キュレーターズノート

複層性をもつ文脈と想像力──
テキスタイル・プランナー 新井淳一の仕事/廣瀬智央 地球はレモンのように青い

住友文彦(アーツ前橋)

2020年09月01日号

異なる素材を用いて織られた布との対峙、あるいは長期間にわたるプロジェクトを通して、その背景にある文化と歴史の複雑な文脈、そしてそれを掬い出す作家の知性にはっとさせられることがある。大川美術館「テキスタイル・プランナー 新井淳一の仕事」とアーツ前橋「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」の二つの展示についてご執筆いただいた。(artscape編集部)

大川美術館「テキスタイル・プランナー 新井淳一の仕事」

装飾の歴史を織り込む

初めて布の魅力に気づいたのは22歳のインド旅行のときだったと思う。寒暖差が大きいため、移動のあいだや睡眠を取るときにさっと纏える布があると便利だと気づき、店先で物色するうちにいろいろな柄や手触りに魅了された。軽くて荷物に収めるのも容易だし、なにより広げると楽しい。結局、必要な分以上の布を持ち帰った。

そのとき手に入れた布に比べると、新井淳一がつくる布はもっと強い存在感を持つものばかりだが、どれも生活のなかで人間が太古から織り続け、身につけてきた記憶が内包されたプリミティブな魅力は失っていない。失っていないばかりか、私たちがほかの生き物から得た材料を使って身体を守り、装飾してきた歴史こそが重層的に織り込まれていると言ってもいいほどだ。

新井の名前を聞いたことがない人も、経糸と緯糸に綿と羊毛の異なる素材を組み合わせたボリュームたっぷりの交織布を使った三宅一生の服、ウールをタンブラーで縮絨加工させたコム・デ・ギャルソンのコートなど、一度見たら忘れられない布をつくっている人物と聞けばピンと来るのではないだろうか。あるいは、加藤登紀子が好んで着る光沢のある布、六本木のアクシスビル地下にある「布 Nuno」という店をつくった人というと思い当たる人もいるだろうか。その新井が生まれ住んだ街、桐生の大川美術館で、2017年に亡くなった彼の仕事を振り返ることができる展覧会が開催されている。

江戸に反物を供給する産地として栄えた桐生には、織物の生産に必要な技術が集積していた。地域で織りや編み、染色加工など、じつに細かく複雑な工程を分業する体制は戦後の自動車産業に近く、伝統だけでなく新しい感性と技術にも敏感な新井のような人材を産み出す土地だったと推測できる。機屋に生まれた彼は、高校卒業後に帯づくりを学んでいる。そして1964年、33歳のときに、銀色の生地のアルミをシルクスクリーン捺染で溶かし、模様を染める技法を開発するなど、手の込んだ技法で誰も見たことがない布を次々につくり出した。

綿強撚糸ジャガード織物/不揃いフリンジ付き格子模様(部分)1983、©KOHEI TAKE

展示室にいくつも並んでいる綿強撚糸のジャガード織も、糸が引っ張り合う、あるいは糸を後から切ることで生じる捻じれのような模様など、手の込んだ作業によって素材の持つ力をうまく利用する工夫に感嘆する。それに加え、こうした伸縮する特性に、自然の素材ばかりでなく化学繊維も用いることで幅広い表現を追求している。特定の様式に制限されず、古いものから新しいものを自由自在に扱うところも新井の大きな魅力だ。

さらにアフリカの民族衣装や、妻の版画家・新井リコが描いた原画などを、コピー機で繰り返し複写する手法で図柄をつくり出し、それをジャガード機織で織った「布目柄」も新井の独自性が強い作品である。まったく異なる線を組み合わせて独自の文様をつくり出す。転写という実にポストモダン的な方法に重ね合わせされているのは、新井が縦横無尽に狩猟した膨大な知識や感性の厚みでもある。実際、若い頃から培った文学や演劇の素養や、膨大な民族衣装のコレクションが彼の創造の源にあるのは間違いない。素材そのものの原初的な力や見たことがない柄の組み合わせによって、人類の歴史に深く探索の目を張り巡らせた知性が、言葉による理性ではなく、布を通して官能的に感じ取れるところに新井作品の最大の魅力がある。


