キュレーターズノート
「札幌国際芸術祭」/「ヨコハマトリエンナーレ2014」/「福岡アジア美術トリエンナーレ2014」/「更紗の時代」/「成田亨──美術/特撮/怪獣」
山口洋三(福岡市美術館)
2014年11月15日号
この夏から秋にかけて、国際現代美術展が重なった。札幌国際芸術祭、ヨコハマトリエンナーレ2014、第5回福岡アジア美術トリエンナーレ2014。はたして、三つとも観覧した方は日本にどれくらいいらっしゃるのか? 今回は対談形式でレビューします。
札幌国際芸術祭:「都市と自然」──北海道の歴史、土地の記憶
Y──さすがに札幌は無理かなーと思っていたら偶然にも行く用事ができ、観覧できた。横浜はイベントを狙って行って来た。福岡は地元なので言うに及ばず。
y──どうでしたか?
Y──個人的には、最近こうした国際展にはちょっと食傷気味で(っていうほど見てるわけではないけど)、昔に比べたらかなり興味は薄れている。それでも今年、遠く離れた札幌や横浜を見に行きたいと思ったのは理由があって、札幌のほうは、福岡市美術館の所蔵作品であるアンセルム・キーファー《メランコリア》を貸し出したから。飛行機の形状をした、4メートルを超える立体作品。借用依頼が来たときは正直ひっくり返りそうになった。いま福岡市美にいる近現代の学芸員4人は、自分も含めてみんなキーファー作品の収集後に就職したメンバー。「え、分解できるの?」ってまずそこから確認することに(笑)。幸い、組み立てマニュアルが残されていたので、無事に貸し出しも行なえた。もう返却されているけど、箱に入れたまま収蔵庫に収めている。次の展示は数年後のリニューアルオープンのときだね。
横浜のほうは、やなぎみわ、大竹伸朗といった、かつて自分が深くかかわり、いまも親交のある作家が、かなり大きな扱いで出品されていると知ったからだね。やなぎの移動舞台トレーラーのことは本人から聞いていて……彼女は、僕の初企画展「あぁ、『日本の風景』?」(1996)に中ハシ克シゲとともに出品してもらった思い出深い作家。もう18年も前のこと。あのときは「エレベータガール」の写真作品だったけど、いまになってまさか演劇にはまり、さらに移動舞台トレーラーまでつくるなんで狂気の沙汰としか思えない(笑)。大竹伸朗も「全景」(東京都現代美術館、2006年)、「路上のニュー宇宙」(福岡市美術館/広島市現代美術館、2007年)以来のつながり。彼はその後、2012—13年にかけてドクメンタ、ヴェネツィア・ビエンナーレと海外の展覧会出品に加え、瀬戸内海の女木島、そして高松・丸亀での個展、さらに今年はロンドン・パラソルユニットでの個展と、息つく暇もないほどの活躍ぶりだ。じつは、今回のロンドンの個展には、福岡市美術館から《WEB》を貸し出した。ヨコトリ出品作《網膜屋/記憶濾過小屋》は、ドクメンタ出品作の《モンシェリー》につながる作品と言える。小屋、巨大なスクラップブック、大量の写真……最近の大竹作品は巨大化しているね。時間と空間をふんだんに使った大竹伸朗の大プロジェクトが見てみたい。
y──キーファーに大竹と、今年の作品貸し出しは難易度高かったみたいですね。札幌に戻りますけど、ゲストディレクターに坂本龍一が起用され、テーマは「都市と自然」でしたね。
Y──このテーマ、凝ったネーミングじゃないので最初すごく平凡な印象を受けた。まあ事前にガイドブックもいただいていたからちゃんと予習すればよかったんだけど、いつものとおりぜんぜん読んでなくていきなり会場入りしたもんで。雄大な北海道の自然と札幌という大都市の対比かな、くらいの気持ちで会場をめぐってた。「都市」と「自然」じゃなくて、「自然→都市」。つまり江戸末期以降、日本が近代国家としての出発を始めたころ、蝦夷地と呼ばれていた北海道にはいわば「自然」しかなく、そこに近代化が押し寄せてきた。「都市と自然」とはつまり、この歴史を指している。これに気がついたときに、急にこの展覧会が立体的に見えてきた。岡部昌生のフロッタージュによる壮大なインスタレーションは、夕張の炭鉱をテーマとしたもの。フロッタージュという手法自体は単純なのだけど、これを視覚的・空間的に仕立て上げる彼の手腕にはいつもながら脱帽するほかない。スボード・グプタの日用品を寄せ集めて巨大なきのこ雲のような立体はすごい迫力で、隣に展示されたキーファーの《メランコリア》に匹敵してた。工藤哲巳も入れてわずか4作家で、北海道立近代美術館の1階会場を埋めるという展示構成が大胆。でも2階に上がると、ほぼ「中谷宇吉郎リスペクト」で染まっていてちょっとバランスが悪いかな。アーティストでもなんでもないんだけど、ローカルな文脈で重要な人物の紹介をいかに美術的に行なうかというあたりはキュレーターの手腕だね。同じことは、北海道庁赤れんが庁舎(旧北海道庁)での伊福部昭・掛川源一郎の特別展示にもいえる。伊福部の音楽といえばどうしても「ゴジラ」を思い浮かべてしまうけど、そのルーツを知ると少し違って聞こえるかも? 写真家の掛川は、アイヌの生活を捉えた写真を多数残した。これだけでも大展覧会になりそうな内容で、北海道の歴史とアイヌは切り離せないと改めて意識した。
y──でも「都市と自然」というテーマをはっきりと意識させたのは、じつは山川冬樹の作品だったんでしょう?
