キュレーターズノート

メルド彫刻の先へ[彫刻と記録]/「Art Meets 02 大西伸明/相川勝」/「小泉明郎:捕われた声は静寂の夢を見る」

住友文彦(アーツ前橋)

2015年04月01日号

 アーティストは作品をつくるだけでなく、見る者の体験もつくる。学芸員は展覧会づくりを通して、作品が時間や空間に関わることにつねに意識を向けているはずだが、アーティストがつくる時間と空間の体験から、美術館における鑑賞体験を振り返ることも少なくない。どんな作品であってもそれを取り巻く時間や空間に目を凝らすと、一個人がつくり上げた作品を超えて、歴史や他者と美術がどう関わり合うのかを考えさせられる。

固定や管理から逃れる

 「メルド彫刻の先へ[彫刻と記録]」と題名が付いた展覧会が、アーツ前橋と前橋駅の中間くらいにある、大通りから裏手にはいった古い建物のなかで行なわれた。そこは前橋文化研究所と呼ばれているのだが、前橋文化服装専門学校が持っている建物で、かつて前橋文化語学研究所として設置された。いまはほとんど使われることのない場所を、学校の評議員をしている白川が時々展覧会のために使っている。だから、アートスペースとして運営されているわけではなく、誰かが展示をしたいときだけ利用され、公開されている。「メルド彫刻の先へ」展は、観客が見に行くときに電話をして開けてもらうアポイントメント制だった。
 外観はなんの変哲もない古い建物である。入り口には素っ気なく、1階に白川、2階に冨井の作品があることを示す手書きの紙が貼られている。少し進むと1階の小部屋のなかで白川の作品を眼にする。床は少し軋む音がするが、壁は白く塗られた展示壁で1面だけ外光が入るこじんまりした部屋である。内装は、かつて高崎の美術予備校で講師をしていていまは埼玉県本庄市に拠点を構えている柳健司が中心になり地元のアーティストたちが手掛けた。右手には、カラフルな紐や歪んだ針金が輪っかになって壁に設置されている。その反対側には、アイロン台や手すり、あるいはピンクの光を放つ蛍光灯が同じく壁に配置されている。正面の床には、クランプでまとめられたパネルと円柱の資材がキリンのような形をして窓の外を向いていて、なんだか可笑しい。すべてホームセンターで手に入る素材が、その形は変えずにまるで宙にドローイングでもするかのようにして組み合わされている。2階に上がると、三面がガラス窓の大きめの部屋がある。正座する格好で床に寝転ぶ男性の写真のプリントが重しによって直接敷かれ、無地の買い物袋がふたつ上下に組み合わされた直方体、その奥の彫刻台の上にはこんもりと古布の塊のように軍手がまとまって置かれている。さらにその横には金網が窓ガラスに立てかけられ、たくさんのフォークに挟まれた新聞紙が床に置かれている。などなどとそのような具合で、選ばれた物たちが組み合わせされ、収まるべき場所に鎮座している感じがする。


白川昌生「メルド彫刻の先へ[彫刻と記録]」展展示風景
Photo: Shinya Kigure


冨井大裕「メルド彫刻の先へ[彫刻と記録]」展展示風景
Photo: Shinya Kigure

 この二人の展示を見るのは、まるで詩を読む、あるいは眺めるような体験だった。特別ではないありふれた素材が、丁寧に配置されている作品を見ると私はいつも詩を読む体験と似通っているように感じる。たぶん、それは私だけでないだろう。Facebookを書くのにも、事務文書を書くのにも、手紙を書くのにも使われる言葉を使いながらも、意味を伝達するだけでない方法で詩人は紙面に詩を記す。白川と冨井も私たちに馴染みがある素材を自由に扱いながら、特別な加工をすることなくただ並べることでそれまで知らなかった物の姿を見せてくれる。ただ、白川が置くものには揺らぎや運動があり、有機的なつながりを感じる。いっぽうで冨井が置くものは厳密な居場所を持ち、言ってみれば具体詩のようだ。
 それにしても、この展示空間の床や壁が、展示されている真新しい作品とよくなじむように感じられるのはなぜなのだろう。誰かが何度もパテ埋めし、何度もペンキを塗り重ね、散らかった材料の切れ端や木粉を掃除し、展示プランを考えるために留まりつづけるといった行為の跡が拭い去られず、あちこちの凸凹とした質感をかたちづくっているからだろうか。まるで寺社の庭園のように、人の手を入れながら時間が積み重なっているように感じられる。この使い込む感じが美術館の展示空間ではなかなか見られない。
 それは、不特定多数の来場者を想定した施設が、十全な管理を徹底するからなのだろうか。そこでは当然監視や案内サインなどが同じ目的で置かれる。前橋文化研究所で冨井の作品を観客が見るとき、物は触られ置き換えられる可能性もある。もちろん、そうしたことは作者の狙いではないにしても、接着や加工をされず規則的に配置されていることはそうした可能性を潜在させていると言えるだろう。私は先のユミコチバアソシエイツにおける冨井の個展冊子に、既製品を接着も加工もしないために部分が交換可能であるという特徴は、作品が固定され管理されることを逃れるという内容のことを書いた。作品とその名称や作者が1対1の関係によって固定されることを回避できる。実際に彼がそれを望むのかどうかは別にして。少なくとも、この展示環境においてこそ冨井の作品が持つ複数性、つまり部分の交換可能性という特徴が直感的に感じ取れる気がした。

