キュレーターズノート
作品を収蔵すること、コレクションを考える
角奈緒子(広島市現代美術館)
2012年07月01日号
対象美術館
近代・現代美術作品を収蔵する海外の美術館を訪れると、そのコレクションの数の多さとクオリティの高さに、思わずため息がでてしまうという経験をされたことはないだろうか。さらにたいていの場合(私について言えば)、国家の文化遺産としての芸術作品に対する考え方の違いを否応なしに思い知らされたような気がして、我が国の状況を思うと今度は残念なあまり、別のため息も漏れ出でてしまう。先日、久しぶりに前者のほうのため息、より厳密に言えば、うらやましさも混じった、感嘆のため息をついた。しかも大阪で。全展示室を使った「国立国際美術館開館35周年記念展 コレクションの誘惑」には、垂涎の収蔵品が並んでいた。
手元のカタログにある山梨館長の文章によれば国立国際美術館の収蔵作品の特徴は大まかに「20世紀初頭からの西洋美術」「第2次世界大戦後の欧米で新たな潮流を作り出して時代相を形成した多様なジャンルの美術」「同時期、太平洋戦争後の日本で展開されてきた、その時その時の時代を先鋭に映し出す多彩な美術の試み」に分けられるという。確かに、パート1と言える、地下2階全フロアを利用した「コレクションの誘惑I 20世紀から21世紀へ──現代美術の世界」の入口で出迎えてくれるのは巨匠ピカソである。1900年代に始まり2000年代の現在に至るまでの絵画や彫刻が、制作された年代によって分けられ、通史として現代美術を概観できる内容となっている。
とはいえ、「20世紀後半の世界美術の主要な流れが判るというほどの規模には至っておりませんし、一つの美術館で過不足なくそうしたコレクションをもつことは不可能な野望であると同時に、世界の美術の多様さはとうていすべてを掬いあげられるものではないのです」と山梨館長も断りを述べているように、一館のコレクションを利用して、西洋にせよ日本だけにせよ、ある美術史を構築するあらゆる時代の作品をまんべんなく見せるということが難しいということは理解できる。しかしながら現にこうしてそれに似た展示を試み、そして実際に大まかにせよある程度の俯瞰ができる展示が成り立つのは、いつの時代にも絶え間なく作品収集を続けているということを意味すると言えるだろう。じつは、美術館によるこうした継続的な作品収集は、必ずしも可能なわけではない。生まれいづる芸術作品を後世に残すという役割を担う施設として、当然の活動と思われがちな作品収集のために必要な購入予算は、経済状況および行政の財政事情に左右され、筆者の勤務先で言えば、もうずいぶん前から購入予算はついていない。近年は日本宝くじ協会からの助成金を利用した制作委託というかたちで少しずつ新作を収蔵していた時期もあったが、これも平成17年度を最後に打ち切りとなった。ちなみに当館では、平成18年度以降は、特別展のために制作した作品を作家から寄贈・寄託していただいたり、収集家や作家の遺族の方々から寄贈・寄託のお話をいただいたりしながら、なんとか少しずつコレクションを増やしていっているという状況にある。公の施設である美術館が、文化を育むべく正当な方法で作品を収集できないとはなんと情けないことか。
話を元に戻すと、まるで美術史の教科書に掲載された作品写真のように、実物の作品を並べ、あるひとつの美術史を提示できるような展示を一度はやってみたいと、学芸員の多くは密かに思っているのではないだろうか。完全にとは言わないまでもその試みが実現された上記展覧会では、見る側としてもたいへん楽しめたのは事実だが、見続けるうちに途中で単調さを感じたことも否めない。これは、壁を必要とする平面作品が多かったことも原因のひとつかもしれない。彫刻作品も展示されていたものの、現代美術の歩みを概観するためには外せない、空間自体を取り込んだいわゆるインスタレーション作品があまり(ほとんど)なかった(と思う。筆者の記憶が定かではないことも白状しておく)ことは、やや残念に感じられた。
地下3階の展示室では、異なる見せ方が試みられていた。「コレクションの誘惑II 自由な泳ぎ手──現代写真の世界」と題された写真作品ばかりを集めた展示である。古くは20世紀初頭に労働者や市井の人々を撮ったルイス・W・ハインや《L.H.O.O.Q》が物議を醸したマルセル・デュシャンから、現在30代である今展のなかでもっとも若い作家、田口和奈の作品まで、事実を記録する手段ではない「芸術」としての写真を見ることができる。こちらはテーマによって4つのセクション、「IMAGE イメージ」「TIME 時間」「BODY 身体」「SPACE 空間」に分けて展示されていたのだが、見ているとそれらの分類など忘れてしまうほど、作品自体の放つ力が強く、一つひとつにのめり込むように見入った。しかし同時に、写真という技術がどのように芸術作品の手段として用いられてきたか、またはもっと平たく言えば、いかにして写真はアートとなったのかという変遷を辿ってみるうえでも、こちらの展示こそ時代順に並べてみたら(おそらく、ある時代の作品が欠落していたりするのだろうとは推測するが)、また別の楽しみ方ができたのではないだろうかという思いが浮かんだことも記しておく。
近代から現代に至る流れが把握できるくらい長く広く、しかも、ある時代の動向や傾向を、一、二点の作品だけに代表させるのではない、説得力のある深くしっかりとしたコレクションの形成は、やはり国立レベルの美術館でなければ難しく、地方の公立美術館には真似できないし、してはならないのだろう。美術館に勤める人間だけの視点かもしれないが、作品を収蔵するということに関して、よくも悪くも現実を知る/見ることのできた展覧会であった。コレクションを紹介するこの展覧会のタイミングに合わせて、コレクション・カタログも出版されている。これは、全コレクションを網羅しリスト形式で作品情報だけを羅列したレゾネのような、一見退屈な内容ではなく、選ばれし収蔵作品が1頁に一作品ずつ、写真だけでなく解説までも掲載された立派なカタログである。場合によっては資料にあたりながら解説文を用意することは、たいへんな苦労だっただろうと想像に難くないが、自館のコレクションのラインナップを見直す機会となったに違いない。カタログまでも実現させたその意志に敬意を払うばかりである。