キュレーターズノート
「久留米・石橋美術館 撤退問題」、「鈴木貴博 生きろ美術館展」、「成田亨 美術/特撮/怪獣 ウルトラマン創造の原点」
山口洋三(福岡市美術館)
2014年08月15日号
今回の学芸員レポート、いつものようになにかしら展覧会のレビューとか自分が企画中の展覧会企画のことなどを書こうとのんびり構えていたところに、衝撃的なニュースが飛び込んできた。福岡県久留米市の石橋美術館を運営してきた石橋財団が、2016年9月末をもって、運営から撤退。所蔵品960点を、同財団運営のブリヂストン美術館(東京)に移す、というのだ。事実上の石橋美術館「閉館」である。
本件については、今回読売新聞西部本社のご協力により引用させていただく白石知子記者の7月12日付の記事をお読みいただきたい。西部本社版の紙面でのみ読めて、ネットには出ていないので、九州以外の読者が読む機会は限られる。だからあえて全文を引用させていただいた。東京の人間からすれば、このニュースは歓迎こそすれ反対する理由はなにもないから、報道価値は低いものに違いないが、たとえ国内ニュースといえ、地方と東京とではその価値がまったく異なることがあるということを、artscapeの読者にはわかっていただきたい。
石橋美術館といえば、青木繁《海の幸》、藤島武二《天平の面影》(いずれも重要文化財)のほか、坂本繁二郎の主要作品など、九州、とくに福岡・久留米にゆかりの深い日本近代の画家の作品を多数所蔵していることで知られている。明治美術の研究を志す者ならば必ず観覧しなければならない美術館のひとつである。企画展としても、青木や坂本のほか、久留米出身の古賀春江、そして最近では2011年に初めて現存作家の個展として野見山暁治展を開催してきた。九州どころか日本の公立美術館にはるかに先駆けて1956年に開館。もう60年近くにわたり、久留米の地で九州ゆかりの美術を見つめてきたわけで、私立美術館とはいえ、事実上の「公立美術館」としての存在感を放ってきた。この「存在感」が、なによりも地元の美術界において重要なのである。
引用の紙面によれば、撤退の理由として、同財団は「公益財団法人化に伴う全面的な事業見直しの結果(…中略…)収蔵品を東京で一元管理するようにしたい」とある。しかし私にはまったく意味がわからないし納得できない。久留米と東京に分散する所蔵作品を一カ所に集めようというわけだから、ようは「効率化」ということではないだろうか? 少なくとも私はそう考えざるをえない。無論、あらゆる面で「効率化」が叫ばれる状況なので、一公益財団法人の一般的な説明としてはこれが無難な「回答」ということになるだろう。
しかし、私が先に書いた「存在感」に関して、石橋財団はどう考えているのだろうか。《海の幸》や《天平の面影》を、月に一回は見に行くほど、私は熱心な明治美術研究者でもファンでもない。そしてたいていの美術愛好家はそうしたものだろう。だがいつ行っても、あの作品が見られるというのが、本当の意味での「常設展示」であるのだから、石橋美術館は、(これまでも、そしていまも)九州の地でもっとも優れた作品を常設展示している美術館なのである。そのことの「安心感」──これは先の「存在感」にもつながるのだが、久留米に石橋美術館あり、という事実──により、どれほど多くの地元美術愛好家、関係者、作家たちが、自らの文化風土に対して誇りを持てたか。さらに、私が危惧するのは、これまでの石橋美術館学芸員たちが築き上げた地元美術(家)の研究の蓄積をどうするのか、見えないことである(これは残念ながら白石記者の記事からもわからない)。運営から撤退し、作品を引き上げるということは、たんに物(作品)の管理の問題にとどまらない。所蔵作品とその美術家、それらと地域の結びつきについては、その地で研究を重ねないとわからないことも多い(20年間福岡市で働いた私の実感)。
つまり、「一元管理したい」という石橋財団の意向は、東京から見れば理にかなったものであろうが、かたや久留米においては、過去60年のあいだに培われてきた地元文化への誇りと、研究の蓄積を同時に失うことになりかねない。これは、物(作品)がその場から姿を消すこと以上に大きな精神的・文化的な損失なのである。そしてこうした文化的な土壌は、なによりも、石橋正二郎の美術への愛、久留米への郷土愛の賜物であることは間違いないだろう。石橋財団は、自ら築き上げた地域の文化的な蓄積を自ら破壊しようとしていることにつながらないだろうか。そうではないというならば、石橋財団は、もっとわかりやすい、納得のいく説明を、久留米市民のみならず、九州の住民に向かって、語っていただきたい。引用の記事中の説明のままでは、石橋財団は、結局は「地方軽視=東京中心主義」に流れてしまった、と結論付けられても仕方がない。少なくとも私には、そうとしか思えない。
学芸員レポート
福岡市美術館では、「鈴木貴博 生きろ美術館展」がスタートした。鈴木といえば、知る人ぞ知る「生きろ」の人。紙片に「生きろ」とひたすら書き続けるその姿を、私が始めてみたのは1999年のこと(それ以前のエネルギッシュな活動については、いまはなき雑誌『FREAK OUT』で知っていた。それは1995年のこと)。ストイックにしてエネルギッシュなその姿に、思わずわが身のありようを省みたことが忘れられない。
