キュレーターズノート
#WeShallNotBeRemoved ポストコロナは連帯か排除か
田中みゆき(キュレーター)
2020年07月15日号
コロナ禍において、障害のある人たちが「命の選別」を危惧している。感染拡大により医療崩壊が起きたとき、障害者の命が軽視されることはないのか。今なお社会に残る優生思想から、当事者たちは危機感を訴えている。実際に、米アラバマ州は人工呼吸器が不足した場合、障害や病気のある人にはつけない可能性があるとする指針を策定し、物議を醸した(後に撤回された)。英国立医療技術評価機構が公表した救命医療の指針に対しては、学習障害や自閉症などを持つ障害者に不利な内容であると親や人権団体が抗議し、後に修正された。
「選別」は、芸術文化の分野にとっても無関係のことではない。新型コロナウイルスにより、それまで少しずつではあるが増えつつあった障害者の表現の機会がリセットされた。社会全体が困窮し、多数派の芸術表現はおろか生活すらままならなくなっている状況で、ポストコロナの芸術文化の復興に障害者は含まれるのだろうか。同様の危機感のもと、感染者数および死亡者数で言えばより深刻な状況にあるイギリスでは、コロナウイルスによって自分たちがこれまでよりもさらに「見えない存在」になることを危惧し、さまざまな抵抗としての芸術活動が行なわれている。
社会から再び姿を消す障害者たち
脳性麻痺の当事者であり当事者研究の第一人者である熊谷晋一郎は、コロナ禍の状況をこう指摘する。「これほどまでに急激に社会が変化すると、大なり小なり全員が障害者になったと言えます。みんな不便を感じているはずです。社会環境が自分のニーズを十分に満たしてくれない状況にあるという意味で、社会モデルの観点からすると、総障害者化が起きたのです」
総障害者化に伴い、仕事や教育、エンタメなどにおいて急速にオンライン化が進み、これまでになかった「選択肢」が増えた。それは、障害当事者が以前から訴えてきたことでもある。乙武洋匡も「あれだけ熱望したのに、あれだけ声を上げていたのに、ちっとも耳を傾けてもらえなかった。ところが、いざ『自分たち』が同じような困難に直面したら、これだけスピーディーに、これだけダイナミックに世の中は変わっていくんだなって」と皮肉を込めて言う 。しかし、オンライン化はまた別の格差を生む。ほとんどのオンラインコンテンツやプラットフォームは、聴覚障害者のための字幕や視覚障害者のための音声読み上げ、音声ガイドに対応していない。つまり、オンライン化の恩恵を受ける障害者もまた一部であるということだ。
イギリスの障害者が主導する障害者のための芸術支援プログラム、アンリミテッドのシニア・プロデューサーであり、ろう者のジョー・ヴェレントは、メールインタビューでイギリスの現状と今後の見通しについて以下のように答えてくれた。
多くの人にとって「普通」はもはや存在しないということに気づかずに、「いつもどおりのビジネス」に戻ろうとする大きな圧力が起こるだろうと思います。私は、商業に焦点を当てることによって、より「弱者」とみなされている人たちが、端に追いやられてしまうのではないかと心配しています。それはすでに起こり始めていることです。先週、グラストンベリー・フェスティバルのプロデューサーの以下の発言が記事となりました。「弱者たちは、満員で汗まみれの会場の大きなテントの中に入るのが正しいことなのか疑問に思うでしょう。しかし、弱者は比較的少数です。私は、特に屋外に関して、体格のよい健常者、若者あるいは中年の人たちが弱気になっている兆候は見かけません」と
。表面的には、これは理に適っていると思われるかもしれません。しかし、もっと深く考えてみると、その考え方がいかに差別的なものであるかに気づくことができます。もし私たちがそのようなアプローチを取るならば、私たちが平等な権利のために行なってきた50年以上の戦いに負けることになります。私たちはそれが“どちらか”ではなく“どちらも”とすることができるという事実を見失っているのです。障害者は、黒人やその他社会的マイノリティ同様、健常者と比較して不均衡にウイルスの影響を受けている。実際にイギリスにおけるコロナウイルスによる死亡者のうち約60%が障害者であるという数字が発表された
。それは基礎疾患がある高齢者や障害者が重症化しやすいというだけでなく、これらのグループが平時から貧困、リスクの高い仕事、貧しい住宅環境や衛生環境、情報へのアクセス制限、その他複数の社会構造のために、すでにリスクに晒されていることが顕在化したにすぎない。ワクチンの開発により感染が食い止められたとしても、その状況は変わらないのだ。そして、障害者がウイルスの影響を受けやすいという医学モデル的情報から、障害者は健常者よりも長期的に隔離され、社会から長期的に姿を消すことになる。障害者による表現の厚み
