キュレーターズノート

第7回ベルリン・ビエンナーレ、ドクメンタ13

住友文彦(キュレーター)

2012年07月01日号

 西欧文化を中心においた価値観は本当に変わりつつあるのだろうか。それは芸術の世界でも、また政治や経済を含む社会全体においても起きていることなのだろうか。

 マニフェスタ9(ヘンク、ベルギー)、TRACK(ゲント、ベルギー)、第7回ベルリン・ビエンナーレドクメンタ13(カッセル、ドイツ)を見て回ったあと、このことを繰り返し自問せざるをえなかった。それらに先立つ、昨年の9月から今年の2月にかけてはZKM(カールスルーエ、ドイツ)で、「The Global Contemporary. Art Worlds After 1989」という大規模な展覧会があった。私は実見していないが、ハンス・ベルティングが長年かけてアートの世界に起きている地政学的な変化を調査した成果を反映した企画のようで、中南米、アフリカ、アジアのアーティストが大勢参加し、日本からは小沢剛の《醤油画資料館》が展示されたようだ。序文で、ピーター・ヴァイベルはなにが包摂され除外されるかは、これまで西欧が決めてきたことだが、いまや西欧もその対象となっていると述べている。価値を定める鍵を握るプレーヤーは確実に多極化しているとは、ここ10年近くそこかしこで言われてきたことだが、実際は欧米の主要な美術館、国際展、アートフェアが重要な役割を担い続けているのは変わらないのではないか、むしろ対象となる範囲を急激に広げることでその力を拡大しているようにさえ見えるという疑問もあった。プレーヤーが増えていることを指摘するだけではなく、そのことがどのように表現のあり方や価値観を変えているかということこそ多くの人は知りたがっているのではないだろうか。もし、新しい地図を描きたがっているだけであれば、きっとそれは新しい植民地主義に過ぎない。

第7回ベルリン・ビエンナーレ──アルトゥール・ジミエフスキの挑発

 その点で、アーティストであるアルトゥール・ジミエフスキが芸術監督となって企画をしたベルリン・ビエンナーレは挑発的な問いかけをした。メイン会場であるKWの1階でウォールストリート占拠運動のメンバーが議論やセミナー、飲食、植物の栽培などを行ない自律的な活動をすることなどに対して、私が事前に会った多くの欧米のアート関係者、アーティストは「あれはアートではない」と否定的な見方をしていた。実際に、各メディアも痛烈な批判を浴びせていたようだ。
 全体としては、イスラエルとレバノンなど他の中東諸国などの政治的な対立など、宗教や民族、経済的な分断と衝突に向き合うことを観客に要求する作品が色濃く方向性を形作っていた。かつてベルリンの壁があった通りでは、観光客が行き交う賑やかな場所から少し南に降りたところに道路を塞ぐ大きな壁がつくられていた。芸術の制度や経済的な格差などに対して、さまざまなメッセージが勝手に書きなぐられ、それはかつての壁の向きとは90度違う方向に置かれることで、タクシー運転手や地元商店主の憎悪の対象になっていた。かつての東と西の差とは異なる、経済や文化的な慣習の違いによる空間の分断が象徴的に示されていたが、公式ウェブサイトでは会期修了を待たずにこの壁が撤去されたことを報じていた
 また、ジミエフスキは作品の公募も呼びかけていて、応募アーティストには自分の政治的な立場を明確にすることを要求している。その結果として、応募作品の大量のファイルと一緒に、政治観によって分類された応募アーティストの名前が壁に大きく示されていた。彼は、アーティストは社会と距離をおくのではなく、社会を変えていく実践者であるべきだとカタログの序文で明瞭に語っている。アートの領域を政治や経済から引き離すことで自律的なものとしてきた西欧の価値観とはかけ離れたこの考えは、ほとんどプロパガンダに近い表現も許容するラディカルなものであるに違いない。しかし、私が会ったジミエフスキは物静かだったが明らかに苛立ちを抱えていた。おそらく、アート関係者やメディアの反発は予想していたものだろう。彼自身の作品について浴びせられた批判ですでに経験済みのはずだ。しかし、アメリカに支援者を持つ「占拠運動」の活動がどんなにビラをばら撒き、議論の場をつくり、社会の問題を訴えかけるプログラムを展開しても、彼には美術館の場を出ていくような成果が生まれていないと感じられていることが、苛立ちの一番の原因であるように感じた。ジミエフスキにとって、これがアートの制度に回収されてしまうこと、ある種のスタイルとして消費されることほど、我慢ならないことはないだろう。近年の彼の作品は、再演や実験室的な特徴によって、アートのコンテクストと結び付けられる範囲を超えていくようにも見える。それは、より政治的に、より社会的に実効性を強く求めるものになっていくのだろうか。これまで多くの人は、アートは「多様」で定義づけを逃れる自由なものだと言ってきたではないか、しかし、実際にはモラルや政治、宗教、そのほかによる限定性を暗黙の了解としており、それ自体が排除のシステムを駆動させているのだという主張が彼の作品とベルリン・ビエンナーレからは感じられる。しかし、彼はそうした批評的な態度で満足することはまったくなく、それはフェアではないし、変わるべきだというところにまで踏み込むことを目指しているのだろう。話が終わると、ビエンナーレが休みの日にもかかわらず、いまから「占拠運動」のメンバーと話しをすると彼はKWのカフェを去っていった。


