キュレーターズノート
淺井裕介滞在制作&個展、栗林隆、超群島
工藤健志(青森県立美術館)
2012年07月01日号
季節は春から初夏、青森という土地がもっとも穏やかで気持ちの良いこの時期、国際芸術センター青森(ACAC)では淺井裕介滞在制作&個展「八百万の物語──強く生きる 繰りかえす」(2012年4月28日〜6月24日)が、そして十和田市現代美術館では「栗林隆 WATER >|< WASSER」(2012年4月21日〜9月2日)が開催されている。そして僕の勤務する青森県立美術館では、表参道のEye of Gyreで開催されていた「超群島」展が、「ライト・オブ・サイレンス」という副題をともない、バージョンアップしたかたちで7月8日まで開催中である。
淺井による、青森県内の各地で採取された土を使い、地域の人々との共同制作やワークショップをとおしてギャラリーの壁面いっぱいに描かれた泥絵。そして、栗林による、十和田の黒土4トンを使って展示室空間に山脈を再現したインスタレーション《Wolkenmeer(雲海)》。いずれも時間、記憶の堆積する土という素材を用いて、そこに新しい命を吹き込み、さらに作品を媒介として見る者の意識が覚醒され、さまざまな物語が創出されていく。たんなる名画展や中央からの借り物でない、青森の地域性にしっかりと根ざしたアートプロジェクトが次々に開催され、いずれも高いクオリティのプロジェクトとして成立していることに、(むろん作家の力量もあるにせよ)僕は「青森」という地域の大きな可能性を感じ取ることができた。
近代化のプロセスのなかで幾多の政治的問題を押しつけられた東北、そして青森。その一方で、ここは美しく豊かな自然が残る地でもある。そうした両義性が多くの作家の芸術的想像力をかきたてるのかも知れない。搾取の構造によって繁栄を謳歌している地域では絶対に見えてこない諸問題が、ここでは明らかになる。大きな力によって誘導された偽善と欺瞞がはびこる現代社会において、善と悪が同存することの意味をしっかりと見据えることができるのがここ青森である。それは「芸術とはなにか」、ひいては「人間とはなにか」という問いかけにもつながるがゆえ、美術館、アートセンターという「場」が、ここ10年で一気に整備された青森で、こうした動きが活発化するのも必然であると言えるし、また放棄してはならない「地方の使命」であるとも考えている。
そもそも善と悪、生と死、美と醜、喜と悲、幸と不幸、安全と危険などは対として存在するのではなく、すべて表裏一体、同根のものではなかったか。東日本大震災はわれわれにそのことを気づかせてくれた。例えば、あらゆる「景勝地」が過去の大災害によって形成されたものであること、快適な生活を保障するものが一転して厄災をもたらすものに変化すること……。しかし、これまでわれわれは事象のマイナス面を意識することなく生かされてきた。現代文明そのものが「砂上の楼閣」であったことが昨年の3月11日に明らかになった訳だが、あれから1年以上が過ぎたいまもなお、原発の是非についての議論が象徴するように、賛成、反対いずれの立場でも、いかにマイナス面に蓋をし、プラス面のみをアピールすることに躍起になっているか。人間も自然もあらゆるシステムも、必ずプラスとマイナスの要素がなければ存在し得ないというのに……。金と引き換えにリスクを背負わされた地方。その恩恵を受ける都市。これまでぬくぬくと暮らしていた都市生活者が、状況の変化で地方の姿勢や政治を短絡的に批判することの茶番。それを単純に「善」の行為と信じているようでは、また近代化のプロセスと同様の過ちを繰り返すだけではないか。原発問題ひとつとっても、社会構造のなかに複雑に組み込まれている以上、簡単に答えなど出せるはずもないし、そもそもどんな答えも「正解」であるはずがない。しかし「考えること」は大事である。その個々の考えの集積によって少しずつ時代は変わっていくはずである。そして、そのきっかけをもたらすものがアートであると僕は信じている。
そんなことを青森県美の「超群島──ライト・オブ・サイレンス」に出品されている伊藤隆介の作品を見て強く感じた。本展は、Eye of Gyre会場のテーマと出品作を核としつつ、青森の風土性と土着性、さらに縄文という古代の時間層に「ライト・オブ・サイレンス(静かなる光)」をあて、「“生と死の循環”と“リスク社会とアニミズム”の問題」を考察しようとするもの。新しく工藤哲巳、阿部合成、小島一郎、工藤甲人、今井俊満、高山良策といった青森県美のコレクションが加わり、さらにダレン・アーモンド、マーク・ダイオン、森万里子らの作品も含められ、全8章立ての構成で、現代と社会と人間がそれぞれに抱える複雑な問題を次々に顕在化させていく。なかでも、伊藤隆介の《そんなことは無かった》はテーマ的にも作品的にも本展のテーマを引き締める重要な役割を担っていたように思う。
モチーフは水蒸気爆発した福島原発1号機。原子炉(本来はコンクリートで固められて見ることはできない)と建屋の崩壊した様をジオラマで再現、それをCCDカメラでライブに撮影し、プロジェクターで投影するというビデオインスタレーションである。