文化と資本主義のせめぎ合いのなかで

織物に装飾品や嗜好品としての役割だけでなく、こうした歴史や文化の奥行を見出す人はもちろん少なくない。たとえば柳宗悦が「民藝」として織物を捉える視点も同様である。新井も柳と同じようにコレクターであったが、その姿勢は目利き、あるいは失われつつある対象へ情熱を注ぐのとも違い、自分が同時代の文化を捉え、新しい創造を産み出していくための収集行為だったように思える。彼は文学や民族衣装の向こう側に、自分自身が生きる場所と地続きの生活をしている者たちの存在を感じ、彼らがつくり出した美しいものたちの背景に、戦争などの衝突の生々しさを見出していたのではないだろうか。それは、彼が江戸時代に織物の一大生産地だった街に生まれ育ったゆえに、生活様式の変化や生産コストの競争によって徐々に斜陽になりつつある現実の当事者として、織物が文化と資本主義のせめぎ合いのなかに置かれていることを身をもって知っていたからでもあるだろう。

展示風景 ©KOHEI TAKE

織物のなかに戦争や階級闘争の歴史を見出す視点は、1960年代に現代美術の重要な運動を牽引した人物が後半生を注いだ活動において重要な位置を占める。新井が父親の会社を倒産させた直後に有限会社アルスという自分の会社を立ち上げた頃、セス・ジーゲローブはニューヨークでローレンス・ウィナーやカール・アンドレらとカタログ・エキシビションなどの実験的な試みを行なっていた。作品を印刷物を通して流通させ、オリジナルや物質的な所有の概念から自由になることは、当時の既得権益を持つ者たちへの権利要求の運動とも結びつくものだった。ジーゲローブは、その後、美術の活動を離れ、マルクスやマクルーハンに影響を受けながら、社会主義に関する本を発行する出版事業やビブリオグラフィーの制作などを行ない、その過程で知ったテキスタイルの歴史に魅了され、1997年に手織りのテキスタイルの世界史をまとめた本を出版している。

ジーゲローブのコレクションは、出版によって知ることができるし、ほとんどは財団の管理となり引き継がれたが、新井の本や民族衣装のコレクションは残念ながら昨年自宅が火事になり焼失してしまった。激変する世界の文化に貪欲な好奇心を向け、ひとつの活動にとどまることなく精力的に動き続けた二人の人物にとって織物とはどんな存在だったのか。布は、生活の一番身近なところで必要とされ、人間とさまざまな生き物がつくり出す素材や技術によって織られる。それゆえに、一枚の布を通して、その土地で育まれる生き物、生活様式や自然環境、民族やコミュニティの歴史、新しい技術や生産方法の取得などを理解できる。書物のように文字を用いなくても、森羅万象に接近できる媒体でもある。

特に珍しい文様と手づくりの豊かさを湛えた布を産み出す少数民族は、ほとんどの場合差別や戦争によって迫害された者たちで、移動に携えることができる布にその文化と歴史を織り込んでいる。現代の先進国において希少な布は嗜好品として高額で取引されるが、そもそも布の大きな特徴には身体への近さと情報を伝える媒体としての役割がある。ジーゲローブは、アートを複製可能な印刷物として展開させるアイデアと同時代の権利要求運動とを両輪として、こうしたテキスタイルの歴史が包み込む豊かな世界の収集へと向かう。アートやデザインといった枠組みを大きく超え出て、一枚の布をミクロコスモスのように捉えることができる点で、この二人の感性が響き合っているように私には感じられる。


テキスタイル・プランナー 新井淳一の仕事

会期:2020年7月23日(木)~9月27日(日)
会場:大川美術館(群馬県桐生市小曽根町3-69)
公式サイト:http://okawamuseum.jp/event.php

