キュレーターズノート
伊東宣明《芸術家》
中井康之(国立国際美術館)
2013年06月15日号
冒頭から私事になるが、美術館での業務とは別に、京都市立芸術大学で批評論を講じて十数年となる。批評論という題目であるが、たんにメタ的に論じているわけではない。実技系の学生でも知っておいたほうがよいと思われる近代以降の基本的な批評文を読み説くという授業である。
ボードレールのサロン評によって批評における近代を説くところから始めて、次にグリーンバーグの批評に対するポロックの作品による応答などを見ていくという内容である。ただし、そのグリーンバーグの「モダニズムの絵画」を解読していく過程では、多少なりともグリーンバーグがなぜこのような分析的な評価を行なったのかを考えてもらわなければならない。その方法論をグリーンバーグはカントの批判哲学から学んだうえで、「モダニズムの絵画は、他には何もしなかったと言えるほど平面性へと向かった」という推論に至ることを理解してもらうわけである。
唐突にこのような大学での講義を反芻したのは、今回、取り上げる伊東宣明の《芸術家》という47分ほどの映像作品を見ているときに、素朴に、グリーンバーグ流の観点による「映像作品」に「特有であり独占的である効果」とはなんであるのかを考えることになったからである。それは、たまたま授業で「モダニズムの絵画」を解読している時期であったことが前提となっているのだが、伊東の映像作品のなかの主人公(というか、この作品のなかには、撮影者であり監督である伊東の声以外は、徹底して、主人公となった女性、岡本リサさんしか登場しないのであるが)が、「芸術家十則」という、過去の著名な芸術家が唱えた芸術家としての信条のような文書を伊東が恣意的に集めて編集した標語を唱えていたことも、グリーンバーグの「モダニズムの絵画」を思い起こす呼び水になったことは間違いない。この二者を、同列に扱おうなどという大それた意図は毛頭ないことは最初に断っておこう。ただ、グリーンバーグのその論文も、形式として、最初に結論を述べたうえで、その後、美術史的な論証を縷々重ねて、絵画が平面に向かうことをパラフレーズしている。わたしは授業で、時間をかけてその解読を行なっている最中だったので、この伊東の映像作品のなかの主人公に図らずも感情移入していたのかもしれない。
伊東のこの作品は、自らが新人研修において体験した、仕事をするうえでの行動規範となる「仕事の十則」を絶叫しながら一定の時間内に宣言するという事実をもとに、そのシナリオがつくられている。伊東は、美術大学を卒業した作家予備軍ともいえる女性に、さきに述べた「芸術家十則」を暗誦させる過程をドキュメンタリー風に映像によってスケッチした。ごく素朴に言えば、非合理としか言えないそのような行為によって、伊東が経験した達成感や他者との一体感の高まりなどといった心境の変化が起こるか否かを、一般の営業職以上にその他者との関係性が乖離していると思われる芸術家ヴァージョン(過去の芸術家の信条と芸術家になるという心情的なものの変化)で表わし出そうという図式である。伏線として、その主人公が芸術大学への道を選ぶようになるまでの独白のような箇所もあるが、中心となっているのは、「芸術家十則」を繰り返し唱える行為である。それは、最初は辿々しく、次第に一つひとつ覚えながら、やがて制限時間を僅かに超えながらも完全に暗誦し、遂には時間内に遂行することになる。このあたりは、実際にそうだったかもしれないし、編集上そうしたのかもしれないが、この女性はやり遂げたという感情を、映像を見る限りでは十二分に出していた。さらには、この不条理な行為をやり遂げたあとに、当初は作家への道を歩むか否かを悩んでいた筈であったのが、事後には、作家の道を取りあえずは選択しようという発言をうながすという落ちまでついている。
そのようなストーリーは、素朴ではあるがひとつの典型ではあるだろう。そして、グリーンバーグに言わせれば「文学的」なものであり、「映像」を自己-批判的に成立させるために資する条件には成りえない。ただし、女性の発言を削除し、やり遂げたという表情のみを映像によって表わし出すという手法は、「映像」の独自な表現と言えるかもしれない。自由意思を勝ち得た成人した人類に、ある不合理な行為を行なうことを課しながら、完遂したときの表情というのは、異なる民族間においても、かなりの確率で同様の意味を読み取ることができるのではないだろうか。ただし、これはドキュメンタリーであることが必要条件となるだろう。そのストーリーのようなものがシナリオ上のことであった場合には、最後の表情も含めて演劇と同様になってしまうからである。さらに厳密性を問うならば、さまざまな演劇作品を知っている現代人が、カメラが回っている場で、なにも演じていないということはもはやありえないのではないかという疑問も提示されなければならないだろう。
じつは、伊東は以前から、このような、人物が演ずるという行為を、極めて自覚的に映像の問題として取り上げてきた作家である。2010年に発表された《自己/他者》という作品は、ある一人の人物で“一番古い記憶を語る”人物と、“一番古い記憶を語る人物を演じる”人物の映像を撮り、それを二つのモニターで同時に映し出し、映像作品における、リアルと非リアル(演技)とを見分けることの不可能性を提示した。これは見分けることの不可能性ばかりではなく、演じることの不可能性も示しており、延いては判断することの不可能性ということにも及ぶことになる。このような試行を経て制作した《芸術家》もまた、リアルと非リアル(演技)を問うことの不可能性を前提としていると考えるべきであろう。
しかしながら、ここで唱えているのは「芸術家十則」であり、最後にさらに論理の飛躍が用意されているのはあまりにも常套的過ぎると考える向きもあるかもしれない。冒頭でグリーンバーグを語りながら、最後には「ハリウッド映画の法則」よろしく急劇な変化でまとめるのですかと言われるかもしれないが……。しかしながら、どう言われようとも、《芸術家》の最後のシーンは、「リアル/非リアル」を超えて十分に衝撃的なのである。この女性は、幼い頃から虫を飼うことが好きだったわけではないが、自己を奮い立たせるために虫への恐怖心を克服し、いまは、あのゴキブリを飼っているのだという。そのゴキブリに装飾物をつけて這わせているだけでも十分に映像として強度があるのだが、作家を志したその女性は最後のシーンで、その装飾されたゴキブリを口の中に這わせるのである。これは、芸術家になるという覚悟を視覚化すると、このような正視に耐えないようなショットになるという、究極のプロットかもしれない。伊東が、追求しているのは、このような映像表現によってのみ実現されるリアルであるのかもしれない。