Y──チ・カ・ホでの展示だったね。札幌の地には豊かな地下水脈がかつて存在し、「メム」と呼ばれる湧き水もあったとか。まさに自然の上に都市がある。山川は、かつての水路をカヤックで自らたどった行為を映像記録と実際に使ったカヤックとで示していた。たんに時間の水平な流れだけでなく、垂直な堆積を意識させるものだったと思う。しかしチ・カ・ホを通る人たち、歩くの速すぎじゃないか? 高速で直進する人が多いから何度もぶつかりそうになった。地下水脈ならぬ地下人脈(笑)。
y──つまり、「都市と自然」というテーマと作品は北海道の歴史、つまり土地の記憶に直結する内容だったというわけですね。この芸術祭、継続されると聞きましたけど、このテーマは変えないで掘り下げていくと、北海道ならではの展覧会に成長するかもしれませんね。
札幌国際芸術祭
ヨコハマトリエンナーレ2014:さまざまな「忘却」/裏テーマとしての「だめ」
Y──都市化が進むにつれ忘れられる記憶。つまり「忘却」、ということで、「ヨコハマトリエンナーレ2014」のテーマにつながる。
総合ディレクターの森村泰昌は、テーマとなる「忘却」に幾通りかの意味を重ねているね。忘れてしまったこと、忘れられたものへのまなざし、忘れることの怖さに忘れることの大事さ……。でも一番共感したのは、「だめ」感。僕がヨコトリを観覧したのが10月11日。その日の夕方の、森村×都築響一対談(司会:やなぎみわ)での発言で、この「だめ」が裏テーマだったと明かされた。これは10月10日発行の図録にも書いてあるよ。
y──「すっかりだめな僕たち展」ってなんか聞いたことあるような?
Y──1971年11月に京都市美術館・京都書院で開催されたグループ展。なんか情けない名前だけど、「すっかりだめ」っていうあたり、学生運動が沈降して陰鬱な気分に満たされていた当時の若者の時代感覚を反映しているそうで。「福岡現代美術クロニクル1970-2000」を企画したときに痛感したけど、1970年代は現代美術の闇の時代だ。出品作家を見たら、植松奎二、野村仁に狗巻賢二に郭徳俊に水上旬……。
y──この展覧会名称を聞いたことあるようなないようなと思ったのは、その作家たちの略歴をどこかで見たからかな。たぶん「1970年──物質と知覚」の図録(1995)。いまこの図録見たら年譜にちゃんと「すっかり〜」のポスター画像が引用されてました!
Y──「だめ」感は、かいつまんで言えば、時代精神と作家個人の思いのズレ。そこから生まれる批評精神がおよぼす感動のこと。というと立派だけど、ようするに、わけのわからない作家の行ないに、「なにをこんなアホなことを……」とわれわれに心底思わせること。
y──福岡道雄の《何もすることがない》って、ローマン・オパルカの強烈なパロディですね……。あと、やなぎみわに、大竹伸朗に、松澤宥……も、かな?
Y──「なにもすることがない」って延々彫りこめるか? 台湾で舞台トレーラーつくるって一体いくらかかったの? 廃品や写真の塊からどうして蒸気が噴き出す? プサイの部屋って意味不明……って「ようやるわ」では済まされない! 「だめ」の批評精神は「忘却」というテーマとも通じているけど、たとえば「第4話:たった独りで世界と格闘する重労働」や「第6話:おそるべき子供たちの独り芝居」のように、芸術家の孤独で、世間に背を向けるあり方もここで提示しているね。社会に向けて有用なメッセージを発する作品とコーナーがある一方で、なんのメッセージもなく、ただ「アホなことしている」「だめな」作家たちがいる。むしろこういう作家にこそ、人間の、そして芸術の根源があるのでは、ということかな。そして森村自身がむしろ芸術家のそういうあり方に強い共感を示している。「忘却」に抵抗するメッセージを発する姿勢も大事だけど、それだけだと時代の波に巻き込まれる恐れもあるからね。
y──美術作家はいかに自らの生きる時代に向き合うべきか、そして背を向けるべきか、その両方を問いかけているようですね。