学芸員レポート

アーツ前橋「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」

コロナ禍で縮こまった感覚を解きほぐす

会期最後の1〜2週間はレモンがどこまで収縮して色が変わっていくのか、気になって仕方なかった。はじめは青みがかった黄色だったのが、少しずつ赤みを帯びてオレンジに近い色になっていく。個体差が大きく、逆に青くなっていくものさえあって、床に並べられた《レモン・プロジェクト03》の色は日々刻々と変化していく、まさに3万個の生き物だった。約2か月の間、日々の展示室の点検作業は、その生き物の面倒を見ることに費やされた。植物を育てる人はわかると思うが、わずかな変化の発見を歓びと感じる感性がないとなかなかこれは続けられない。とはいえ、私はその担当に組み入れられていないので、その労苦を思いやるしかできないのだが。

それは、どこかから漂ってくるというよりも、目に見えない匂いのなかに自分が入り込むような経験のため、美術館がいつの間にか自分が戻っていく場所のように感じられるほどだった。会期中は展示室の外にもほのかに爽やかな匂いが漏れ出ていたし、会期終了後も展示室内のエレベーターには匂いが残り続け、それが消え去ったいまでもレモンの香りは初夏の日々の記憶と結びついている。

《レモン・プロジェクト03》1997/2020[撮影:木暮伸也]

忘れられないのは、4月に自宅勤務を続けて久しぶりに美術館に足を踏み入れたときの体験だ。それはパソコンの画面を見続け、時折近所を散歩するか、買い物くらいしか家を出ない毎日のあとだった。収蔵作品の小展示と、イタリアや国内から集められた廣瀬の作品はすでに展示され終えていた。重ね塗られたり、擦り取られた絵具、複雑な色の混じり合い。見慣れたはずの作品の細部が驚くほど複雑なものであることを新鮮に感じる。また、地下に降りていきながら眺める廣瀬の作品は、天井や床の上などいろいろな方向に視点を持って行かれる。素材は布、紙、粘土、アクリル樹脂など実に多岐に渡る。身体の重心をあちこちに動かしながら、眼で追うテクスチャーは柔らかさ、艶やかさ、手触り感など変化に富んでいる。まだ展示を5分の1も見終えていないはずだが、すでに感覚が総動員され、少し疲れさえ覚えていることに気づいた。

自宅から買い物に出かける間に見るのは、それなりに緑も多い周辺の風景だったが、そこでは体験しないようなことが展示室で起きていることを知った。それぞれの素材自体が珍しいわけではないが、絵画作品も廣瀬の作品も、たとえわずかであっても作者の感覚に沿って手が加えられて産み出された表現には独自の複雑さが備わっている。〈自然〉が変容し、それが何の素材で、どうつくられていて、その意図が何なのかを、瞬時に捉えようとする作業は、大きな負荷を人間の感覚に強いていることを再認識する経験だった。これはいろいろな作品を見慣れてしまっている職業人にとって、貴重なものだった。

とりわけ、廣瀬の作品は、小さなものから大きなものまでスケールの違いが幅広い上に、絶妙な場所に作品が散りばめられているのでなおさらだ。ちなみにこの時点ではまだレモンは搬入されておらず、かろうじてスパイス、蜜蝋、石鹸の香りを嗅ぐために鼻を作品に近づけた。ひと回り展示を見終えて、廣瀬本人と実際に展示室内で再会するまでに私は作品を見る歓びを身体が感じ取るリハビリテーションを終えていた。この作品を全身で感じ取る経験は、感染拡大を防ぐために縮こまった感覚を柔らかく解きほぐすためにも、さらに作品を見るときに果たしている身体の役割を考える上でもとても貴重だった。

《無題(豆の神話学)》(部分)2008[撮影:木暮伸也]


展示再開後のこと

それを自覚していたかはともかく、6月1日に再開した美術館を訪れた人たちもおそらく似たような体験をしたのではないだろうかと思っている。感染の不安を覚えながら過ごす日々が続くなか、どれだけの人たちが展覧会を見に来てくれるのか。2か月も会期を遅らせ再開を待ち遠しく思っていたのは確かだが、それでも不安は大きくのしかかっていた。早くから消毒液を手配し、清掃や監視の業務を見直すなど、スタッフが総動員で入念な準備をしてきたが、正体不明のウイルスに対し、完全に感染を防ぐことはできない、という前提は揺るがない。早くから再開したほかの施設や医療関係者の情報を集めて回り、何度も運営マニュアルを点検し、普段の仕事とはまったく異なる時間を費やした成果はどのように報われるのか、まったく見当がつかなかった。

