キュレーターズノート

未知の出来事について耳を傾ける時間──「聴く─共鳴する世界」展

住友文彦(アーツ前橋)

2021年01月15日号

聴くというテーマで展覧会を企画する発想は、サウンドアートを対象にすることから始まったものではなかった。もちろん、何をどのように聴くのか、について私が考え始めるきっかけとして、ノイズやデジタル音楽があったのは間違いないし、特にフィールドレコーディングのワークショップ経験から得るものは少なくなかった。ジョン・ケージやフルクサスの作品を振り返って確認する作業も行なったし、3年前にクリスチャン・マークレーとロンドンのスタジオでこのテーマについて話したことから得たものも大きい。しかし、実際に構想を練る段階になって、もっと重視したのは自分が知らない出来事について耳を傾ける経験であり、それはサウンドだけでなく言葉や声も対象に含むものである。聴くことを通して未知の出来事や存在と向き合うこと、つまり不確実性が芸術の創造とどう関係しているのか、考えてみたいというのが主な動機だったと思う。私自身が「よそ者」として異文化体験を繰り返してきたことや、学生時代に「美術史」という歴史学の手法で美術と向き合うときにおぼえた違和感、20代でバブル経済の崩壊や震災を経験したこと、あるいはジャン=リュック・ナンシーが心臓移植体験をもとにアイデンティティや共同体について書いた『侵入者』(以文社、2000)、地域の福祉や教育と関わる団体と協働するアートプロジェクトで繰り返してきた対話など、こうしたさまざまなことが下敷きとなり、聴くことをめぐって考えてきたことが構想を形づくっている。

不確実な生をいきる

もし世界が自分の知っている知識や経験でできあがっているとしたら、人は思う通りに生きていける、と考えるはずだ。実際周りを見回してみると、そのように人々を安心させるための仕組みが隅々に行き渡っている。だが、実際にはとても簡単にその仕組みは壊れるし、いつでも、誰でも、不確実な生をいきることを余儀なくされる事実をその仕組みが覆い隠していると言うことさえできる。もちろん、死もまたそうした不可知な出来事のひとつである。これまで知らなかった、経験しなかった出来事が自分にとって回避できないものとして出現するとき、なんとか正面から未知のことや不確実さと向き合おうとすれば、私たちはきっと自分以外の誰かの知識や経験に耳を傾けるだろう。そのなかには宗教者や権力者にすがる人々もきっといる。しかし、現代まで芸術が歩んできた道のりは、耳を傾ける対象を大幅に拡張させてきた。その理由は、実際に不確実な生をいきてきた人たちがけっして少なくないからだ。これまで声を聴かれることがなかった、関心を向けられてこなかった対象は、個人の意識のみならず、教育から政治までいろいろな制度によって集団的に排除されてきたと言える。

おそらく眼を閉じる、という行為についても同様のことが言えるのだが、耳は閉じることができず、実は聴こえているのに聴いていない、という排除の線引きがより明白にも、また曖昧にもなる。一方で、複数の異なる音が互いに排除されず、同じ空間のなかで鳴り響くこともできる。そこが聴覚の魅力である。

自分にとって確実なものだけを頼りに、ひとつの「正しさ」によってほかの見方を排除する傾向が近年強くなっていると言われる。しかし、特定のコミュニケーション空間の内側だけで成り立つ「正しさ」を批判的に捉える見解も、コロナ禍で関心を集めたように思える。緊急事態宣言以降、「何が不要不急なのか」が問われ、多くの人たちが利潤原理によって拡張してきた経済優先型社会が失ってきたものを再確認し、単一の物差しを疑う人が増えたのではないだろうか。そのことと、経済、性差、人種による不平等が大きな問題として認識されたのは偶然ではないし、そうした問題を生み出した競争や拡大によって傷つき、失ってきたものを治癒し、もう一度回復しようとする活動が少しずつ始まっているのではないだろうか。


展示会場写真[撮影:木暮伸也]
ワン・ホンカイ《ボロム(風)》(2020/手前):鑑賞ガイドを手に地図と写真を見て、済州島で録音された音、ある詩人とそれをめぐる人々の声を聴く作品
恩田晃《静まり返った庭─イーストヴィレッジのコミュニティガーデン、パンデミックの時分》(2020/奥):ロックダウン中のニューヨークで大都会の空き地を利用した市民運動の記録を写真と音で追うことができる


