キュレーターズノート

居心地、居場所、排除と公共空間──尾花賢一《上野山コスモロジー》と岸幸太写真展「傷、見た目」から

町村悠香(町田市立国際版画美術館)

2021年04月01日号

1月初めから3月下旬にかけて新型コロナウイルス流行のため、首都圏では再び緊急事態宣言が出された。再び休館した美術館もあるなか、筆者が勤める町田市立国際版画美術館は今回休館にはならなかった。しかし、2回目の緊急事態宣言の期間は去年春の臨時休館期間中から考えていたことを反芻する時間となった。


休園中の芹ヶ谷公園


当館は芹ヶ谷公園という約11.4haの公園の中にある。去年の緊急事態宣言中は学校も休校だったので、公園は平日も子どもたちが集まっていつも以上に賑わっていた。住宅街の中の小さな公園だと子どもの声がうるさいとクレームを受けて居づらくなってしまい、居場所を求めて大きな公園まで足を延ばしていた家族もいたという。休館中の美術館の中から賑わう公園を眺めるにつけ、郊外都市の中にある公共空間の意義を実感すると同時に、公共文化施設はこのような状況下でいかにコミュニティに貢献できるのか、改めて存在意義を問われる思いだった。

昨年からそんなことを考えていた筆者にとって印象的だった映画がある。昨年夏に日本で公開された『パブリック 図書館の奇跡』(エミリオ・エステベス製作・監督・脚本・主演)という、アメリカのオハイオ州シンシナティの公共図書館を舞台にした映画だ。アメリカの社会問題を背景にしたフィクション映画で、主人公は現場の一図書館員だ。この街では図書館は誰もが知にアクセスできる場所であると同時に、路上生活者たちの居場所でもある。主人公たちは本やレファレンスの専門家としての仕事に加え、公共機関の職員としてさまざまな利用者が起こすトラブルに対処することも重要な仕事になっている。ある極寒の夜、凍死しないよう一晩館内に留まらせてくれと路上生活者たちに主人公が頼まれるところから物語が動き出す。巻き込まれるようなかたちで彼らの占拠を手伝うことになる主人公は、制度と板挟みになりながらも現場に携わってきた者の人道的な思いからある意外な行動に出る、というストーリーだ。

図書館は美術館ではないが、同じ公共文化施設に勤める者として、公共機関の一職員としての立場と、現場に携わる専門職としての立場での異なる価値基準に葛藤することがある。本作の核にあるメッセージと一公共図書館員としての矜持を持ち続ける主人公の姿からは、公共文化施設は誰に対して開くものなのかを考えさせられる。

尾花賢一《上野山コスモロジー》


尾花賢一《上野山コスモロジー》(2021)


今年度のVOCA展2021でVOCA賞をとった尾花賢一《上野山コスモロジー》は文化エリアであると同時にいくつもの顔をもつ上野公園の多面性がテーマだ。劇画調の絵が収まる額の木枠やベニアが重ねられ、物理的にもその重層性を伝える。ペン画で描かれた一枚一枚の部分は、漫画のコマのスタイルをとる。断片的なイメージを繋ぐナラティブの補助線となるのは、ペンで模写された新聞記事だ。

例えば、国立西洋美術館で所蔵するルカス・クラーナハ(父)《ホロフェルネスの首を持つユディト》の一部、1974年のモナ・リザ展を報じる新聞記事、東京国立博物館で所蔵する「遮光器土偶」に高村光雲《老猿》、東京都美術館の団体展、路上生活者の姿、上野動物園のパンダ、「葵部落」立退を報じる1950年代の新聞記事が一見無造作に重ねられている。コマの一つひとつを見ていくことで作者が上野の歴史的・地理的な多面性をどのように捉え、再構成していったかが体感的に伝わってくる。擬音のコマの効果もあって、リズミカルに画面を目で追っていくことができ、込められたユーモアに引き込まれていく。

全体を見ていくと、尾花が本作で特に注目しているもののひとつが上野公園の路上生活者だとわかる。そのルーツとして「葵部落」をいくつかのコマで取り上げている。「葵部落」とは戦後に国鉄上野駅の公園口前に立ち並んでいたバラックが広がるエリアのことだ。「葵」と称されたのは、明治維新前はこの地に徳川家の菩提寺である寛永寺があったことに由来する。1950年代前半にここの立ち退き問題と並行して国立西洋美術館建設事業が立ち上がり、1959年に国立西洋美術館が開館する。

尾花を推薦した今井朋は推薦文の中で「動物園のパンダと公園内で来場者がこぼしていった餌を探し求める都会の野生動物など人間の恣意的なものさしによって生まれる現代社会における存在の貴卑へ本作は疑問を投げかける」と書いている。

無数の木枠やベニアが重なる本作の中で、装飾的で立派な額は二つしかない。尾花はそのひとつに国立西洋美術館前庭でこの地を見守るように設置されているオーギュスト・ロダン《考える人》、もうひとつに罠にかかって息絶えるネズミを選んでいる。両者を等価なものとして捉える目を持つことで、われわれの前にこれまでと違った上野の景色が広がることを本作は示唆しているのではないだろうか。

サードプレイスとセーフティーネット

《上野山コスモロジー》の右上には「CKS COFFEE」と切り取られたロゴが描かれている。上野公園の噴水周辺のエリアは2010年代に整備され、東京国立博物館に向かって左手には2012年に世界的なコーヒーチェーンのスターバックス コーヒー(スタバ)がオープンした。このスタバは都内初の公園内店舗で、上野公園再開発は都市公園に民間企業のノウハウを導入して経営視点を入れるPark-PFI(公募設置管理制度)の先鞭をつけた事業のひとつだ。

