キュレーターズノート
やなぎみわ演劇プロジェクト 第三部「1924 人間機械」
植松由佳(国立国際美術館)
2012年06月01日号
対象美術館
展覧会はすでに終了してしまったが京都国立近代美術館で開催された「すべての僕が沸騰する──村山知義の宇宙」展に関連して、やなぎみわの演劇プロジェクト『1924』の最後を飾る第三部「1924 人間機械」が上演された。演劇の評は専門の方にゆずりたいが、美術からの視線で触れられればと思う。
このプロジェクトは昨年7月、同じく京都国立近代美術館で開催されたモホイ=ナジ展の関連イベントとして開催された「1924 Tokyo-Berlin」を第一部としてスタートした(残念ながら筆者はその第一部を観ることができずに、第三部開催前にUstreamで放映された録画を観劇した)。やなぎによれば、展覧会として決まっていたモホイ=ナジと村山知義という二人のアーティストから1920年代が導き出されたということらしい。横浜での第二部、そして今回の第三部と観終えて、やなぎという現代美術作家が美術館を会場にしながらも、そのホワイトキューブという枠をスペースのみならず領域をも超えて、現代美術から演劇という次なる大海に漕ぎ出し、見事に荒海をも超えたという感想を持った。
やなぎと演劇との関わりで言えば、2010年秋に開催されたフェスティバル・トーキョーで老メイドによる「カフェ・ロッテンマイヤー」をプロデュースし、演劇も上演された。またこの年の春には、京都芸術センターの茶室を会場にやなぎが席主として「桜守の茶会」が催された。これもやなぎが脚本を書き、演出した寸劇であった。
現代美術作家として写真やビデオによる作品を制作してきたやなぎが、演劇に取り組むことは、意外に思われるかもしれないが、これまでの美術作品にもその萌芽は見え隠れしている。そもそもやなぎの初期作品である「エレベーターガール」シリーズも、当初はパフォーマンス作品であった。京都の画廊での個展で、やなぎは生身のエレベーターガールに扮した女性たちを座らせるパフォーマンスを行なった。ちなみに今回の演劇プロジェクトを通じて、青色の制服姿の案内嬢が狂言まわしとしての重要な役割をはたしている。演じるという行為で言えば、前述のパフォーマンスに始まり、モデルが50年後の自分の姿に扮する「My Grandmothers」シリーズや、老女と少女が寓話の一シーンを演じた「フェアリー・テール」シリーズでも、作品モティーフの重要な要素である。またやなぎの美術作品におけるテキストの役割は、「My Grandmothers」シリーズに添えられた文章に代表されるように、テキストというものがイメージと共存するかのように成立してきた。
今回のプロジェクトは「1924」年という時間をテーマとし、さらにはその演劇がほぼ一年(厳密に言えば一年にも満たないが)という短い期間に、各々が時間を前後しながら上演されている。その時間軸の重要性とともに、昨年の大震災がやなぎの演劇にもたらした影響も明らかである。あの震災以降、美術にたずさわるどれだけの人間が自分にとっての美術、芸術とは?美術、芸術の役割について向き合い、それはいまだなお、心の中に抱え続けているだろう。同じように1923年の関東大震災以後の日本の演劇界、美術界でなにが起きたのか。やなぎは過去を参照し、時代と、その時代に生きた人々を読み解くことで、日々抱くなにがしかの疑念を解こうとしたように感じた。
歴史的事実をふまえながらも脚色化して、リアリズムをともなって展開された前二作に比べて、今回の第三部は村山を象徴的に、彼の思想や言葉がダダイズムの精神をともない表示される。やなぎの言葉を借りるならば、「前二部は、いずれも重層的なリアリズム演劇で、今回はダンスと映像の連鎖劇風パフォーマンス」という違いらしい。舞台の脇に置かれたピアノから奏でられるベートーベンのト調のメヌエットに始まり、展示室に出品されていたおかっぱ頭と、独特の村山の記録写真がそのまま抜け出してきたかのようなダンサーが登場し、踊りが続く。
展覧会の関連イベントとして上映された演劇ゆえであるが、展覧会に出品された数多くの作品や資料を通じて、村山に関する知識を得ているので、「ダンスと映像の連鎖劇風パフォーマンス」であるにしても劇中の身体性の高さということを理解できる。終盤、映像が投影されていたスクリーンが案内嬢によって上げられ、虚構の世界に終わりを告げ、現実へと転換する。この窓にかけられたスクリーンがあがり、疎水沿いに咲き誇る満開の桜を観て、京都芸術センターでの茶会を思い出した方は、一人ならずいたことだろう。
「転換」もしくは「変換」という言葉をとりあげるならば、案内嬢がマスクを脱着する点と、やなぎの「フェアリー・テール」シリーズで見せた老若の往還、また案内嬢の一人が男性によって演じられていたことを示し村山のトランスジェンダーへの関心を示す点と、やなぎの作品がジェンダーとのかかわりから論じられる点など、美術作家やなぎみわの美術作品とのつながりが通奏低音的に見受けられ興味深かった。
リアリティに戻り、ここで美術館という場所を活かしたやなぎらしい演出がなされる。エレベーターガールである案内嬢を使い、美術館の大型エレベーターにより村山自身が作品として収蔵されていくというものである。村山知義の写真は残るものの、20年代当時のパフォーマンスの様子は記録として(動画としていう意だが)残ってはおらず、演劇によって再現された村山自身を収蔵することは、美術館そして美術制度に対してのやなぎによる問いかけとも言えるだろう。
京都に続き、村山展が巡回する高松、世田谷に際しても演劇公演は開催されるとのこと。本文中、若干ネタバレ的部分もあるが、場所が変わることで演出がどうなるのかぜひ自ら目撃者となって欲しい。
別会場での公演は残るが三部作としては結実した。やなぎは演劇への熱がまだまだ覚めないように見えるが、美術の側にいる人間としては、この経験を経て次に生み出される美術作品も楽しみでならない。