キュレーターズノート
ヴァンジ彫刻庭園美術館コレクション展「この星のうえで」、IZU PHOTO MUSEUMコレクション展「ふたたびの出会い」
能勢陽子(豊田市美術館)
2013年06月01日号
新緑の頃に訪れたヴァンジ彫刻庭園美術館とIZU PHOTO MUSEUMでは、コレクションによる二つの展覧会が開催されていた。その展覧会は、コレクションによるささやかなものだからこそ、一層の親密さと個々の作品のかけがえのなさ、またそれらの邂逅が生み出す調和を伝えるものであった。
ヴァンジ彫刻庭園美術館のメインスペースを抜けて自然光の差し込む小さめの展示室に入ると、小林正人の菱形をした白いカンヴァス《Naked Canvas with Starry Eyes #7》(2006)が高い位置に掛かり、その両脇に杉戸洋の絵画《the day of departure》(1996)と《おほしさま》(1995)が展示されている。光そのものを、描くというより定着させようとしているかの小林の絵画と、星空を見上げたときの心地そのもののような杉戸洋の絵画は、親和性が高い。画家としてのタイプは異なるけれど、どちらからも純粋な明るさや光といったものを感じる(先日終了したgallery αMでの小林と杉戸による二人展は、個々の作品をともに展示するのではなく、完全なコラボレーションという形式を取っており、それは通年の展示に与えられた「絵画、それを愛と呼ぶことにしよう」というタイトルに、もっともふさわしいように思えた)。小林の、木枠が変形し、カンヴァスが外れて波打つ絵画は、絵画自体に対する自己言及ととらえられがちだが、それだけでなく、絵画が形式から自由になり、ある純粋さを獲得するために必要なことなのだろう。同様に杉戸も、遠近法や色面構成などの絵画の言語に習熟していながら、あえて絵本的ともいえる空想力を持ち込むことで、絵画の厳格さから逃れて、静かに拡散する叙情性を湛える。そうした純粋な明るさや透明性を持った光そのもののような二人の絵画の邂逅は、小さな展示室のなかで、贈り物のような密かな喜びを与えた。
向かいには、野口里佳がベルリン動物園のアフリカの鳥をとらえた写真《マラブ》(2005)が並んでいる。ピンホールカメラにより撮影された、ぼんやりとした緑のなかに立つ子どもくらいの背丈の鳥は、もはや空を飛ぶことはできないが、柔らかな空気に包まれて、白い体がほのかに発光しているようである。隣室には、島袋道浩の自身の姿をした凧が空を舞う映像《飛ぶ私》(2006)──それは、しばしば頭からまっさかさまに落下する、空に舞う魚たちの写真《When Sky was Sea》(2004)など、澄んだ青空を背景に、詩的なユーモアと抒情性が心地よく広がる作品がある。メインスペースの片隅には、小さなバケツの水面に花火の映像が映る、志村信裕の《bucket garden》(2012)が置かれているが、それは色とりどりに変化し明滅する光を両手に抱え込んだような、いつまでも眺めたくなるいとおしさがある。「この星のうえで」と名付けられたコレクション展は異なっているけれど、それぞれがこの世界を照らす小さな光であるような、孤高でやさしくひそやかで、しかし未来に向けた希望を感じさせるものであった。
それらの作品のかけがえのなさは、同敷地内で開催されていたIZU PHOTO MUSEUMのコレクション展「ふたたびの出会い」の写真と重ね合わせても、さらに強まるものであった。写真は過ぎ行く一瞬を写し取り、つねに時間や死の観念と結びつく。野口里佳の影の中のプリズムの光、荒木経惟や古屋誠一のいまは亡き妻をとらえた日常の写真、制作者の知れない大切な人を偲ぶために毛髪とともに収められた19世紀の写真ジュエリー。現代の写真家のものに加えて、無名の撮影者や職人による遺影や風景写真を収集し、ともに展示するあり方は、写真という媒体についてより深くとらえることのできる、この美術館独自のものである。
コレクションは、美術館の個性そのものになる。しかし、美術の歴史や作品に対する客観的な評価を考慮しつつ、組織として収集を進めていく公立美術館では、ある通底した色合いを持つコレクションの形成はなかなか難しい。だから、ちょっと足を伸ばしてこうしたプライベート・ミュージアムを訪れることは、いつもとても贅沢で特別な時間になる。