キュレーターズノート

リアル・ジャパネスク──世界の中の日本現代美術

能勢陽子(豊田市美術館)

2012年09月01日号

 世界的な美術の動向や情報が瞬時に伝わり、価値が多様化した現在、国という単位で美術表現を括り、そこに共通する要素を見出しながら、新たに現われつつある動向を探るのは、もはや困難なように思える。かといって、社会や文化的背景からまったく自由な、インターナショナルなコスモポリタンを標榜するのも、なんだか違う。70年代以降に生まれた9名の日本の作家が出品する「リアル・ジャパネスク──世界の中の日本現代美術」は、そのタイトルからして、そうした問いに対するなんらかの答えを探るものと思われた。そして、多様で掴みどころがない“今現在”の日本美術のある側面を確かに垣間見せており、興味深い展覧会であった。


南川史門、展示風景


五月女哲平、展示風景


佐藤克久、展示風景

 南川史門、五月女哲平、竹崎和征、佐藤克久の4人の作家は、スペクタクルに、あるいは感覚的に直接身体に訴えかけるインスタレーションからは距離を置き、あえて絵画に向き合っているようにみえる。しかしその絵画は、けっして理論重視のストイックなものではなく、理論と感覚が現代的なセンスで軽やかに融和したようなものである。南川は、人物をストライプや水玉からなる抽象と併置して、その絵が具体的な内容を指し示すと思いきや、意味が軽やかに逃れていく絵画を制作する。南川の未完結のような淡い絵画は、具象と抽象の揺れるあいだに存在している。五月女は、人物や車、埃など、普段眼にしているものを、平坦な色面の組み合わせとして描く。そこで用いられている色は、経験に沿ったものではなく、対象と背景を区別せず、純粋な色の対比として描かれており、それが日常に対する距離感を失効させる。竹崎和征は、具象と抽象による緻密な構成とドローイングを繰り返し、そこに言葉や斜線を加え、ブルーシートなどの日用品を貼りつけるなどして、独自の風景を作り出す。そうして描かれた風景は、部分によってははてしなく距離があり、また親しみを感じさせるほど近い、感情的そして身体的にさまざまな距離感が混在したものになる。上記の作家たちが冷めた客観性を感じさせるのに対して、佐藤克久の絵画は、知的でありながら、ポエティックなユーモアも感じさせる広がりを持っている。家や山という具体的な形体をしているのに、鮮やかなストライプの抽象で彩られ、逆に具体的な星空が描かれているのに、その形体は波打った奇妙なものになっている。意味深長なタイトルも手伝い、観る者は無意味のなかで軽やかに自らを遊ばせることができる。
 貴志真生也は、絵画ではなく木枠や、ブルーシート、発砲スチロールを使用したインスタレーションを展開しているが、その作品はけっして身体性を喚起するスペクタクルなものではなく、上記の作家とも通底する要素を持っている。そこには、私たちに馴染みの日常的な素材が使用されているが、素材はなるべく規格そのままに、作家の手の痕跡を残さないようにバンドで留めたり穴に差し込んだりして組み立てられている。それは、立体でありながら確かな実体を感じさせず、住居や部屋などの実体の痕跡のような枠のみを空疎になぞっているような印象を与える。また和田真由子は、扱っているのは馬や鳥、飛行機、ヨットなどの具体的なイメージであるが、それらの意味が無化されるように、ぼんやりとした形がフィルムに鉛筆で薄く描かれ、輪郭の曖昧なビニールシートが用いられる。半透明の素材を用い、面を重層化させることで、そこに示されているものは、とらえられないような頭の中のイメージとなる。


