キュレーターズノート

「わたし」が発するとき──
「彼女たちは叫ぶ、ささやく─ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」展

正路佐知子(福岡市美術館)

2019年06月15日号

前号で紹介した「インカ・ショニバレCBE:Flower Power」展(福岡市美術館)の会場最後を飾ったのは、《桜を放つ女性》と題された新作だった。ショニバレは本作に「女性のエンパワーメント」という思いを込めており、彫刻頭部の地球儀には19-21世紀に女性の権利獲得の運動を率い、あるいはそれらの運動に影響を与えた女性たちの名前が92名分記されていた。そのなかに、東京大学入学式での祝辞が話題となった上野千鶴子の名が含まれていたことや作品そのものの造形的なインパクトから、本作品は会期中注目を集めたが、本展来場者の反応で特に印象的だったのは、女性たちがショニバレの作品を見るなかで文字通り励まされ、あるいは社会に対して漠然と抱いてきた違和感を認識し、覚醒していくさまだった。

フェミニズム/ジェンダーを主題とする展覧会

今年、あいちトリエンナーレ2019がアファーマティヴ・アクションによって出品作家のジェンダー平等を達成したことで話題を集めているが、女性たちが自ら立ち上がり団結し、ひとつの展覧会を立ち上げているという点で、エゴイメ・コレクティヴによる都美セレクション グループ展2019「彼女たちは叫ぶ、ささやく─ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」(東京都美術館)の動きは注目すべきものである。

「彼女たちは叫ぶ、ささやく─ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」展示風景。手前は一条美由紀《私の中に居るあなた あなたたちの中に居る私》
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

「彼女たちは叫ぶ、ささやく─ヴァルネラブルな集合体が世界を変える」展示風景。手前は松下誠子《革命前夜》
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

「わたし」という意味を持つエゴイメ・コレクティヴ(egó eímai collective)は、一条美由紀、イトー・ターリ、碓井ゆい、岸かおる、ひらいゆう、松下誠子、綿引展子、カリン・ピサリコヴァ、そしてキュレーターの小勝禮子から成る。小勝は「揺れる女/揺らぐイメージ フェミニズムの誕生から現代まで」展(栃木県立美術館、1997)、「奔る女たち 女性画家の戦前・戦後」展(栃木県立美術館、2001)、「前衛の女性 1950-1975」展(栃木県立美術館、2005)、「アジアをつなぐ─境界を生きる女たち 1984-2012」展(栃木県立美術館、2012-13)と、ジェンダーの視点による展覧会を数多く手がけてきた先駆者のひとりである。小勝がこれまで「アジアをつなぐ─境界を生きる女たち」カタログ所収テキストや「日本の美術館におけるジェンダーの視点の導入について」(『イメージ&ジェンダー』vol.8、2007、pp.14−25)などで示してきたように、女性アーティストを中心とした、ジェンダー、セクシュアリティ、そして女性への抑圧を生む社会構造や歴史を問い直す作家・作品を集めた展覧会は、日本においては1990年代にようやく開催され始めた。数は決して多くはないが、昨年でいえば都美セレクション グループ展での「Quiet Dialogue: インビジブルな存在と私たち」展、東京都写真美術館での「愛について─アジアン・コンテンポラリー」などの企画が記憶に新しい。にもかかわらず、この種の展覧会が現在も新鮮に受け止められるのは、いまだ日本の社会に、そして現代のアート界にフェミニズムやジェンダー論が浸透していないからだろう。20年以上経っても一向に変わらない状況(構造)にため息をつきたくなるが、あきらめず、絶えず、問い訴えつづけることもフェミニズムの思想にとっては重要である。ここでは出品作品の一部を紹介してみたい。

エゴイメ・コレクティヴの私性と多様性

綿引展子作品。右より《家族の肖像C+M-2》、《家族の肖像C+P》、《無題》、《無題》
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

