キュレーターズノート
クロニクル、クロニクル!
能勢陽子(豊田市美術館)
2016年03月01日号
「展覧会は、消費するのではなく浪費しよう」★1。同じ展覧会を観るのでも、消費と浪費では体験が異なる。前者は跡形もなく無くなってしまうけれど、後者は消化し切れない澱のようなものが残る。確かに展覧会が、次々に紹介されては消えていくように思えることがある。展覧会を、そして作品を、作家を、次から次へと消費し続けているのではないかと、ふと考えさせられる。「展覧会は、消費するのではなく浪費しよう」。タイトル自体が繰り返しの「クロニクル、クロニクル!」は、一度切り、その場限りのものにしないことで、展覧会の消費に抗うひとつの解を与えているようである。
それは、1年の間隔を置いて同じ内容を繰り返す、その展覧会のフレームだけによるのではない。そこでは、展示された作品が、わずかに関連したり、すれ違ったりしながら、異なる時間と場が多層的に重ねられている。だから、展覧会はただ二回繰り返されるのではなく、何度も反復し、反転し、循環するのかもしれない。
会場は、1911年創業の、近代化産業遺産にも登録されている造船所である。往時は、巨大な船をつくる人々の活気に満ちていただろう。その会場で初めに目にするのが、吉原治良の緞帳の複製下絵である。かつて造船所の掲示板だった場所に貼られたその絵は、映画や舞台など、当時の最先端文化を紹介していた「大阪朝日会館」(1926年開館)の巨大な緞帳に使われていたものだった。人々の期待に満ちたまなざしを一身に集め、夢の世界の幕開けと幕引きを告げていたその緞帳の下絵は、入口のほか二カ所の掲示板に貼られている。ここで、造船所で掲示板を確認していた人々、大阪朝日会館で期待を込めて緞帳をみつめていた人々、そしていまその絵を観ている私たちの視線が重なる。それは、時と場を超えた奇妙な視線の交差である。続いて、リュミエール兄弟の映像が壁に大きく映し出されている。展示に足を踏み入れたばかりなのに、工場から活気に満ちた人々が溢れ出してくる。そこは入口であり、出口であり、これから始まるものでもあり、そこから遡るものでもある。19世紀後半のフランスの労働者は、かつてこの造船所で働いていた人々の姿とも重なるだろう。映画はいうまでもなく光と時間の芸術だけれど、吉原の緞帳にも、放射状に光を発する太陽が描かれている。つまり光が、この展覧会の導入である。その光は、これから始まる舞台や映画を待つ人々の、そして初めて映像に写る人々の陽気な高揚と結びつきながら、展覧会全体にある明るさを与えている。この後の展示には、長い時のなかで、災害や戦禍に苦しむ人や死の影が現われもするが、冒頭で撒かれた希望の種は、展覧会全体を覆っているようである。
2階に上がると、壁一面に城郭画が貼られている。この絵を描いた荻原一青は、全国を廻って城の復元画を描いていたが、1945年の空襲の際に、妻と子ども、そしてその復元画のすべてを失ったという。戦後制作を開始するも、今度は1950年に大阪を襲った巨大台風ジェーンにより再びすべてを喪失した。そこに貼られている城郭画は、荻原がかつての記憶を頼りに三度描き直したものである。通常の美術展ではなかなか目にする機会がないこの城郭画は、いまいる会場がかつて台風ジェーンにより多大な被害を受けたこと、そして荻原のような人が存在したことを、脳裏に浮かばせる。場所と時間の重なりは本展の骨子だけれど、そこには必ずさまざまな人の生が透けてみえる。この造船所で働いていた人々、19世紀フランスの労働者、大阪朝日会館に通っていた人々、この会場と同じく被災し、それでも制作を続けた人。本展では、作品や制作と人の生は、切り離さず等価なものとして眺められる。
その先に目をやると、やはりこうした場には珍しいマネキンが、清水九兵衛の彫刻や牧田愛の平面とともに数体置かれている。これらマネキンは、労働画家であった荻原とは異なり、彫刻家達の手によっているという。それは、マネキン会社・七彩に関わった、彫刻家・大森達郎や清水凱子の手によるものであった。それを商業製品だと判断すると、途端に仔細に対象を眺めなくなる。しかし改めてそれらマネキンを観てみると、確かに表情や体の細部に彫刻家の造詣が認められる。ここでは、純粋な芸術と生活の糧のための活動を、分かたず同じ眼差しで観ることが示唆されている。
かつての造船所を軸に、100年から50年以上の時間を遡るものを、これまで観てきた。展覧会は、いまからそう遠くない、ほぼ30年前から現在の作品も含んでいる。いまを生きる作家やキュレーターは、生の身体を場に介在させる。会期中に展示がわずかに変化したり(川村元紀)、パフォーマンスを行なったり(谷中佑輔)、皆で食事をしたり、作品が撤去されたりする。現在の作家たちによって、過去と現在が再び繋げられ(高木薫)、日々新たな軌跡が加えられていく。いまに近いとはいえ、50年代生まれと70-80年代生まれの作家たちは、それぞれ興味深いクロニクルを形成するだろう。しかしここまでで、ほぼ通常のレビューの文字量に達してしまった。そのことについては、また次の機会に書きたいと思う。展覧会は、ほぼ1年後の同時期に、再び開催されるのだから。しかしおそらく、ここで重要なのは、過去と現在のどの時代の作品も人々も、時の序列を与えることなく、等しく眺めるということだろう。