キュレーターズノート

護るべきもの、手段としての秩序──「野口哲哉展─THIS IS NOT A SAMURAI」、「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド─虚無の声」

会田大也(ミュージアムエデュケーター/山口情報芸術センター[YCAM]アーティスティックディレクター)

2021年06月01日号

山口市内で見ることができる2つの展覧会についてのレポートをお送りする。「野口哲哉展—THIS IS NOT A SAMURAI」(山口県立美術館)と、「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」(山口情報芸術センター[YCAM])についてである。異なる2つの展覧会を往来しながら考えるうちに、日本が置かれている現在の状況を背景に見えてくることがあると感じた。

「野口哲哉展—THIS IS NOT A SAMURAI」

「野口哲哉展—THIS IS NOT A SAMURAI」は、香川会場(高松市美術館:2021年2月6日〜3月21日)、山口会場(山口県立美術館:2021年4月15日〜6月13日)、群馬会場(群馬県立館林美術館:2021年7月3日〜9月5日)、愛知会場(刈谷市美術館:2021年9月18日〜11月7日)という、4会場で行なわれる野口哲哉の個展である。筆者は山口県立美術館でこちらの展覧会を鑑賞した。


野口哲哉《No.136 THE SWING》(2020)


展覧会では、細密な平面表現と、樹脂を用いた立体造形を駆使した野口の作品180点を5つの章に分けて展示している。各章を区切るバナーに込められたメッセージを読み解くと、固い鎧兜に包まれた柔らかで温かい血の通う、喜怒哀楽をもった人間の内面に着目している視点がひとつの見どころであり、固定観念であるバイアスから開放され、自由なものの見方を提案しているように見受けられる。街の児童遊園に設置されているような馬の遊具にまたがった人物の立体作品や、ブランコに座っている人物の平面作品など、一つひとつの表現は精巧な絵画や造形の細やかさ、技術力にまず目を奪われる。しかし、それらの技術力によって支えられている表現の特徴は、一人ひとりの人物モデルが内包しているユーモアや人間らしい喜怒哀楽に対する作家の愛情深い眼差しだ。特に各人物は明るさや前向きさだけが表現されている訳ではなく、人間くさい暗さや悲しさ、卑屈さなども湛えている。第2章のバナーに書かれたメッセージの抜粋を引用する。


Chapter2
real in unreal
— 仮想現実の中で —
〜中略〜 同じ嘘なら、真実の嘘を語るべきです。その時には「楽しさ」に寄り添う「悲しさ」や「怒り」といったスパイシーな感情を忘れるべきではありません。


展覧会場は明るく、そして空間も広く取られており、さまざまな年齢層の来場者が訪れ、家族連れの姿も目立つ。子供たちはふとひとつの作品の前で立ち止まり、じっくり作品に見入っていたかと思うと、まるで蝶が花を移っていくように次の作品へと移動していくのが微笑ましい。

筆者の専門であるミュージアムエデュケーションの観点から、展示構成として興味深かったのは第4章と第5章の間に置かれた資料コーナーである(これは他の会場でも展示されるとのこと)。ここではまず、展示作品のモデルとなった鎧兜が実際に制作されていたと想定される西暦1200-1800年の年表が掲示されている。鎌倉時代、室町時代、戦国時代、江戸時代をまたぐ時代であり、西洋に目を向ければブリューゲル、カラヴァッジョ、レンブラント、フェルメールといった作家が活躍し、美術史ではゴシック期、北方ルネサンス期、ルネサンス期、バロック期に区分される時期であることが年表に書き込まれていた。こうしたマッピングがなされていると、作品鑑賞の枠組みが浮かび上がり、鑑賞や思考の手がかりとなる。


資料コーナーの様子


資料コーナーの様子


さらに、「メイキング」と銘打たれた展示ケースには、制作過程の粘土モデル、型抜きのシリコン、そして形成された樹脂モデルや、制作過程に描かれたデッサン、エスキースの数々が展示されている。さらに、制作過程や展示プロセスを伺い知れる10分強の映像資料も上映されており、このコーナーを通して、あまりにも超絶技巧に目を奪われるがゆえに見えづらい「作者」や「動機」の存在がよく理解でき、そして展示されている作品に込められたメッセージへと再び思考がいざなわれるようになっている。筆者は当初、この資料のコーナーがあまりにも展示順路の奥、つまり第4章と第5章の間に置かれていることを疑問に思った。これら作品制作の文脈情報がもう少し手前に配置されていた方が、鑑賞者にとって早い段階で展示の見取り図が掴めるはずだからである。しかし、よくよく考えてみると、そうした手がかりもないまま作品を観た方が、これらの作品が作られた時代が「現代」であるという現実が確定されず、鑑賞者が暫しファンタジーと現実の間を行き来する余地が与えられるのかもしれないと思い直した。歴史資料に見まごうばかりの精巧さだからこそ「これがもし、本当の資料であったなら」と想像する自由な余白が残っている訳だ。


野口哲哉《No.4 黒漆塗鯰形兜》(2013)


次に展覧会の解釈に進んでみよう。鎧兜のもつ機能を考えてみると、敵の刀や槍といった攻撃から身を護る物理的なプロテクションのみならず、これらは所属する軍や役割を象徴する記号としても機能する。つまり一人ひとりの個人的な人生やキャラクターを覆い隠すのに有効なプロテクション、でもあるのだ。これは、所属組織や肩書きに依拠して身を護る、現代人の姿にも通じる。

裸で生まれた人間は、そのままの状態では柔らかく脆く弱い存在である。だからこそ、相対する敵から身を護るため、知恵を絞り技術の粋を尽くしてきた。時には勇敢な個体もいたはずだが、身を護りきれない個体は死に逝き、そうした気質の子孫が残りづらい。結果として現在へと繋がる生命のバトン=DNAには、身体が傷つく痛みや恐れに対する防御本能が強く刻まれ、継承され続けているということになる。