2008年からドイツ、ハンブルクを拠点に活動する綿引展子は、外国人としての、移民としての自己に意識的に制作している。最新作ともいえる「家族の肖像」シリーズは、法律上の婚姻関係によらないパートナーシップを結んだ外国人同士の「家族」から古着を提供してもらい、古着を解体しキャンバス上で再構成した作品である。縫い目から服を解体し再縫合したものをコラージュしているので、元の服の形状が想起される。《家族の肖像C+M-2》では明らかにスカートらしきパーツや色とりどりの服のパーツが見られるが、《家族の肖像C+P》では黒いトップスとデニムジーンズが2セット並ぶだけだ。名前の頭文字と古着がもつ形や気配から、その出自や性別を想像しようとしても、それはそう簡単ではない。本展ではドイツ人と日本人のカップル2組を選んだというが、より多様でたくさんの(家)族の肖像を見てみたいと思わせた(オープニングトークで綿引が、「家族」と題してはいるが家から離れて「族」でいい、と言っていたのも印象的であった)。


ひらいゆう《Entre Chien et Loup─フタアカリ》
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

ひらいゆうの作品の主題となるのは、国、虚実、生死、男女、といったさまざまな境界であるという。それは現在もヨーロッパで活動するひらいが日本を離れるときに考えることとなった自身のアイデンティティが原点にあるという。「黄昏時」を意味するタイトルを持つ本作は、夕暮れ時に部屋の中赤いランプを灯し撮影された。昼夜の狭間の光と闇が混ざり合う時間、鮮やかな青と赤の世界に写し出されるポートレート。ここでの作者の姿は、性別も人種もすべて曖昧にぼやかされる。


碓井ゆい《speculum》
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

本展最年少の碓井ゆいは2016年の作品《speculum》を今回出品している。手鏡を模した陶製フレームの中には、ドライポイントによって刷られた文字──世界の言語の一人称単数形──がはめこまれている。版画は通常、刷ったときに正位置で読めるよう彫るものだが、鏡の中の文字はすべて反転している。そのためいっそう記号のように見えるさまざまな「わたし」から、言語としてわたしが認識できるものは限られている。「わたし」と発するとき、無自覚にも自分が生きる社会だけでなく、その外に存在する社会についても言及していることにならないか。日本語のように複数の一人称をもつ言語においては、そのどれを選ぶかも、所属する社会の性質とも結びつくのではないか。小さな手鏡の中のわたしは社会の息苦しさも表わしているように感じられたが、本作を引いて見たときその景色は、数十もの複数の多様な声が発せられ始めた瞬間にも見え、どきりとした。


イトー・ターリ《私の居場所 4つのパフォーマンス記録映像》1996-2012 より
[写真提供:エゴイメ・コレクティヴ]

オープニングトークでのアーティストたちの言葉、そして各作品からは、自らが置かれた状況を見つめ直すことで、社会の要請によって押しつけられてきた役割から自身を解放し、作品を通して声を上げていこうという意思が感じられた。1990年代以降、自身のセクシュアリティや身体にまとわりつく視線を主題にパフォーマンスを行なってきたイトー・ターリは、本展会場において6月14日にパフォーマンスアート《37兆個が眠りに就く前に》を行なった。残念ながらそのパフォーマンスを著者が見ることはかなわなかったのだが、会場では過去の貴重な記録映像を見ることができる。

昨年の「Quiet Dialogue」展や同館で同時開催中の「星座を想像するように─過去、現在、未来」が、30〜40代のアーティストを中心に構成され、歴史的出来事に関する映像資料や証言を基にした作品が多く見られたのとは対照的に、本展では、幅広い年齢構成の、海外を拠点に活動していたりさまざまな理由で一度作家活動を休止し近年再開したアーティストを含むメンバーで構成されていること、作品は女性、国籍、移民、セクシュアリティなど、自身にとって切実な問題を見つめるなかで生まれた私的なものが中心であったことが特徴と言えるだろう。それはエゴイメ・コレクティヴという名称そして展覧会タイトルが示す通り「わたし」の「叫び」であり「ささやき」である。

本展会場を巡るなかで、自身について語ること、各々が語り合う場をつくること、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムの原点ともいえるスローガンをあらためて思い起こしていた。会期末にはパフォーマンスや座談会も予定されている。どのような声が聞かれ、そして交わされるのだろうか。


都美セレクション グループ展 2019
彼女たちは叫ぶ、ささやく─ヴァルネラブルな集合体が世界を変える

会期:2019年6月9日(日)~6月30日(日)
会場:東京都美術館(東京都台東区上野公園8-36)
公式サイト:https://egoeimaicollective.tumblr.com/

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