キュレーターズノート
高嶺格『ジャパン・シンドローム──step2 “球の内側”』
能勢陽子(豊田市美術館)
2012年12月01日号
ここしばらく、現代美術が意味や社会的背景から逃れた、実体のない知的で軽やかなものになってきている気がして、表現に対する不感症に陥っているような感覚があった。そんなとき、心地よさも爽快感も居心地の悪さも含み込んだ確かな触感とともに、すぐには答えの出ない大きな問いを投げ掛けてくれたのが、高嶺格の『ジャパン・シンドローム──step2. “球の内側”』だった。
『ジャパン・シンドローム』は、KYOTO EXPERIMENTとリオ・デ・ジャネイロのダンスフェスティバルPanoramaとの3年継続の共同プロジェクトで、昨年の『step1“球の裏側”』では、ブラジルで撮影した映像を使ったインスタレーションが京都芸術センターで展示されていた。今年はブラジルからパフォーマー2名が来日して、1カ月京都に滞在した後、この舞台が制作されている。ブルーのビニールシートでできた構築物に入ると、直線のない柔らかで真っ青な空間に、50人ほどの観客がいる。高嶺は作品にしばしばビニールシートを使うが、2009年の富山県立近代美術館の「I BELIEVE──日本の現代美術」では、それは美術館のメインの吹き抜けに緞帳のように垂れ下がって周囲を鈍く青色にし、同年のタイと日本のパフォーマーたちとの舞台『Melody Cup』では、私たちはブルーシートの中で楽しく遊ぶパフォーマーたちの姿を眺めた。だから今回は、その中に招き入れてもらったような嬉しさもあったし、同時に舞台上に上げられたような不安もあった。その青く丸い子宮のような空間の中では、パフォーマーと観客の距離がとても近いのである。
初めに、黒子状の衣服を着たパフォーマーが中心にいる。しばらくすると、長身で痩せ型の白い下着姿のブラジル人パフォーマーが、足をカクカクさせながら現われる。そして最後に、彼女とは対照的な、真っ赤な水着を着たふくよかな体躯のブラジル人パフォーマーが登場する。今回の舞台は、おもにこの二人のブラジル人により展開される。どうやらストーリーは、日本の反対側にあるブラジルに住む女の子が、地球に穴を掘って別の国を見ようとするもののようだ。
日本とブラジル。4年前の移民100周年にブラジルの現代美術展を企画した関係で、ブラジルを5度ほど訪れている。ブラジルは地理的に日本の反対側に位置しているが、気質的にも正反対のように感じられる。日本人の控え目な堅実さとブラジル人の陽気な暢気さ。日本人とブラジル人を足すとちょうどいいのに、とよく冗談をいわれた。どちらも欧米圏には属しておらず、日本はかつての経済大国であり、ブラジルはいま目覚しい経済発展を遂げつつある。とはいえ、ブラジルの貧困の問題はまだまだ相当深刻で、しかし彼らにはいまを楽しむ才がある。そしてこれは個人的なことだけど、私はブラジル人の感情豊かで温かな性質がとても好きなのだ。もうひとつ、日本とブラジルでまったく異なることがある。それはブラジルでは、一度も地震が起きたことがないということだ(余談だが、日本の地理関係がよくわからない幾人かのブラジル人が、3.11後にいち早く安否を訊ねるメールをくれた。なかには泣き声で電話を掛けてくれた人もいた)。
今回の舞台では、ブラジルに住む女の子が地面を掘り進み、だんだんと地球の深部へと向かう。十分な深さに辿りついたところで、女の子は全裸になり、幾度も幾度も、さまざまなポーズを取りながら自らの身体を震わせる。彼女の豊満で弾力のある白い肌は、触れたくなるような美しさで、その存在は圧倒的である。同時に、その閉じた空間のなかで彼女だけが裸でいることに、好奇の視線の残酷さを感じて、いたたまれない気持ちにもなる。それでも、それを超えて自らをさらけ出してくれる彼女に、感謝したいような気持ちになってくるのだ。それは彼女が、原始時代の多産や豊穣の象徴であるふくよかな女神を連想させたからかもしれない。そして私にとってこの自己開陳は、とても重要な体験になった。
まるで彼女の震えが地球の深部を揺るがしたかのように、世界が揺れ出す。その後は、痩せ型と豊満型の正反対の女性による、カオティックなダンスが始まる。そしてついに、世界は壊れる。天からブルーシートが降りてきて、私たちのいる空間は真っ二つに分けられる。青いブルーシートは裂けた天のようだし、津波のようでもある。具体的な明示はないけれど、それはやはり震災後に分かれた二つの世界──被災者とそうでない人、原発反対論者と原発賛成論者など──を連想させる。
その後の展開は、驚くべきものであった。観客は、空間を遮断しているブルーシートの壁に行き、そこに手を当てるよううながされる。すると、シートの向こう側にいる誰かと手が重なり合う。しばらくするとその幕は取り払われ、手を合わせていた人が誰だったのかがわかる。そして、お見合い会場のようなクラシック音楽が流れるなか、偶然向かい合った相手としばらく見つめ合うよう告げられるのだ。
私の相手は、20代くらいの女性だった。このとき、身近な家族とでもこんなに見つめ合わないことに気づく。それくらい、普段他者のことを大して見ていない。そして、この他者と見つめ合うという行為は、どこか居心地の悪いものだった。しかし別の参加者は、相手を自分にとって特別な人と錯覚したというので、感じ方には個人差があるらしい。私と向かい合った相手は、視線を泳がせながら、いまにも後ずさりしそうだった。そんなに私が怖いのだろうか、こんなに見ているのに相手のことがなにもわからないな、などとぼんやり考えながら相手を見ていた。また、私の隣の人が、手の先のない人だったので、シート越しに手を合わせる場面から、ずっとその人のことが気になっていた。
じつはこれと同じ経験を、以前にもしたことがある。ある研修の最後に、たまたま前に座っている人と見つめ合うということをさせられたのだ。そのときの相手は、会社を継いだばかりの若社長だった。こんなところでいうのもなんだが、私は少々内気で、よく知っている人でなければ対人はそんなに得意ではない。だから知らない人と向き合うというのは、もっとも苦手とするところだと思っていた。ところがいざ向きあってみると、その若社長のほうが苦手だったようで、じわじわと涙ぐんできた。私はというと、なぜか小学校のときにいじめられた男の子のことを思い出していた。あとで聞いてみると、じつはいま継いだ会社がうまくいっておらず、妻にも迷惑を掛けているという。私を見ていて、その妻を思い出したそうだ。見知らぬ他者としばらく見つめ合うという行為には、普段見ていないものに向き合わせるような効果があるのかもしれない。
日本とブラジルの間で制作された『ジャパン・シンドローム──step2. “球の内側”』には、震災とその後の状況が踏まえられているだろう。その最後に観客の内的体験がうながされたことは、ただ社会背景や問題を表象するという以上の、積極的な意味合いを持っていた。そこで浮かび上がる個々の体験は、必ずしも震災に関するものではないだろうし、その内容もそれぞれ異なるだろう(だからレビューというには個人的過ぎることもあえて書いた)。しかしそれは、他者に対する想像力を、個々人の内奥で問うた。高嶺格の作品は、そんなふうに、ある触感とともに背景の異なる個々人の深部にまで届いて、不可思議な問いのようなものを残す。それはすぐに解決できるものではないけれど、しかし分断された世界の向こう側の人ときちんと向き合うことは、やはり一抹の希望を孕んでいるのではないかと思えた。