ビスコという1933年に誕生した、まさに昭和と共に歩んだ日用菓子の箱をカメラが抜けると、そこに映し出されるのは廃墟となった原発施設。体内の、男性器にもイメージが重なる原子炉の形状……、普段なら文明を維持するための電力を作り出す装置が、文明を破壊する強大な「ファルス」と化す。そして、原発建屋に入る前に一瞬写り込む神棚。そう、これは昭和という時代に作られた新しい「神」なのだ。古来に人間が作り出した神は人間を精神的に救い、一方で恐怖も与える存在であったが、現代の神は科学技術によってつくられ、物質的に人々を豊かにし、いったん荒神となれば物質的な厄災をもたらすということか。放射性物質が持つ気の遠くなるような時間単位は神の領域にほかならないし、それらが海や山に蓄積し、やがて循環していく構造もまさに神の存在そのものである。表裏一体という世界を支える根本原理が本作からも読み取れよう。
伊藤の作品は模型と映像という2つのギミックによって虚構と現実の関係性を攪乱し、世界に対するわれわれの「常識」に揺さぶりをかけてくる。ジオラマの中でさまざまなモチーフが自在に組み合わされることで生じる多様な物語、映像メディアのリアリティの問題、「見たいもの」と「見たくないもの」、そして「あったこと」と「なかったこと」の関係など、カメラの循環運動と同じように、われわれの意識もまたさまざまな「対概念」のあいだを永遠に循環していく。
ともすれば、ある一定方向への誘導で完結していたかも知れない展覧会が、伊藤の作品によって解釈の広がりが生じたという点においても、本展において伊藤作品がはたしている役割は大きいと思う。キュレーターの問題意識と、青森県美ならではの空間を生かした展示構成がぴたりとはまった好企画だし、なにより東日本大震災、福島原発の事故、現代社会の構造的問題と公立の美術館が正面から向き合ったという意味でも画期的な試みと言えよう。テーマは「過激」であるが、だからこそどこまでも「真摯」な取り組みである。
淺井裕介滞在制作&個展「八百万の物語──強く生きる 繰りかえす」
栗林隆 WATER >|< WASSER
超群島──ライト・オブ・サイレンス
学芸員レポート
以上、自分が所属する美術館を褒めてばかりじゃ気がひけるけど、ここはさらに開き直ってPRも少々。「ラブラブショー」(2009)、「ロボットと美術:機械×身体のビジュアルイメージ」(2010)の流れを組む企画として僕がいまドタバタと準備しているのが、「超群島」展の次に開かれる「Art and Air──空と飛行機をめぐる、芸術と科学の物語。或いは、人間は如何にして天空に憧れ、飛行の精神をもって如何に世界を認識してきたか。」(2012年7月21日〜9月17日)。覚えきれないくらいに長いタイトルを付けてやろうと狙ったのだが、略すと「aaa」でいきなり短くもなったりして(笑)。要は、「空」と「飛行機」をテーマに、美術作品から文学、映像、科学技術、漫画、ゲームまで、さまざまなジャンルの表現を一堂に集めようという企画である。
とかく「経営」の観点が求められるいまの時代の美術館。例えば、学術的な展覧会と集客目的と割り切った展覧会を交互に行なうような戦略も近年よく見受けられるが、単純に二極化してしまうようでは美術館運営に携わる人間としてやはり切なさを感じる。もともとは市民社会の成立とともに広く「知」と「美」と「娯楽」を提供してきたはずのミュージアムが、本来不可分の関係にあった「学問」と「遊び」、「教養」と「娯楽」とを乖離させてしまうようでは、いずれそのシステムそのものを崩壊させてしまうように思えてならないのだ。ゆえに、できるだけ間口を広くとりつつ、あらゆる表現を、それを生み出した時代精神や受容層の意識とリンケージさせながら検証していくことをここ数本の展覧会では試みてきた。もちろん、それが「うまくいった」と思っているほど僕も呑気ではない。しかし、ただ現状を憂うだけでなく、美術館、そして展覧会というシステムの未知の可能性を信じて、試行錯誤を続けることにも多少の意味はあるんじゃないかな、と。さらに、青森県は棟方志功、成田亨、工藤哲巳、寺山修司、奈良美智など旧来的な狭いアートの枠組みのなかに収まらない作家を多く輩出しており、その意味でも旧来的な美術展のフレームにとらわれないほうが、より青森らしさを出せるのではないかとも考えている次第。
で、前回の「ロボット」に次いで、今回は「飛行機」。いずれも20世紀初頭に生まれ、この100年で飛躍的に発展し、時代、社会、人間の意識に大きな変化をもたらしたモチーフである。そう、「現代」を考える格好のテーマのひとつが「飛行機」にほかならない。美術展、科学展、資料展といった枠組みを越え、文化史的な切り口で、「空」と「飛行機」に関連した表現を、時間軸としては神話の時代から現代まで、ジャンルとしては文学、美術から航空技術の成果、漫画、ゲームまで、すべて等価に扱うことで、そこに込められた人間の意識や感情、欲望の在処を明らかにする試みである。そして、人間の二次元的な思考が「空を飛ぶ」ことでどのように変化したのか、という点にまでたどり着くことができたら……。
今回は青森県美のみの単館開催となるので、この夏はぜひ青森まで足を運んでいただけたら幸いである。