スタバは「サードプレイス」を提唱し、自宅でも職場でもない第三の心地よい空間を提供することをコンセプトとしてきた。図書館が民営化される際に併設されることが増えているのを考えると、今後の公共文化施設を考えるうえで重要なアクターになっていると言えるだろう。

スタバができることでこれまでにない層が来館して賑わうことは事実だ。ただ、尾花の作品でこのロゴが象徴的に取り上げられているのは、近年の公共空間のあり方の変化を直感的に示しているように感じた。誰もがいられるはずの空間の中に、安くはない対価を払った人だけの居心地の良い場所を提供すると、排除される存在が生まれうる。

サードプレイスが言外に対比しているのはファストフード店だろう。ファストフード店やファミリーレストランで勉強や執筆をしていると、サードプレイスのような居心地のよさを演出しないこれらの店にはキーボードを叩く人、大声で話す人、家族連れ、終電を逃した人と、時間帯と立地によっていろんな人がいて、人目を気にしない気楽さがある。特に100円ほどで長時間居続けることもできるファストフード店には路上生活者と思しき人もいる。ファストフード店が24時間提供してきた居場所は、本来行政が提供しうるセーフティーネットの代替的機能を果たしていよう。

コロナ流行後、多くの飲食店が深夜営業や24時間営業をやめ、2回目の緊急事態宣言下で東京では飲食店は20時で閉めるよう自粛要請がなされた。今回の緊急事態宣言は冬の寒い時期と重なった。そこが閉まってしまうことは、居場所にしてきた人にとって大きな影響があるのではないだろうか。ニュースでホームレスの襲撃事件を見ると、もしかすると普段はファストフード店に守られていた人だったのかもしれないと考えてしまう。

岸幸太写真展「傷、見た目」

路上生活者や簡易宿泊所に住む人々を被写体にし続ける写真家に岸幸太がいる。岸は自らも肉体労働に従事しながら、2005年から15年ほど釜ヶ崎、山谷、寿町などに通い日雇い労働者を撮影してきた。写真家たちで共同運営するphotographers’ gallery で開催されていた岸幸太の写真展「傷、見た目」(Part1, Part2)は、岸の第一写真集『傷、見た目』(写真公園林、2021)の出版に合わせ、これまで撮りためてきたなかから未公開写真を含み再構成している。筆者が訪れたPart2では2室に分かれるギャラリーで路上生活者の姿、道端に打ち捨てられた物が同一形式のフレームに収まってシンプルに展示されていた。



「傷、見た目」より《人物写真》[© Kota Kishi]


岸が撮る彼ら彼女らは、すれ違いざまの一瞬のような姿で、被写体の人となりや歩んできた人生への想像を強いるような悲壮さを煽った演出がない。写真集に論考を寄せた高橋しげみは「岸が現場からもぎとって目の前に差し出す『傷』の写真の束は、知らず知らずのうちに彼らを『外部』として認識するよう馴致された私たちのまなざしの構造を変革しようとしている」と記している。岸は人物を風景の一部として写すことで、相手を対象としてまなざすのではない敬意と距離感を保っている。

写せない感覚


「傷、見た目」より《捨てられたものの写真》[© Kota Kishi]


一方、物に対しては正面からカメラを向けて凝視し、汚いものをそのままに写しとる。道に打ち捨てられた下着、長靴の写真からは、これらが放つであろう強烈な匂いを想像してしまう。人物写真とは異なる人間らしさや文字通りの人間臭さを感じさせ、持ち主はどのような人物だったか思いを馳せることを促す。映画『パラサイト 半地下の家族』(ポン・ジュノ監督、2019年公開)でも富裕層の家族と、素性を隠して彼らに近づく貧困層の家族の両者を分かつキーになるのが「匂い」だった。嗅覚は視覚芸術では表現できない感覚だからこそ、見るものそれぞれがこれまで出会ってきた「嫌な匂い」の経験を思い出させる。

他者化してはいけないと頭ではわかっていても、排除する感覚は身体にこびり付いて拭うのが難しい。寄り添いでは済まされない、綺麗事でない事実から目を背けずに長年同じテーマに取り組み続けることに、岸の誠実さがあるだろう。

美術館を公共に開き続けるために


2回目の緊急事態宣言下での来場者アンケートでは都心まで行かなくても近所に美術館があることの良さを感じたというものが散見された。大規模に集客を動員する展覧会を開催するだけではない、地域の公共文化施設としての役割を改めて感じた。

文化は「不要不急」と言われることも多いが、知ることの楽しみ、精神の健康、心の潤いを求める人々のためにもいつでも開かれた場所であることが重要だ。コロナの影響で自治体財政の悪化は免れず、中長期的に公立美術館の運営は厳しくなるだろう。経営上の観点からチケット代を値上げせざるをえなかったり、集客性がますます重要視されたりすることが予想される。対価を求めることによって達成されること、そして排除されることはなんなのか、美術館を公共に開き続けるための視点を持ち続けたい。

VOCA展2021 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─

会期:2021年3月12日(金)〜30日(火)
会場:上野の森美術館(東京都台東区上野公園1-2)

Kota Kishi/岸 幸太“「傷、見た目」-Part2-”

会期:2021年2月23日(火・祝)~ 3月19日(金)
会場:photographers’ gallery(東京都新宿区新宿2-16-11-401 サンフタミビル4F)

岸幸太『傷、見た目』

発行所:写真公園林
発行日:2021/03/01

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