しかし、およそ2か月の間に想像を超える多くの来場者が訪れてくれた。もともと混雑するような美術館ではないが、あの国民的人気アーティスト岡本太郎の展覧会に近い数字の来場者が訪れたのは驚いた。特にはじめの2週間はアーツ前橋の常連と言っていい地元の愛好家たちの顔を数か月ぶりに目にし、この7年間で築かれた地域との結びつきに緊張を緩めてもらった。お互い久しぶりに会う場所として、彼らが美術館に出かける光景を見るのは嬉しかった。

来場者が多かった要因のひとつとして、レモンが敷き詰められた空間で撮影された写真が関心を喚起したのは間違いない。それは視覚的な情報の伝達だけでなく、「自粛」生活が続くなかで実際に展示を見たときに、精神と身体の両方に解放感をもたらし、その経験を人に伝える人たちが多かったからだろう。レモンの作品を目当てに来館した人たちが、展示全体を通じて豆の作品や「空のプロジェクト」など、ほかの作品を見つけ出し関心を向ける様子はアンケートの書き込みからもよくわかる。つまり、インスタグラムなどのSNSをきっかけに来館した人たちは、自由に感覚を解放できる経験を通じ、美術鑑賞の約束事など気にも留めず、いろいろな作品にそれぞれの関心の矛先を向ける行動をしていた。SNSが行動に大きく影響を与える傾向と美術館がどのように向き合うかは、「映え」目的や情報の追認に留まらない展示構成や作品をつくり上げることができるかにかかっているのではないだろうか。

それと、もうひとつ感じたのは、性急に臨時休館を決めるときには丁寧に議論されなかった各施設の特性の違いだ。美術鑑賞においては、ゼロではないにしてもウイルス感染のリスクをかなり低くすることが可能で、それを聞いて安心して来館できると思った人が多かったのだろう。これは再開準備の労苦が充分に報われたと感じられる点だ。しかし、今回の展示には少なかったヘッドフォンや操作器具を用いた展示などでは、もっと多くの対策が必要になることは今後の課題だ。

さて、もう一度展示室に戻ると、レモンだけでなく豆を素材にした作品が多いことにも気づくだろう。複数の作品が点在していた《ビーンズコスモス》は、透明の樹脂のなかに、豆やプラスチック、丸められた紙の地図などが浮かんでいる。惑星が配置された小さな宇宙のような作品で、いろいろな方向から眺めることで見え方が変化する。そのなかには、ごく小さな金やダイヤモンドのような高価な素材も混じっているらしい。豆は世界中、どんな文化圏でも食べられている。高級な食材ではなく、むしろ貧しい者ににとっては安価で栄養が摂れるありがたい存在だ。廣瀬は、豆の社会文化的な役割をさまざまなエピソードをもとに語る。大事なのは、それが特定の文脈に収まるのではなく両義的な意味や機能のなかで固定されない点だ。豊かで貧しい、不格好で美しい、シンプルで複雑、というように。


お互いのことを想像するための時間

 《空のプロジェクト「遠い空、近い空」》2012-13、《タイムカプセルプロジェクト》2016-35[撮影:木暮伸也]