中心を内側ではなく外に置く

よく言われることだが、利潤と権力を拡大させた植民地主義は国家間の過去の問題でなく、差別や不平等をつくり出す仕組みとして教育、経済、政治など社会全体に根強く根を張っている。この「聴く」ことをめぐる展覧会の展示作品においても、そこから排除されがちな移民や亡命者たちの存在が大きく際立つことになった。聴くことの実践は、おそらくこの「よそ者」と場所をめぐる問題と切り離せない。私たちは、何を聴くのか、どのように聴くのか。その音や声を鳴り響かせる場所は社会のどこにあるのだろうか。

この展覧会の鑑賞者は、ひとつの大きな声だけが響いたり、異なる声がひとつに聴こえてしまわないように、あちこちを歩き回り、自分の身体を相手の方に寄り添わせて聴くことになる。振り返ると、移民や生きづらさを抱えた人たちと関わる当館のアートプロジェクトでは、それと同じようなことを繰り返してきたように思える。アートプロジェクトは共感や発信のために実施しているのではない。その役割は、例えばブレイディみかこの息子がエンパシーの意味を説明するときに述べた「誰かの靴をはいてみること」という言葉に近いのかもしれない。美術館や美術批評の場から、つまり中心から周縁へ耳を傾けるのではなく、芸術が自由を保つために地域社会と関わり続けているのだ。不確実さとは新しいウイルスがもたらしたものではなく、生命の本来の状態であり、芸術が本来生まれてくる場所ともいえる。聴くことは、中心を内側ではなく外に置くことで、自分自身を解放することでもある。


音の展示だからできること

今回の展覧会準備に対する感染症拡大の影響は、実務的な面では大きかった。まず、新作を用意する参加作家は思うように制作を進められなくなった。移動ができない、予定していた支援が受けられない、など深刻な問題にも直面した。2020年春の時点で、すでに長期的に事業開催への制約を受けると想定できたが、それがどれくらい長い期間に及ぶのかまで判断するのは難しかった。そこで、展覧会会期を2カ月遅らせ、参加作家の数も減らし、その分、なるべく資金面などで作品制作の支援ができるようにした。それと、もうひとつ迷ったのが、もともと音の作品が多いため、オンライン化しやすいことを考慮して、オンライン展示に切り替えるかどうかだった。臨時閉館の可能性や、あるいは遠方から来館しづらい状況になったとき、オンライン展示は多くの人に見てもらえる利点がある。しかし、いくつかのオンライン展覧会の試みや参加作品の特徴を検討した結果、むしろ図録の制作を断念し、その代わりにウェブサイトで作品鑑賞できる素材を増やす費用に回し、そのうえで実空間の展示も行なうことに決めた。

以下、その特設サイトに作品の詳細と解説を記載しているので、その都度リンクを辿っていただきながら参加作品を紹介する。

まず、野村誠は美術館が開館する前に行なったワークショップをもとに制作した音を聴いてもらう展示を行なっている。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/nomura/

それから、小森はるかと瀬尾夏美は、陸前高田で三つの映像作品を撮影したときから経過した時間を振り返る作品を新しく制作している。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/komori-seo/

台湾のアーティスト、ワン・ホンカイは四・三事件で済州島から日本に渡った詩人の足取りをもとに自然の音や人々の声を録音し、現在の島の風景のなかに民衆蜂起の記憶を辿る。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/wang/

恩田晃は、移民たちが主導した住民運動の痕跡をロックダウン中のニューヨークで探し求め、長い時間をかけて録りためた音を響かせる。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/onda/

アンジェリカ・メシティは、異文化のなかで暮らす人々が集まり、それぞれの身体と声を震わせる歌や踊りに注目する。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/mesiti/

スン・テウは、かつて前橋に滞在したときに出会ったベトナムの若者たちと歌をつくり、その存在に目を向けるために私たちを街の中に連れ出す。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/tieu/