芸術の属性ではなく、交渉によって獲得されるもの

 このことは、監視がいないから作品に触れられるとか、置き換えも自由だとか、という鑑賞者の側から考えられた自由だけでなく、そもそも表現の実験、そのための自由はなにによって支えられているのかについて考えさせられる。芸術表現の自由とは、いつでもどこでも同じ不変のものと信じられているが、実際には違う。白川も冨井も従来の彫刻が持つ形式を更新させ、もっと自由な表現を模索している作家である。冨井の同じ作品が美術館に置かれても、前述した部分の交換可能性は鑑賞者が感じ取りにくい特徴ではないだろうか。そこでは、作品とは管理の都合上、作品は固定され、形が変わることは想定されていない。いまのところ、冨井も展示のための指示書を作成しているが、基本的に他人ではなく自分が展示することで作品を発表してきている。しかし、前橋文化研究所の展示ではその作品の可変的特徴が見る者にも十分に伝わるものだったと思える。もちろんここだけが特別に可能だったわけではなく、彼自身はこれまでもそのような場所を選んできたはずである。
 また、この二つの展示は見事にあるべき場所に物が配置されているように感じる。それは、おそらく作品を見る者がその空間に想像されているからだと思う。つまり、作品がどのように見られるかということがあらかじめ想定され配置を考えている。作者のなかには作品と向き合うまだ見ぬ他者がそこにいる。使い込まれた空間とまだ見ぬ鑑賞者とのあいだに作品を置くことに鋭敏な感覚を働かせることが可能なのは、それを自分で把握できるからである。展示空間の成り立ちや管理のされ方、あるいはそこを訪れる多数の人たちと想像上の対話ができなければ、不可能なことなのではないだろうか。
 作品が誰にも見られずとも成立するケースはないとは言えないが、作者が表現する時点でそれが誰かに見られることを想定しているだろう。それがひとりの場合もあるかもしれないし、今回のように予約制の場合もあるかもしれない。多くの人に理解不能であることや批判を受けるものであっても、それを見せたいときに限られた相手であっても展示できる場所があるのは、貴重な表現の自由を広げる機会になる。そして、同時に芸術における表現の自由は特権的に語られるべきものではないとも思う。それは不断の交渉によって獲得されるべきものであって、さも芸術の固定化された属性のように語られれば個人の感じ方の違いをむしろ抑圧することになりかねない。

表現の自由はどのように獲得されるのか

 少しずつだが現代美術鑑賞層の裾野は広がり続けている。多くの人に見てもらう努力は不可欠だが、こうした表現の実験を許容する場所はけっして増えていない。また、いまの時代背景をもとに社会や政治と結びつく表現も以前より強い関心を集め、そうした傾向のなかで表現の自由を勇ましく語る例も眼にする。そのとき、その自由はどのように獲得されると考えられているのか。あるいは地域社会に飛び出しているアーティストたちは、芸術とは異なる言説との格闘によってこの交渉の現場に立っている。そこで無力感を覚える場合もあるだろうが、表現の自由が特権的に守られえない経験はなにを芸術の側に与えているのだろうか。彫刻のあり方を問い、一見排他的にもみえるこの展示が投げかける問いかけは、確実に私たちの周りで起きている出来事にも波紋を広げているように感じた。「彫刻の先へ」というお行儀のよいモダニズム的な言葉の前に付された「メルド(糞)」という悪態が、この展示を社会や政治のほうへと向き合わせていたようにも思える。