貴志真生也、展示風景


和田真由子、展示風景

 本展に選ばれている作家のひとつの特徴として、日常的な素材を用いながら、作品そのものは現実社会とは無縁で、物語性や意味性から逃れた知的な客観性を示しているということがあった。それに対して、大野智史、竹川宣彰、泉太郎は、その流れでみると異質な作家たちであった。大野は、北方ルネサンスなどの西洋絵画を参照しつつ、富士山麓にアトリエを構えて原生林に分け入り、目覚めた野生にしたがい描くという異質の画家である。大野も手掛けているのは絵画であるが、上記の画家たちの知的で洗練されたセンスを覆すような、暴力的なほどの情念性を持っている。また竹川は、今回もっとも政治的な要素を感じさせる作家であった。竹川は、とてもとらえ切れない不可知な世界の総体を、自らが実感を持てるものにするべく、大航海時代の地図を自らの状況に置き換えて編み直している。それは、東日本大震災後の放射能で汚染された日本の状況を髣髴とさせる新たな世界地図で、悲惨ではあるが人類の新たな旅立ちが示唆されているようであった。また本展の出品作家の多くが、90年代後半に顕著になった社会や他者との関係性を重視する「関係性の芸術」とは無縁であるのに対し、泉の作品は、人や動物など他者との関係性により成り立っている。しかし泉の場合、その関係性というのは、「関係性の芸術」に結びつけることのできる作家たちのように、社会における新たなコミュニティの可能性を示唆したり、人間性の回復を目指そうとするものではない。本展では、泉は展示室の生きたウサギを追いかけつつ、その行為を観察して、黒板状の床面にその記録を書き記していた。そこからは、泉とウサギとのコミュニケーションではなく、むしろどこまでいっても異質なもの同士の、没コミュニケーションの軌跡が読み取れる。しかし泉の作品において、物語や意味は虚しく逃れていくのではなく、増幅していく不条理なナンセンスのなかで、私たちは不気味に愉快に宙吊りにされる。観者が否応なく誘われる笑いに対して、作家自身はけっして愉快そうではないが、泉の不器用な身体の動きは、ある種のクールな距離感とは無縁で、その作品はあらゆるカテゴライズを拒む。そして泉の展示室は、渦巻く豊かな無意味の生成の場となっていたのである。


竹川宣彰、展示風景


泉太郎、展示風景
以上すべて、撮影=福永一夫

 はじめ「リアル・ジャパネスク」というタイトルから、現代における日本の新たな独自性を示そうとするものかと思ったが、そうではなかった。また現代日本社会の特質を炙り出したり、過去の伝統的な日本美術とむりやり接続しようとするものでもなく、その点好感が持てた。本展の作家たちに共通するのは、チラシの言葉にあるように「欧米美術の模倣、日本美術への回帰、あるいはショーアップした展示への依存」から距離を取り、世界の美術状況のなかで、いまどのような作品をつくるかを熟考しているということだろう。本展の作家たちは、容易には意味内容を読み取ることのできない知性を備えており、作品自体は社会や政治状況から距離を置いた、新しいアート至上主義的態度ともいえるものだと感じた。作品は実体や意味性から逃れ、自由な感情の発露やわかりやすい物語性は抑制されている。とはいえ、そこで使用されている素材は極めて日常的で、その立脚点がけっして高尚に閉じられたものでないことがわかる。ただチラシにあるように、それが「真に新しい美術作品」かどうかというと、どうだろう。そのことについて考えるには、同時開催されていた「〈私〉の解体へ──柏原えつとむの場合」が別の良い基軸となった。1970年頃から活動を始めた柏原の作品は、表現の方法についてのラディカルな実験性と概念性を備えており、この二つの展覧会を併置してみたとき、単純に時代が経るにしたがって新しいものが生まれるとは思えなかった。しかしそうした進歩史観は抜きにすると、「リアル・ジャパネスク」は、ここしばらく感じていた70年代以降に生まれた作家たちのあるリアルな側面を確かに伝えてくれ、それが霞のなかから少し頭を出せたような合点を与えてくれて、今後日本の若い世代の作家をみていくうえでの重要な指針になると思えた。

リアル・ジャパネスク──世界の中の日本現代美術

会期:2012年5月26日(土)〜8月31日(金)
会場:国立国際美術館
大阪府大阪市北区中之島4-2-55/Tel. 06-6447-4680

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