近年の鈴木は海外でのレジデンスや展覧会参加が多かったが、最近では能勢電鉄と共同して、「銀河鉄道の夜」の世界観を思わせる架空の駅と線路《北極星入口》を制作したり、数多くの絵画を制作していたりと、従来の「生きろ」と書(描)く作品からの拡張が見られる。しかし私は思うのだが、美術にメッセージがあるとすれば、それは究極のところ「生きろ」しかないのではないか。美術のそういう原初的なところから、鈴木は表現を立ち上げている。このように表現の「原点」が見える作品や作家に、私は惹かれることが多い。鈴木の作品やその活動を見ていると、一見あり余った情熱をたたきつけているように見えて、実はしっかりと欧米の現代美術の方法論を見据えている。洗練と情熱は、両極にあるが、この両極をしっかりと握り締めている作家はそう多くはない。
さてこの展覧会では、鈴木に1カ月間の滞在公開制作を依頼した。展示室の中央で、鈴木は毎日「生きろ」と書き、そして絵画を制作している。私自身が、美術作家のレジデンスによる美術館空間の活性化に(かなり前から)興味があったことと、鈴木の活動に関心を持ち続けてきたことがうまく結びつき、今回の企画となったわけである。考えてみたら、その構想を得たのが、2002年の約4カ月間にわたるアメリカ研修(アジアン・カルチュラル・カウンシルによる助成)で、鈴木に初めて会ったのがその翌年であったから、ある意味「構想10年」(苦笑)。
まあそれはともかくとして、今回の展覧会は鈴木の作品を回顧する内容にもなっている。壁面には、これまでの「生きろプロジェクト」のドキュメント写真と「生きろ」の文字を元に描かれた絵画、ドローイング作品を展示。一方で、ここ数年で描きためたF20号大の絵画を37点展示した。そのほかに、小学校時代の落書き(笑、小中学生に大うけ)から、世界各国を渡り歩いた鈴木らしい、各地の収集物。そしてこれまで書き溜められた「生きろ」の紙片(これでも一部!)。さらに館外にはワークショップでつくった「生きろTシャツ」がはためき、ロビーにはアクション・ペインティングによる大型絵画に映像ドキュメント。滞在中にワークショップや講演会も計画。出品作品数共々まさに盛りだくさん。この鈴木のエネルギーに、見る人は圧倒されることだろう(ああ、また展示作品が多くなってしまった……いやいや質=量です)。余談めくが、美術作家はやはり「稀人(まれびと)」である。いつもはそこにいない人が、しばらく滞在することで場が活性化する。それはお客さんだけでなく、美術館スタッフも。もちろん美術家のキャラクターも重要で、鈴木はまさにその役割にぴったりなのであった。鈴木は9月7日まで福岡市美術館企画展示室にて公開制作。9月6日には「第5回福岡アジア美術トリエンナーレ」が開幕。タイミングが合えば、アジア作家との交流も生まれるかもしれないと、(ちょっと)期待している。
鈴木貴博 生きろ美術館展
鈴木貴博ウェブサイト
さて、この欄で青森県美の工藤健志氏とともに交互に書いている「成田亨 美術/特撮/怪獣」展は、去る7月19日に富山県立近代美術館で開幕した。絵画や彫刻などいわゆる初期作品から晩年のモンスターを主題とした作品や特撮映画の資料など多岐にわたる総点数700点(ああ、また展示作品が多くなってしまった)。見所は多いが、artscape読者に対しては、青森県美所蔵の成田作品、つまりウルトラ関係の原画全187点を一堂に並べた点を強調しておきたい。美術批評家の椹木野衣氏がかつて水戸芸術館現代美術センターにおいて企画した「日本ゼロ年」が、成田のウルトラ関係の原画を「美術」として展示したのが1999年。正直いって、このとき、私は椹木氏のいう「リセット」の意味を本当の意味で理解していなかった。だが、今回の成田展の準備と図録の編集を通して、私は次第に椹木氏のいわんとすることが理解できるようになってきた。成田亨は根っからの画家であり彫刻家である。それはまずその卓抜した造形センスに垣間見えるのだが、これは「サブカルチャー」のカテゴリーがフィルターになってしまい、それを「造形」と見るのを私に躊躇させてしまっていた。このフィルターを取り払ってくれたものは、成田が残した作品の膨大さであった。未発表のまま残された、ぬいぐるみ造形を度外視した数々の怪獣デザインは、まるで実現不可能な彫刻のエスキスのように見えたし、次々に現われる没企画の原稿類はマニアでなくても陶然となる。そして多数の油彩、アクリル画。これらのほとんどには、それまでに彼がデザインした怪獣や超人、そして超兵器が描かれているのだが、はたしてこれらを「イラストレーション」と片付けてしまっていいものかどうか。つまり、ジャンルの狭間に落ち込んでしまった表現者の悲劇を、この多数の作品に垣間見たのである。この「ジャンル」こそが、いわゆる「制度」なのだ。700点という数は、なにも闇雲に数を多くしたかったからではなく、そうした「制度」を相対化するためには、「質=量」で見せることが必要だと感じたからであった。
さて理屈はこれくらいにして、富山会場の前日内覧会では、担当の三木敬介学芸員が予定時間を超過したギャラリートークを披露(いつのまにか立派になって……)。初日には、成田亨に長年付き添った妻の成田流里氏、そして息子のカイリ氏によるトークが開催された。肉親ならではのエピソードのなかに、表現者としての苦労をしのばせる内容で、聴衆を惹きつけていた。すでに某有名ネット書店で星五個の栄誉に浴している作品集は、税込5,400円と高価であるにもかかわらず、順調に売れており、この文章準備中に第二版の発行が決定した。とりあえずはマニア筋の人たちの関門はくぐったかと一安心。巡回期間中にいずれかの美術館で購入すると、特典として「ヒューマンサイン(復刻版)」が付属。作品集の詳細は羽鳥書店ウェブサイトを参照いただきたい。ゴジラ生誕60周年に、(偶然にも)成田展と作品集を世に問うことができ、タイミングばっちり。今夏は、いやもしかしたらこれからは研究主題として「特撮」がアツい!(かもよ!)