メルド彫刻の先へ[彫刻と記録]

会期:2015年2月1日(日)〜2月22日(日)
会場:前橋文化研究所
群馬県前橋市本町2丁目18-8
参加作家:白川昌生/冨井大裕、記録:藤井光

学芸員レポート

 アーツ前橋では3月21日から新しい展示が始まった。前回は「風景」をテーマに津上みゆきと狩野哲郎に参加してもらったArt Meetsの第2回は、大西伸明と相川勝に参加してもらっている。大西は入り口をはいるといきなりテトラポッドで観客の目の前を塞いでいる。あるいはその脇には使い込まれたハイスツールやシャベルがある。それらの一部は透明な樹脂がむき出しになっている。ほとんど本物と見紛うような外見は、つまり樹脂に彩色してつくられているわけである。工業製品のようにオリジナルを反復しているように見えるものがじつは細やかに手をかけてつくられている。しかも、誰にでも見覚えのあるごくありふれた対象を選ぶことで、過去の自分の記憶を一瞬辿らせ、眩暈のような体験をさせる。そこに確実にあるはずのものがじつは実在しない、かもしれない、という揺らぎである。いっぽうの、相川はもっと個人の欲動を感じさせる。著名ミュージシャンのCDのジャケットやライナーノーツを手書きで描き、さらにその歌まで自分で吹き込む。それは、情報化社会のなかで「身の回りの物と人が段々と失われていく」(相川勝)喪失感を埋め合わせるようにしてつくられている。二人が展示しているのは、産業化や情報化が同じものを消費のために大量に産出している現代社会に、均質で平坦な装いに揺さぶりをかけ、物や情報の見かけ上の確からしさを疑うような作品である。


大西伸明《shohaburokku》2008-2014
Photo: 宮脇慎太郎


大西伸明《shaberu》2008年
Photo: 宮脇慎太郎


相川勝《CDs》2007年〜
Photo: 和田高弘

 そうした同時代を鏡のように映しだす展示が1階で行なわれている一方で、地下の展示室では小泉明郎の個展が開催されている。地下に降りていくにつれ、音と映像のなかにどっぷりと体で浸かるような経験をするのではないだろうか。まだ学生時代に制作された初期の作品から新作2点まで、小泉が何度も会場に足を運び、これまで繰り返し扱ってきたテーマ(身体、盲目、孤独、情動、母親、戦争など)によって複数の作品がつながりあい、連続した体験をするように作品が選ばれている。しかも、作品をなるべく囲い込まずに隣り合う作品から聴こえる音が響き合うことで、展示室全体を構成することが意図されている。全体で3時間程になる映像中心の展示であるため、ぜひゆっくり時間をとって鑑賞していただきたい。
 新作の二つだけ簡単に紹介しておくと、まずひとつは前橋空襲を体験した方へのインタビューをもとにしている。防空壕を模した箱の中で暗闇に浮かび上がる人物が、数多くの死者が出た防空壕で生き残った自分の体験を語る。静かで落ち着いた語りには、時折実際に目の前で起きている出来事のような話しぶりが混じり合う。なにかを語ることがその人の過去や人格をどのようになぞり、また他人とのあいだを結びつけ、あるいは孤独へ追いやる亀裂を生み出しているのだろうか。私たちはその表情をただ見つめるしかないのだが、見つめることに大きな意味もある。もうひとつは、病によって視力を徐々に失った経験をした人が、自分の記憶を文字で記したり、家族の顔を思い出して描くものである。紙を鉛筆でたたくような音、あるいは別の指で鉛筆の軌跡を確認する様子を撮影した映像が、実際に描かれたドローイングと一緒に展示されている。どちらも、かなり稀有な経験をした人物を取り上げているように思えるが、そのことに小泉の関心があるわけではなく、精神と身体の両面から人間がどのようにして自分を成り立たせているかを知る、そうした実験のような試みとして彼はおそらく作品をつくり続けている。その営みの通過点をぜひ多くの方に目撃してほしい。


小泉明郎《若き侍の肖像》2009年


小泉明郎《捕われた声》2014年

Art Meets 02 大西伸明/相川勝
小泉明郎:捕われた声は静寂の夢を見る

ともに
会期:2015年3月21日(土)〜6月7日(日)
会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel.027-230-1144

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