「美術と震災」の問題が、急に前景化する事態となってしまったのである。
宮本のその作品は、けっして広いとは言えない画廊空間内に1/200のスケールで福島第一原発の周辺地域を展示模型で再現し、福島第一原発の建屋の上に和風屋根を載せているという作品である。その展示模型は画廊空間全体をほぼ占めているため、上部が吹き飛んだ原発の建屋の部分は少し距離がありよく見えないのだが、画廊の入口近くに置かれた比較的倍率の高い双眼鏡によってクローズアップした状態で見ることができる。高倍率なため僅かな手振れを拾い、その像は揺れる。破壊された建屋が不鮮明な画像で揺れながら映し出される光景は、あの無慈悲な津波の映像と共に世界中の多くの人々の脳裏に焼き付けられた。テレビで映し出されていたあの不鮮明な画像は、放射能値が高いためにテレビカメラが近づくことができずに高倍率のレンズを用いたことによって僅かな振動を拾い、あるいは空気の揺らぎを見せていたのであるが、そのような現象が、目にすることのできない放射能というもののアウラを見せつけているかのようであった。この作品に付随したこのささやかな装置は、多くの人が画像を通して体験した、あの忌まわしい記憶を鮮やかに甦らせるだろう。
次に、この作品の要である福島第一原発の建屋の展示模型を覆った和風屋根の役割を述べておかなければならない。福島第一原発の問題に対してより能動的に向かい合っている者であれば、この展示模型だけで伝わる部分も多かったのかもしれないが、残念ながら筆者はおそらく平均以下の知識しか持ち合わせなかったために、先の双眼鏡が置かれていた場所に併せて置かれていた、制作者宮本のステートメントによってその趣旨を理解した。その文書の冒頭部に簡略に記されているのでそれを記載しよう。
「事故を起こした原子炉を鎮め、今後1万年以上にわたって溶け落ちた核燃料を含む高レベル放射性廃棄物を現状のまま水棺化して安全に保管するために、原子炉建屋にアイコンとなる和風屋根を載せて神社ないしは廟(マウソレウム)として丁重に祀るというプロジェクト」(宮本佳明「福島第一原発──荒ぶる神を鎮める」)ということである。
1万年というのは、高レベル放射性廃棄物(再処理化した使用済み核燃料等)をガラス固体化したものは「一万年後にはウラン鉱と同レベルの放射能になる」という報告(「高レベル放射性廃棄物処分に向けての基本的考え方について」[原子力委員会、1998])等に基づいた数値と思われるが、要はウラン鉱という自然な物質がすでに地球に存在しているからそれと同レベルになれば、同状態に置くことにおいて人々に悪影響がないだろう、という「風が吹けば〜」的ともいえる、あまりにも大きな数値なのである。宮本はその長大な時間を建築という優れた表象形式によって、和風屋根を持つ巨大な箱が希望の入っていないパンドラの箱のようなものであることを末代まで伝えようということなのである。
現在の地球年齢45億年という宇宙物理学的な見地からすれば1万年というのは僅かな時間であり、アルタミラの洞窟壁画が描かれたのがおよそ1万8千年から1万年前ということなのだが、産業革命以降、急激な生活の変化を遂げてきたわれわれの感覚からすれば長大な時間である。一世代30年と考えてもおよそ333世代。万世一系の天皇家でさえ神代の頃から数えても125代である。1万年後には、文化や国語あるいは支配形態等が激変している可能性は高いだろう。そのような不確定性の高い未来に対して、宮本はさらに具体的に、その和風屋根の構造についても記している。例えば、外見は和風であっても東大寺大仏殿にも匹敵するその巨大な構築物は木造ではなく鉄筋コンクリートを想定している。夢物語であれば例えば伊勢神宮の式年遷宮のような一千数百年続いている木造建築物のような例示も可能であるような気がするが、そこは現実的である。ただし、屋根は桧皮葺きに、屋根を支える柱部分に波の意匠を施すなどの手を加えることによって霊廟としてのスタイルを整え、人々がある種の畏敬の念を持つようなモニュメントとして存在させ続けようという提案である。
もちろん、そのような長大な時間を、原発の母体である原子炉自体が持ちこたえることはできないであろう。原子力発電所の耐用年数は30年を経過したものは10年を超えない期間ごとに再調査を行なうということになっている。また、チェルノブイリの石棺も耐用年数は30年とされており、いずれにしても放射性物質が安定化して無害化する時間の尺度とまったく噛み合わない。最近、よく喩えていわれるように、人類は扱うことのできないプロメテウスの火を手にしてしまったのかもしれない。
ところで、宮本佳明は17年前の阪神・淡路大震災によって全壊と認定された宝塚市の実家を、まるで人の骨折に添え木を入れて補強するかのように、鉄骨で補強して復活させた《ゼンカイハウス》という作品でよく知られている。その満身創痍を図式化したような建物は、現在でも宮本の設計事務所として使われているということだが、それは神ならぬ人間の姿を図らずとも映し出している。
宮本佳明「福島第一原発神社──荒ぶる神を鎮める」
それでも日常の時間は流れている。用意をしていた展覧会について一件だけ触れておきたい。
京都精華大学ギャラリーで同大学の教員が中心となって開催した「風景の逆照射」という展覧会のなかで、安喜万佐子の《松林図》という作品を興味深く見た。長谷川等伯の著名な屏風絵を題材としたその作品は、等伯の同画を彷彿とさせるような松林を撮影したものを下敷きに、その松林の図となる部分を白く残し、背景となる箇所を金箔で覆っていった。その作品が展示されていた空間に他の出品者の一人である林ケイタの空を撮った映像作品が投影されることによって、安喜作品の金地が微妙に変化する効果を生み出していた。それは室町期あたりから数多く描かれた金地の屏風絵に効果を認めることができる、順光時と逆光時において異なる形相を表わし出す方法を近代的な手法で特化したものだろう。それはとても直截的ではあるが、此の国の文化を反映するものだろう。そのフラットな画面は、安喜がそれまで築き上げてきた暗い画面空間に光の粒子の集合体を描き出すことによってイリュージョンを創造する手法とは異なるように見えながらも、絵画空間の中に絵の具のような画材を用いて虚構空間を作り上げるという作家のミッションは変わらないのかもしれない。また、「此の国の表現」というものを、椹木のいうような災害を前提としたというようなものに特化するという発言も極端ではないかと、このような作品を前にしたときに再考をうながされるのである。