キュレーターズノート

トマス・サラセーノ「クラウド・シティ」

能勢陽子(豊田市美術館)

2012年06月01日号

 いまの日本ほど、汚染された大地を離れ、地震や津波の被害を被むることのない、“空中に住まう”ということを、リアルに思い描いてしまうこともないだろう。“空中に住む”ことは、20世紀半ばにさまざまな建築家によって夢想された。バックミンスター・フラーは、太陽によって暖められると、1,000人の住人を載せた直径1.5マイルの球体が宙を浮いて移動する「クラウド No.6」(1962)を考案したし、イギリスの建築家グループ・アーキグラムは気球で移動する“旅する空中都市”「インスタント・シティ」(1968)を提案した。オーストリアのヨナ・フリードマンは、ピロティの上に構造体を持ち上げる「空中都市」(1958-60)を提示したし、日本の磯崎新も増殖可能な空中にのびる虚構の都市「空中都市」(1960-62)を構想した。1950年代末から60年代に掛けて、世界中の建築家によって「空中都市」が構想された。地上を離れ、ひとつの場所に留まるのではなく、漂うように移動しながら暮らすことは、未来に向かう自由に満ちた大きな夢想を抱かせた。そのおよそ50年後、これら建築家たちのユートピア的な建築観・都市観が蘇生したように、トマス・サラセーノは、空中に浮かんだ球体が都市を構築する「クラウド・シティ」を制作する。


展示風景

 サラセーノ(1973- )はアルゼンチンで建築を勉強したのちヨーロッパに移り、現在はドイツを拠点に活動している。重力に縛られることなく機動性を持つ雲を理想として、バイオスフィアと呼ぶ球体の集合体が空中都市を構築する「クラウド・シティ」を、世界中で展開している。バイオスフィアという名前からもわかるように、サラセーノはバックミンスター・フラーを敬愛している。今回の展示では、蜘蛛の糸に倣って張り巡らされた白い糸により、大小さまざまの木製の多面体がいくつも浮遊している。またもう一方の展示室には、ドイツではゴミ袋として使用されているポリエチレン・チューブで制作された気球が、横倒しになって展示されている。未来への前進や希望を容易に信じられなくなったいま、サラセーノの作品におけるユートピア感は、どのようなものだろうか。
 1950-60年代の建築家たちの構想とサラセーノの空中都市が異なっているのは、鑑賞者の身体感覚ごと作品に招き入れる、その体感性にあるだろう。サラセーノの作品は、夢想的な理念に傾きがちなユートピア的な都市構想を、まるで遊園地のアトラクションのように、誰もが体感できる気安さで開いている。「クラウド・シティ」は、恒久設置される建築物ではなく、美術館の中で展開される巨大インスタレーションだから、風雨や経年劣化を考慮に入れた建築物としての強度は必要なく、しなやかで可逆性のある透明なビニールが使用されている。サラセーノの作品の多くは、空中に吊られた球体の中や巨大な球体を二段に仕切った上部と下部など、中に入ることができる。フラットで固いもののうえにいるのではなく、しなやかに動いて上下を見渡せる透明な構造は、重力から逃れた身体的軽やかさを与える。また、他者の動きによりビニールがしなるので、その存在を体感として感じることができる。その自由で解放的な空間は、これまでになかったようなかたちで他者と出会わせ、新たな「共生」の夢を抱かせる。
 今回の展示においても、横倒しになった黒く巨大な気球の中に入ることができる。この気球には、「太陽エネルギーを利用した、空に浮かぶための59のステップ」という指示書が付いていて、大人二人が24時間かければ、車や身の回りの素材を使って誰もが同じものをつくることができる。気球の中には白い紙に写された映像が流れていて、できあがった気球でサラセーノやその友人たちがふわりと宙に浮かぶ楽しげな様子を見ることができる。


展示風景

 現在に至るまで、宙に浮かぶ空中都市は依然空想の産物である。いま、このようなユートピア的な夢をいだくことに意味はあるのだろうか。私たちが向き合うべきはより現実的な諸問題なのではないだろうか。サラセーノはインタビューのなかで、スラヴォイ・ジジェクの次のような言葉を引用している。「30-40年前は、私たちは未来がどのようなものになるか話し合っていた。(…中略…)今日、そうしたことについて、誰も議論さえしない。私たちはただ静かに受け止めているだけである。(…中略…)現在の矛盾は、よほど穏健に思える資本主義の急進的な変化よりも、地球上のすべての生命の終わりを想像する方が、よほど容易だということである。このことは、再びユートピアを見出さなければいけないということを意味している」★1。サラセーノは、未来に向けた希望を持つことが難しくなった現在、あえて解放感や多幸感を直接的な身体感覚として与え、ヴィジョンとして共有できる「クラウド・シティ」を提案する。その宙に浮かんだ軽やかさと非物質性は、情報化の発達により世界中の人々が瞬時に繋がり、同じ考えや感覚を共有しうることを象徴しているにも思われる。

★1──Conversation between Tomas Saraceno, Marion Ackermann, Daniel Birnbaum, Hans Ulrich Obrist and Udo Kittelmann in Tomas Saraceno: Cloud Cities, Distanz Verlag, 2011, p.42.

トマス・サラセーノ「クラウド・シティ」

会期:2012年5月26日(土)〜8月31日(金)
会場:メゾンエルメス8階フォーラム
東京都中央区銀座5-4-1/Tel. 03-3569-3300