そのほか、4作家による映画/映像作品の上映を行なっている。

まず小森と瀬尾は展示室でも上映している3作品。

奥村雄樹は、ひとりの人物をめぐって語られるエピソードをつなぎ合わせ、主体の場所を占めるはずの存在を空隙にする。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/okumura/

想田和弘は、ある精神科医が引退するまでの日々を追い、医師の妻や患者との関係性を通して自己や未来の不確実さと向き合う姿を見つめる。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/soda/

坂上香は、閉鎖された刑務所の中に入り込み、そこで自分の過去を見つめ直す人々の言葉を通して現代社会における犯罪や家族について伝える。
https://listening.artsmaebashi.jp/exhibit/sakagami/

先に述べたように展示規模は縮小したが、じっくり音や映像を鑑賞するとかなり時間がかかる。音は流れて定着させられないが、詳しい解説やアーティストが用意した冊子によってじっくり作品と向き合うことができる。どれも作品のコンセプトや制作背景を詳しく伝えるもので、会場で音を聴きながら、あるいは帰り道で読んでもらうと充実した鑑賞体験を得ることができると思う。


展示会場写真[撮影:木暮伸也]
手前に「場所の記憶─想起する力」展の展示作品である照屋勇賢《自分にできることをする》(2011/中央)、ペ・ヨンファン《福島のため息》(2012/左)など東日本大震災と関係する作品のほか、ベトナム難民を受け入れてきた施設「あかつきの村」で自殺した人物に捧げるイルワン・アーメット+ティタ・サリーナ《苦痛への信仰》(2019)などが並ぶ。その先が「聴く─共鳴する世界」展の会場入り口で、野村誠《ピアノのための9つの小品「アーツ前橋」》(2013)と奥に小森はるか+瀬尾夏美《飛来の眼には》(2020)が見える


他者を感じながら鑑賞する

ヘッドフォンや機器の操作など、慣れない人には制約も多い鑑賞になるのが申し訳ないが、内覧会で気づいたのは、じっと音を聴いているときは視線が自由になるので、展示室をあちこち眺め回すことになるということだ。そうすると視線の先には、ほかの作品を見ている、あるいは音に耳を傾ける人たちの姿があり、音に意識を集中させながら同じ場所にいる人たちやほかの作品の存在を同時に捉えるような鑑賞の仕方になる。逆に、美術館なのにじっと目を閉じて過ごす人もいる。また、つねにいろいろな作品の音が響いているが、音量には強弱があり、ほかの作品の音が別の場所で聴こえ、混じり合うときもある。少し間をとった柔らかい言葉の話し声が済州島の地図の前で聴こえ、巫女の儀式で鳴る銅鑼や中東の移民たちの大衆音楽がニューヨークのコミュニティガーデンで交わされる会話に被さる。つまり、この展示室では、いろいろな人びとと音が共存する。その話し声や演奏を聴く時間を過ごしているうちに、複数の作品から、他人と経験を共有すること、喪のための時間、個人の精神とそれを包み込む自然、移民の文化と共生、といったいくつかの重なり合うテーマが見出せるはずだ。

ちなみに、同時開催中の「場所の記憶」展には、アーツ前橋が建つ場所から、アーティストたちが生きる/生活する場所、公害や戦争、戦後の記憶を辿る作品が並んでいる。特に社会の抑圧や災害がもたらした傷を、作品を制作することで治癒していくような作品がこの展示と「聴く」展の間をつなげている。二つの展覧会を同時に見ていただくことで、きっと互いに響き合う鑑賞体験になるはずである。テキストと音はウェブでじっくり時間をかけて鑑賞いただくこともできるが、ぜひ自分の体を動かし、複数の作品と音が響き合う経験、それと何よりもほかの鑑賞者との間でそれらを共有する経験をしていただければと願っている。


聴く─共鳴する世界

会期:2020年12月12日(土)〜2021年3月21日(日)
会場:アーツ前橋(群馬県前橋市千代田町5-1-16)
公式サイト:https://listening.artsmaebashi.jp/

(同時開催)場所の記憶─想起する力

会期:2020年10月22日(木)~2021年3月21日(日)
公式サイト:https://www.artsmaebashi.jp/?p=15650

キュレーターズノート /relation/e_00054635.json l 10166466