キュレーターズノート
植松永次展「兎のみた空」、亡霊──捉えられない何か Beyond the tangible
中井康之(国立国際美術館)
2016年07月15日号
対象美術館
近年、日本の戦後美術を検証するような展覧会が海外において開かれることが多くなってきた。具体的には2012年2月から同年4月にロサンゼルスのブラム&ポー画廊で開催された「太陽へのレクイエム:もの派の芸術」展、同年11月から2013年2月まで、ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「東京1955-1970 新しい前衛」展、また、それに重なるように2013年2月から5月に同じニューヨークのソロモン・R・グッゲンハイム美術館で開催された「具体:素晴らしい遊び場所」展などを取り上げることができるだろう。
特にMoMAの東京展は「具体」や「もの派」といった時代を画する美術動向によってではなく、東京という地域に限定し、日本に於ける戦後の先鋭的な美術作品を包括的に紹介したという意味で画期的であった。同展は、韓国系アメリカ人キュレーター、ドリアン・チョンによって企画された展覧会であり、東アジアの文化に対する理解度が高かったとも考えられるだろう。とはいえ、そこで取り上げられたのは「実験工房」の動きや「草月アートセンター」での試み、あるいは「読売アンデパンダン」展の動向等といった純粋美術(ファインアート)分野が対象であり、海外で日本の戦後美術の一翼を担った「走泥社」や「パンリアル美術協会」といった工芸あるいは日本画の前衛的動向にまで関心が拡がることはまだ当分無いだろう。そのようなことを考えたのは、植松永次という陶で表現を行なう作家の個展「兎のみた空」を見たことによってである。とはいえ、植松の陶による表現が、「走泥社」のメンバーの誰かの表現に似ていた、というようなことではない。この連想を説明する為にも植松の展覧会を描写していかなければならないだろう。
植松永次展「兎のみた空」
植松の同展でまず取り上げたいのは、展示空間の床や壁を白で統一していた点である。白い空間を維持するために鑑賞者に対して靴を覆うカバーを用意するなど細心の注意を払っていた。そのような事例から考えても、均質的な空間を作り上げることが、作者あるいは展覧会企画者にとって重要な点となっていた。いわゆるホワイトキューブに作品群を提示し、それらをニュートラルに評価して欲しいといった意図がそこに明確に読み取れるだろう。その展示空間に、いつかどこかで見たことがあるような、いわゆる前衛的と捉えることができる表現が施されたさまざまな陶芸作品が整然と設置されていたのである。
最初に私の目に入ってきたのは陶板を折り重ねるようにして作り出された馬の頭部のような形態をした《挨拶》という作品である。その無造作な表現はピーター・ヴォーコスの「スタック」のような脱構築的作品を想像させた。また、全面にひびが走った白い陶板作品《始めの白》は、鯉江良二の「チェルノブイリシリーズ」との類似性を思い起こさせるだろう。あるいは陶土を畠状に敷き詰めた大きな作品《遊園地》は、やはり鯉江の衛生陶器を砕いて積み上げた作品「土に還る」という作品シリーズとは時間軸を逆にしたものと考えることができる。さらに、その《遊園地》に近い壁面に泥で弧を描いた作品《遊土》は、リチャード・ロングによる泥を用いたドローイング作品を類推させた。そして《時の重なり》と題された地層の断面を表したような作品は、鯉江の「淘汰-井の頭」という作品シリーズと同様のコンセプトだろう。
それではこの作家、植松永次が独自に作り出した形体はないのか、という質問が当然出てくる。独自性という基準を第一義的に掲げると難しいことになるかもしれないが、《森でみつけた土地の形》という作品は数多くの直方体の陶器によって構成されている作品で、現代陶芸における既視感はなく、そのような意味で植松永次独自の表現と解釈することもできるだろう。その原型は建築素材としての煉瓦のようなものと相似した形体であり、ミニマルなその形は白で統一され均質空間となった展示室と親和性を持つ形体であり、今回の展覧会を象徴するような作品として受け取ることもできる。
他には、陶板状の壁掛け作品、土塊としか形容できないような不定型な作品などによって構成されていた。いわゆる器状の作品は、もう一つの会場(やはり白で統一された空間)に展示された《泥筒》というタイトルの作品があるのみである。しかも、この作品はとても薄く仕上がり、いわゆる陶器としての面白みは少ない。以上の様な作品構成からも明らかなように、植松は茶陶を中心とするような伝統的な陶芸の世界とは全く異なる世界を、陶土によって表現しようとしていることは明らかなのである。
もちろん、そのような陶表現によるあらたな表現世界の構築は八木一夫を筆頭とする「走泥社」によって既に一度は達成されたものであるだろう。彼らは明治期に唱えられた「工芸=用+美」という公式を直接的に反映することではなく、伝統的な価値に囚われない造形を追求しながらも、陶芸のプロセス(土の構築-乾燥-施釉-焼成)を通して自己表現を行なうという近代美術にはない、「新しい造形の論理」を打ち立てたのである。
日本の前衛陶芸の存在は、西洋美術の体系から生み出されたヒエラルキーには取り込むことのできない要素があることは既述した通りである。その理解無しに海外へ紹介するような行為は無意味であるばかりでなく、陶芸が成立するためのプロセスが捨象され、現代陶芸の世界が一瞬にて解体するような危険性を伴うだろう。しかしながら、植松永次の今回のような試みは、それでもなお、陶芸のプロセスを一度見えないようにしたうえで、現代陶芸による表現自体を一覧化することによって、その特殊性と普遍性についてあらためて考える機会を与えるのである。以上のような思考のプロセスを経ることによって、「走泥社」に端を発する日本の前衛陶芸の世界を、日本以外の場所で紹介するための条件付けを始めることができるのではないだろうか。