第7回ベルリン・ビエンナーレメイン会場KWの1階

第7回ベルリン・ビエンナーレ

会期:2012年4月27日〜7月1日

ドクメンタ13──西欧中心主義の焼き直しと再生産?

 それと比較するとドクメンタ13は、アートと西欧文化を成立させている制度を真っ向から見据えるのではなく、その限界をなんとか乗り越える方法を思索しているように見えた。ただし、ジミエフスキのような見えない境界線の外側への想像力は欠いていたとは言わざるをえないだろう。それは、芸術監督のキャロライン・クリストフ=バカルギエフがイタリアで仕事をしていた頃に強く影響を受けたアリギエロ・ボエッティの代表作《Mappa》が、展示全体において象徴的な意味を担っていたことに対するさまざまな反応に現われていると思う。
 中東地域の不安定化が激しくなりつつあった1971年に現地の絨毯職人たちによって制作された世界地図の作品は、現在の多文化主義が強く反映されるアートの動向における先駆けだったと言われている。ヨーロッパのアーティストが内戦激しい地帯の「無名」の人々と共同制作をすることを、アート関係者は高く評価した。さらに、彼は現地にホテル・ワンと名づけた住まいを設け、人々が滞在できるようにしていたという。今回の展示では、その伝説をなぞるようなドキュメンタリー映画も委託制作され、上映された。それには、当然激しい戦闘が繰り広げられているかの地に対する浪漫主義的な態度としてこの作品に対する批判する声もあがる。これは、この作品の企画コンセプトにおける4つのテーマのうちのひとつ、政治や社会の対立が顕在化する局面であえてretreat(退行)することを掲げたことにも通じるのかもしれない。ジミエフスキなら、かつての帝国主義のもとでオリエンタリズム的幻想を生み出してきた西欧ブルジョワジーによって温蔵されてきた態度と連続しているものとさえ見るだろう。しかし、ドキュメンタリーを制作するうえで、彼女は、この作品に対する賛否の両面を理解したうえでこの作品をあえて提示しているようにも見える。はたして、それは、「西欧文化には限界がある。しかし、私たちには戦略的にこうすることしかできない」という態度の表明なのだろうか。
 展示全体は、先の《Mappa》をはじめ、フリードリシアヌム美術館に、クリストフ=バカルギエフがシュルレアリスム、モランディ、ソル・ルウィット、工芸品、爆撃で焼けた書物やガラスの破片などを展示することで、企画の方向性を示そうとしていた 。社会状況への抵抗を示す政治的な意味をイメージに担わせる傾向が強い一方で、合理主義の進化によって失われつつある人間性の回復を感じられるような作品も並ぶ。思想家や科学者が展示参加者として名を連ねるのも特徴で、テレポーションを研究している量子物理学のアントン・ツアイリンガーの展示があるなど、科学への希望も同時に示されている。つまり、近代合理主義が破綻をもたらしていることに欧米社会はおおいに失望しているが、その成果を捨てることなく、次の段階へ踏み出すことをうながしているような気がする。

