キュレーターズノート
「坂口恭平──新政府」展
能勢陽子(豊田市美術館)
2013年03月01日号
対象美術館
「あなたは何大臣ですか?」。展覧会の入口に掲げられた言葉に、一瞬ためらう人もいるだろう。いまの社会を規定している枠組みから離れて、人間の生に必要な根源的なものだけで成り立つ新政府ができたとしたら、そこでなにができるか考えたことがないくらい、私たちは受動的に生きている。
なぜこの世の生物のなかで、人間だけがお金がないと生活していけないのだろう──あまりに自明のことで、また現実がそうなのだからと諦観して、ほとんど誰も口にしない言葉。坂口恭平の活動はこの問いから発している。坂口は「建てない」建築家であり、芸術家であり、文筆家であり、音楽家であり、パフォーマーでもある。いまは、『0円ハウス』や『独立国家のつくりかた』の著者として、もっとも知られているのかもしれない。大学で建築を学んだ坂口は、2040年には日本の空き家率が43%に達するのに、変わらず家が建てられていく状況に疑問を持ち、建築家になることをやめたという。そして、ブルーシートの小屋にソーラーパネルを設置し、車のバッテリーですべての電力を賄い、公園をリヴィング、図書館を書斎に見立てる一人の路上生活者に出会ったことが、坂口の建築や土地、それだけでなく社会の仕組みそのものに対する視点を変える。小屋はただの寝室であると語るその路上生活者の空間は、無限に豊かに広がっていく。坂口は、もともと誰の土地でもなかったはずのものが、「不動産」として人々の所有欲を掻き立て、あらゆるものを囲い不自由にしていくことに抗する視点を、ここから見出す。展覧会は「過去編」(2012年11月17日〜12月7日)と「未来編」(2012年12月8日〜2013年2月3日)から成り立っていて、このソーラーパネルのついた家も、写真と詳細なドローイングにより紹介されていた。2004年にこうした路上生活者の住居を撮影した坂口の『0円ハウス』が刊行されたとき、考現学的な手法が特に新しいと思えず、じつはあまり興味を惹かれていなかった。しかしこの展覧会で、子どものころに使用していた勉強机の家から窺える建築に対する原体験、また団地を巨大な遊び場に見立てた空間のパースペクティブの転換、そしてなにより、驚くほど繊細に緻密に描かれた架空都市のドローイングをみて、その活動全体を彩る夢のようで壮大なイマジネーションがみえてきた。それはただの路上観察学的な手法から来る考察や社会変革のアジテーションではなく、全体が愛らしいほどの繊細な細部でできていながら、巨大な空中都市のようにぎくしゃくとした動きをみせ、あやうさを孕みつつ、希望や夢をみさせる。
小さな住宅が空高く積み重なり、竜巻のような、あるいは巨人のような都市を形成するドローイングは、坂口が鬱状態に陥ったときにしか描けないという。なるほど、病的な細やかさと構築力で描かれた巨大都市のドローイングは、明快な精密さと構造のあやうさが同居しており、惹きつけられる。逆に、執筆は躁状態でないとできないという。新政府などの新たな国を興すような発想も、躁状態でなされるのだろう。坂口は、本人が明言しているように双極性障害(躁うつ病)であり、それがその活動全般にも明確に伺える。だから坂口本人とその活動は切っても切り離せず、それが彼を魅力的で特異な存在にもしている。
最上階では、新政府の活動が紹介されており、それについて饒舌に語る坂口の映像が流れている。そのなかで彼は自殺を抑止するための「いのちの電話」(現在は「草餅の電話」と改名)の活動について話し、そこで自らの携帯電話番号を伝える。死の淵に立つほど追いつめられた数多の人からひっきりなしに電話が掛ってくるとしたら、それは想像を絶するほど大変なことである。3月はもっとも自殺率が高いという理由で、国により自殺対策強化月間に指定されており、この原稿を執筆中の現在も、その広告を頻繁に目にする。しかし坂口は、だれに頼まれたわけでもなく、自らの労力と時間を掛けて自発的にその活動を行なっている。明らかに自閉的で鬱々とした時間のなかで描かれた、単調さと執拗さを併せ持つ夢のようなドローイングを観た後では、なおさらそれは特別に響く。3.11以降、放射能の脅威から子どもを守るため、郷里の熊本に設立した「ゼロセンター」での避難計画も、同じ動機に根差しているだろう。
坂口恭平を、建築家なのか、芸術家なのか、文筆家なのか、音楽家なのか、パフォーマーなのかと問えば、そのすべてであり、カテゴライズする必要はない。しかし坂口の、大言壮語で周囲や世間を幻惑しながらどんどんと惹きつけていく能力は、特筆すべきものだろう。貨幣に依らない、個々人の持つ能力が真に活かされた、誰も捨て置かれない世界──坂口のいう新政府は、それでも、行き過ぎた理想主義とも思えず、友情に近い人間的な感情が基になっているようである。愉快な不協和音を鳴らしつつ、集合的な夢を垣間見させる。それは、誰もが大切だと思っていながら、生活の基底になるとは到底思っていない(または思わされていない)もので、だからこそ多くの人を惹きつけるのだろう。