それから、当館と廣瀬との関係は開館前に遡る。美術館が開館しても、おそらく望んでいながら足を運べない人がいる。そこには長期入院している人や家庭や生活の事情などさまざまな理由があるだろう、ということを考えていたときがあった。そういう人たちが、何か美術館と関係を持つきっかけをつくれないだろうかと思い、いくつかの施設に声をかけ始めたが実際に協力を得るのはかなり難しかった。そのなかで、母子家庭の生活支援施設が関心を持ってくれ、廣瀬のアイデアをもとに親子が参加できる交流を始めた。それは空の写真を撮ってお互いに交換することだった。実にシンプルなことだが、手紙で時間をかけたやりとりを行なうまでの間には、お互いのことを想像するための時間が充分に介在する。しかも、作文が苦手でも「空」の写真にはいつも異なる美しさが見つけられる。ミラノに住んでいる廣瀬から送られる「空」の写真を心待ちにする子どもたちとのやりとりには、前橋に住むアーティストの後藤朋美が参加してくれた。そして開館前に、美術館の屋上にある巨大な看板に廣瀬と子どもたちが撮影した「空」を掲示する作品が出来上がったのだ。廣瀬はもともと移動の合間に「空」を撮影し続けていてそれらを集めた本も出版している。水分が温度や大気の流れで変化するときに生じる空の形に、固有の美しさを見出すことを彼は繰り返し行なってきた。今回の展示では、無作為な手の動きが偶然に有機的な形を生み出している「ブルードローイング」のシリーズや、旅行パンフレットや雑誌のありふれた写真の一部を切り取った《ある夜の旅》でのイメージの集積のように、時間をかけて繰り返す行為から多視点的に眺められるものが生まれ出てくる作品を何度も継続的に制作していることに気づいた。

《ある夜の旅》2020[撮影:木暮伸也]


ひとつの正しさに行きつかないように

この長い時間をかける制作作業は廣瀬の作品を理解する上で大切な点だ。長いイタリア生活の影響から、食をはじめ都市生活まで時間をかけて熟成されたものに信頼を置くが、決して伝統主義者には流れない。あくまで、小さく、軽く、軽妙に重さを回避する。ひとつの正しさに行きつかないよう、もっと物事の複雑さに近づくために時間をかけるような姿勢が根幹にある。それは長年異文化の間を行き来する経験から、人がいかに容易に誤解し、偏見をつくり上げているかを知っているからでもある。19年間継続(2035年まで)することを決めている廣瀬と母子家庭生活支援施設とのプロジェクトのために、定期的に廣瀬と会うなかで私はいつも時勢に流されない見方に触れてきた。それは、一見多様な意見に触れているようで日本語と英語に限られた範囲に私の見解が留まっているところに、別の文化圏からの風が入り込むような経験である。廣瀬は、あえて物事を決めつけないで別の物の見方をそっと促すようなところがあり、それが独特の「軽さ」をまとっているように思える。

今回、廣瀬の学生時代からの友人である中村政人氏との対談で、80年代後半から90年代のそれぞれの活動を振り返りながら考えを交わしてもらった。ちなみに、そこに村上隆氏が加わると、日本の現代美術にその後まったく異なる方法で関わっていく三人が交錯する時代が浮かび上がってくるはずだ。この原稿を書いている時点で村上氏の見解はまだ知りえていないのだが、80年代後半、バブル経済期の日本で20代前半のアーティストとして活動を踏み出していくとき、大きな歴史の物語が解体していくなかで、民族や性差の問題に直面せずにアイデンティティを手探りのように探索していたことが私には印象的だった。もちろん、当時はアイデンティティなんてベタで恥ずかしいものを相手にする必要はなかった。しかし、当時はすでに西洋と東洋という区分もなく、ハイアートとローアートのヒエラルキーも瓦解し、歴史の重みからも自由になりつつあった時代だ。その真っただ中と言っていい1991年にイタリアに渡った廣瀬は、臆面もなく「華やかな東京が羨ましくも見えた」と語っている。ニューヨークでもロンドンでもなく、ミラノに行くことは、もちろん生活費や学費の安さも理由に挙げられるが、あえて消え去ったはずの先のジャンルの区分や歴史の重みを確認しに行くようなことだったのではないだろうか。しかし、時代にあえて背を向けるこのような行動で廣瀬が獲得した自由は大きかったはずだ。それは時流に呑まれるよりも、その外側に立ち、物事の複雑な見え方に気づく機会を得たからだ。時代に背を向ける行動は決して簡単ではない。表に現われているものだけでなくもっと飛翔するような想像力で、物事を多面的に捉える大切さが、この個展を通して伝わってほしいと感じた。そう、この「非常時」に想像力まで奪われないように。


廣瀬智央 地球はレモンのように青い

会期:2020年5月22日~7月26日 ※臨時休館により6月1日から一般公開
会場:アーツ前橋(群馬県前橋市千代田町5-1-16)
公式サイト:http://www.artsmaebashi.jp/?p=14546

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