 この挫折と破壊、そして歴史的な連続性と再生を複雑に編み合わせたような展示を成立させていることは素晴らしいとしか言いようがない。いくつかの作品は、じつにおざなりな展示でしかなかったが、数多く新規制作委託された作品にはかなり素晴らしいものも見られる。すべてを書き連ねられないが、個人的に良かったものをいくつか挙げる。
 まず暗闇のなかでじわじわと肉声の唄を聴くティノ・セーガルの作品から使われなくなった建物を再生させていたシアターゲイツのプロジェクトへの流れで、他者や空間に身体が掴み取られるような体験を味わう。街を動き回り、少し身体の疲労を感じながら部屋に入ると思いがけない経験が待っていた。同じように身体性を強く意識させる作品としてパフォーマンスでは、ジェローム・ベルが知的障害者を舞台に上げた作品も非常にシンプルな設定ながら、観客席のなかに深い洞察と互いの意識の交換を生み出す力があった。
 圧巻だったのは、レバノン出身のワリッド・ラードが自分の展示空間を使ったレクチャー・パフォーマンスで、アーティスト・ペンション・トラストの背後にある金融システムや軍事産業との関係を彼自身が調べたことからはじまり、アラブ地域に急速に広がる文化的なインフラを説明し、伝統や歴史、批評、フォーマリズム的な色と形への自己言及性などへも触れるという、アートをめぐる社会、経済、政治、文化を駆け巡る圧倒的な内容だった。それは、アートの世界をひとつの領域に閉じ込めず、外から眺めようとする視点であり、作品や本人の意思とかかわらずジミエフスキやボリス・グロイスと共通する視点を持った非西欧からあげられた声のひとつのように私には響いた。それは彼がレバノン内戦をめぐり、事実とフィクションの狭間から生み出してきたアトラス・グループの作品とも通じるもので、悲惨な出来事を前にしても、なにが起きたかを正確につかみだしたうえで、粘り強い思考によって、逆にそこには「なにが不在なのか」を示そうとする行為であるようにも感じた。
 それから、広い庭園のなかに点在した作品には、セラピー、あるいはガーデニングやDIY的な手法で場をつくりだそうとするものが目立った。そのなかで、もっとも奥のほうにブライアン・ジュンゲンが廃品利用によって作り出していた動物と人間が共存するための広場は森のなかの自律的生存領域を生み出しているようだったが、そこから少し歩くと大竹伸朗がやはり廃材などを組み合わせた小屋を建てていた。その周りの木々には船がいくつか置かれている。中から聞こえるノイズと音が森の音と響き、周りに思い思いに座る人々は、その廃材たちに再び与えられた生をゆったりと眺めていた。そこからあまり行かない場所には、ピエール・ユイグの作品があるはずだった。しかし、ゴミ捨て場のような湿地しかない。その近寄りたくないような場所の中央に、よく見ると石像彫刻の女性裸体像があり、しかもその顔面に大きな蜂の巣がこびりついていた。思わず目を凝らして見つめてしまう強烈な風景だった。


ピエール・ユイグのドクメンタ13出展作

 アフガニスタンやエジプトにも関連会場を広げた展開は、はたしてどういう効果があったのか。アフガニスタン出身でエージェントとして関わったレーザ・アーマディにとっては、アフガニスタンから中央アジアにかけての知られざるアーティストを多く紹介できるとはいえ、それは必ずしも満足にいくものではなかったようだ。前述したような西欧中心主義の焼き直しと再生産に過ぎなかったのではないかという疑問は残り続けているような気がする。しかし、新しい地図の作成をすることによってではなく、クリストフ・バカルギエフの展示の奥行きはアナクロニスムによって効果を持ちえたと思う。古代の遺物や戦時の破損品、いまやけっしてファッショナブルではない巨匠の作品を並べることで、私たちに想像力の跳躍を迫った。さらに、そこには各地の文明への敬意、多くの人が想いを共有できる悲惨な出来事、そして前衛芸術運動や専制政治体制への抵抗運動が放つような、個人の精神がなし得ることの魅力。それらは、あちこちの展示作品のあいだに深い襞を作り出していたと思う。
 十分な予算と時間を与えることで、他の数多くの国際展と一線を画していることには感銘を受ける。巨額の予算を投じて実現するこの事業は、ナショナリズムともツーリズムとも街おこしとも無縁である。薄っぺらい都市計画はここにはまったく感じられない。この地域の人が体験した戦争、そしてそれを引き起こした自分たちへの深い反省が、伝統芸術の保護や産業の活性化でもなく、同時代の表現者への厚い信頼に結びついた。そして、その精神を、けっして矮小化することなく、引き継いだ企画だったとは言えるのではないだろうか。

ドクメンタ13

会期:2012年6月9日〜9月16日