#WeShallNotBeRemoved(わたしたちは排除されまい)は、そういった危機感を共有するアーティストや団体によって、パンデミックへの緊急対応として結成された障害者芸術同盟である。表現方法や障害の種類を問わず、400以上の個人や団体が加盟している。目的は、コロナ禍をとおして、そしてポストコロナにおいてもイギリスにおける障害とインクルーシブなアートの持続可能な未来を確保すること。そして、芸術および障害者の危機的な時期に、ろう者、ニューロダイヴァージェント、障害者のクリエイティブな実践者と障害者芸術団体の声を増幅させること。6月9日には、オリバー・ダウデン デジタル・文化・メディア・スポーツ相に公開書簡を送り、ポストコロナの政策策定への障害者の関与、新しい文化産業におけるインクルーシブ性の向上、アクセシビリティの強化、テレワークやオンラインでのアクセスの確保を要求した。6月17日には、障害のあるアーティストによる作品の厚さと多様性を示すべく、ソーシャルメディアのプラットフォームに#WeShallNotBeRemovedおよび#EndAblism(健常主義を止めよう)のタグを付けてあらゆるジャンルの作品が数多く発信された。
また、ロンドンパラリンピック競技大会開会式の共同ディレクターを務めたジェニー・シーレイのカンパニーであり、1980年からろう者と障害者の作品を世界的に発表してきたグレイアイ・シアター・カンパニーは、コロナ禍においても障害者のナラティブを推進すべく、「Crips Without Constraints(拘束なき障害者たち)」というプロジェクトを11週に渡り開始した。
プロジェクトは11の短編モノローグに基づいたパフォーマンス動画と、BSL(イギリス手話)動画を付けたpodcastの再リリース、過去のアーカイブ写真から構成される。例えば11の短編ドラマの最終回は盲ろうのインド人女性により演じられたが、ひとりの障害者が持つ文化的・社会的・身体的背景の重なりを豊かに伝えている。Podcastも、「The Disability And......」というシリーズ名がつけられ、障害に加えRace(人種)やWorking-Class LGBTQIA+(労働者階級のLGBTQIA+)などの多層的な背景をもつアーティストの対話が収められている。それらのコンテンツはすべて手話通訳・音声ガイド付きで、書き起こされたテキストとともに公開されている。
ろう者であるジェニー・シーレイもまた、劇場の今後に危機感を覚えており、イギリス国内での劇場を再開させようとする動きについて「極端に健常主義で全く多様性がない」と訴える。「劇場がもはやアクセシビリティに支払う費用がなく、私たちの作品はリスクが高すぎると考え、ポスト・パンデミックの劇場を(リスクを排除した)快適で安全なものにしたいと望むことを憂慮しています。」
「他者」の戯画化と差別の構造
障害者と健常者により構成され、昨年日本ツアーを行ない世田谷パブリックシアターなどで上演を行なったストップギャップ ダンスカンパニーのエグゼクティブ・プロデューサーの柴田翔平は、自身の経験を踏まえてメールインタビューで以下のように語ってくれた。
イギリスで育った東アジア人として、私はさまざまな意味で人種差別を経験してきました。人種差別は歴史的にすべての社会に根付いているもので、各個人が人種のステレオタイプ化や「他者」の戯画化に暗黙のうちに同意することで、集団のなかに広まっていくものであり、この暗黙の同意が人種の偏見を潜在意識的なものにしているのです。これらの偏見は、明示的に言われたり、直接教えられたりすることがほとんどないため、微妙なものです。このような暗黙の同意が支配的な多数派の人種の中で世代から世代へと受け継がれると、それは制度のなかに閉じ込められ、社会全体がひそかに差別的になっていきます。それを脱却する唯一の方法は、自分が形成している意思決定や意見が自分の個人的・潜在意識的なバイアスに基づいているかどうかを全員が自己反省することであり、これは繰り返し行なわれなければなりません。これはもちろん疲れることであり、制度上の差別が暗黙のうちに存在し続けている大きな理由のひとつです。
5月25日にジョージ・フロイドが警察に拘束され死亡したことにより再び勢いを増したBlack Lives Matter(BLM)運動においても、警官による暴力の被害者の3分の1から2分の1が何らかの障害を抱えていたことも報告されている「Deaf Power」を始めたりといった動きも始まっている。それらは、柴田の言う「『他者』の戯画化」への抵抗とも受け取れる。柴田は以下のように続ける。
一方で、BLMには障害というナラティブが除外されがちであるという問題が指摘されている。そういった状況を受けて、#BlackDisabledLivesMatterが組織されたり、アーティストでありろう者のクリスティン・スン・キムがろう者のアイデンティティの多様性と文化的プライドを訴えるプロジェクト差別の社会的プロセスは、「他者」の特徴が人種、障害、性別、性的指向、階級にあるかどうかにかかわらず、同様の枠組みで展開されます。障害のあるダンサーと一緒に活動するダンスカンパニーのプロデューサーとして、障害者の権利と人種平等運動との間に潜在的な緊張関係があることは認識していますが、それはあまり気にしていません。BLMが支配層である多数派に、自分たちの無意識の偏見が「他者」にどのような不利益を与えているかを理解させることができれば、誰もが平等に繁栄する見通しを持てるような新しい枠組みを構築できる可能性があります。
また、BLM、障害者、その他の人権運動が一緒に働くことが最善の利益になると私は考えています。障害者の人権運動は、人種やジェンダー、その他のマイノリティの特性について、より多くを語る必要があります。単一のアジェンダで活動している平等運動は、必然的に複数の不利な背景が交差する個人を排除することになるため、ある支配者グループが別の支配者グループに取って代わられ、何らかの不平等を永続させるという現実的なリスクをもっているのです。
冒頭で総障害者化を指摘した熊谷は、いま私たちは連帯か他者排除かの岐路に立たされていると指摘する。海外におけるこれまでの抵抗の歴史に裏打ちされた障害者による表現の多様性や厚みは、「他者」へのまなざしの多層性を顕在化させ、表現をとおして社会構造に対して連帯する意義を改めて示している。つまり、手話通訳や音声ガイド、字幕といったアクセシビリティはそれだけでインクルーシブを担保するわけではなく、個人の背景をどれくらいの奥行きで見るかという素養を育てることこそがインクルーシブであることなのだと気づかされる。そこには統一的なルールはなく、非常にタフで、維持するためには不断の努力を必要とする。
コロナウイルスは私たちの社会の脆弱性を露わにし、多数派に自分たちも弱者になり得るという当事者意識をもたらした。コロナ禍の自粛生活を経て、これまで自分が潜在的に抱えていた生きづらさに気づいた人は少なくないはずだ。その生きづらさを恒常的に抱えている「弱者」とされる人たちと自分との違いはどこにあるのか、自分たちの存在が社会に受け入れられていると感じられるためには何が必要か、いまなら考えられるのではないだろうか。
今回はイギリスの例を中心に取り上げたが、日本のメディアでは命の選別は取り上げられても、芸術の選別は取り上げられない。そんな日本における連帯の形は、まだまだ模索されなければならない。日本で活動する義足のダンサーである森田かずよは、「私は表現することにおいて社会を変えたいという想いはずっと抱いています。それは障害のある人自身が自分の身体性や経験をとおして、どう社会とコミットしていくかということだと思っています。もちろんそれには純粋に創作物に還元すること、そしてそれが社会にどのように受け取られ、影響を及ぼしていくかを考えることも含まれています。芸術活動、表現することが、障害に対する、そして身体や社会に対する目線を変え、より多様にしていけると信じています」と話してくれた。同様の思いを抱いている障害者は多くいるだろう。こういった一人ひとりの声が、日本のポストコロナの芸術文化においても含まれていく必要がある。
取材協力:柴田翔平(ストップギャップ ダンスカンパニー エグゼクティブ・プロデューサー)、ジョー・ヴェレント(アンリミテッド シニア・プロデューサー)、森田かずよ(女優、ダンサー、NPO法人ピースポット・ワンフォー理事長)]
参考:国連からの提言「Policy Brief: A Disability-Inclusive Response to COVID-19」https://www.un.org/en/coronavirus/we-have-unique-opportunity-design-and-implement-more-inclusive-and-accessible-societies?fbclid=IwAR0ZE-FrPVijX1DBUnMyzzN6cM7KMXsi1Xt0MF-f4Gwa5MkL8MDqLuun4fk(2020年5月6日)
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