物理的な鎧兜に限らず、人間はこれまでにさまざまなプロテクションを発明してきた。「秩序」を用いて、未来から迫り来る脅威に備えているのもそのひとつだろう。類人猿から原人へと移行する時代においては秩序をもった組織的な狩りの手法を編み出し、個人の肉体の限界を上回った獲物を得ることに挑戦してきた。その後、自然という渾沌をてなづけることで、農作物をある程度計画通りに収穫し続けることも成し遂げた。社会という秩序をつくり上げ、個人間の利害を調整しながら安定的に発展させることも実現し、現在の社会システムの多くが、安全安心に人々が暮らしを営むために機能している。つまり秩序というものは未来をできるだけ確定させていく技術だともいえる。未来予測の技術に長けた者には権力が集中していき、未来をより強固にするための強い秩序をさらに形成する方向へと作用する。逆に無秩序や混沌は、未来予測のつかないリスクとして、マネジメントの対象となっていく。


野口哲哉《No.173 BIAS》(2019)


秩序があれば完璧に未来を確定させられるのか? そのことを考えるために、もう一方で、テクノロジーが現代ほどは発達していなかった時代、つまりより無秩序が人間のプロテクションより勝っていた時代においても我々は命を継承してきたという事実を考えてみよう。その背景には、秩序によって予測を立て未来をコントロールしてきた技術の開発と並行して無秩序と向き合う柔軟な知恵があったはずだと考えることもできる。たとえ理由は分析できなくとも、経験則で多様な偶然性とつき合ってきた時代は長い。未来予測のつかない天変地異や疫病など、人間の手に負えない無秩序やそこから派生する各種の混乱や恐怖と向き合うために、さまざまな知恵を身に付けてきた。無秩序とつき合う知恵といえば、宗教や文化といったものもそこには含まれるだろう。そうした知恵の力として、人類がもつ柔軟で創造的な問題解決能力を想定することができる。初めて目にする事態と対峙する時。初めて遭遇した困難と向き合う時。そういった際に発揮される有効な一手を打つ知恵のことを我々は時に「創造的」と称することがある。この意味での創造性は、アートやデザインといった分野での、ものを創る能力だけに限ったものではない。「創造的な手」という言葉が出てくるシーンを思い浮かべてみよう。囲碁や将棋といった限られた順列組み合わせのなかの一手であっても、新しい指し筋の発見★1は創造的な所業とされるし、数学における定理の発見でも、工場労働における「カイゼン」行動でも、キッチンにおける冷蔵庫の余り物でパパッと作った料理が美味しかった時もおしなべて創造的である。それまでの経験に裏打ちされ、かつ現状に対する鋭い洞察から導かれた新しく有効な解決策は、創造的な振る舞いとして称賛される。


野口哲哉《No.174 WOODEN HORSE》(2020)


翻って考えてみると、古代から中世を抜け近代へと移り変わっていくなか、徐々に秩序だった科学的な未来予測の精度が高まっていくプロセスを経たことで、秩序に頼りすぎた人間は、本来培ってきた渾沌に対する向き合い方が変化し、結果としていまや創造的な対処の能力が衰えてきている、ということを指摘する事もできはしまいか? そうした予測不能な状況へ反応する力を培うのが「遊ぶ」という不思議な振る舞いの意味なのではないか? こうした想像が筆者の頭を駆け巡っている。すると私には、およそ子供に見えない人物たちが、子供向けの遊具の上に物憂げに座りながら、秩序の象徴のような軍隊の衣装である鎧兜を身に纏い、不確定な世界と戯れていた裸の子供時代を思い出している様子に見えてくる。

野口の作品のなかで、鎧兜を纏った人物はうつろな目で遠くを眺めながら、何を想像しているのか。作者自身がそれを詳しく述べることはなかったとしても、鑑賞者はその視線の先について、自由に想像する戯れの時間を与えられているはずだ。

「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」

山口で同時期に鑑賞できる展示として、筆者の勤める山口情報芸術センター[YCAM]で現在開催しているホー・ツーニェンによる展覧会「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」を紹介したい。

神話や歴史、政治の新たな解釈を作品として問い続けているツーニェンがYCAMとのコラボレーションにより制作した新作は、1930-1940年代に日本の思想界で大きな影響力をもった京都学派にフォーカスをあて、CGアニメーションとVRによって表現されるインスタレーション作品である。


会場の様子「左阿彌の茶室」「監獄」
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


会場に入ると、手前から奥にむかって「左阿彌の茶室」「監獄」「空」「座禅室」と名付けられた4つのシーンによって構成され、手前3つのシーンがCGアニメーション、奥の「座禅室」にはVRが用いられている。まずは手前の3つのシーンを見ていこう。これら3つのシーンにおいてはそれぞれ2枚ずつスクリーンが配され、作品の時代背景や人物相関などが説明されているが、スクリーン構成はシーンごとに異なるレイアウトをもつ。


会場の様子「左阿彌の茶室」
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


手前の「左阿彌の茶室」というシーンは、現在も京都東山の円山公園に実在する料亭、左阿彌の茶室を再現している。2枚のスクリーンのうち、前景に設置された紗幕による半透明スクリーンへは、CGによって描かれた4人の人物、すなわち「京都学派四天王」と呼ばれる、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高らが取り囲んでいる卓上の様子が投影されている。そしてその奥の不透明スクリーンには、人物が不在の茶室のみが描かれている。これらの映像によって示されるのは、真珠湾攻撃が行なわれる約2週間前、1941年11月26日に雑誌『中央公論』によって左阿彌で行なわれた座談会「世界史的立場と日本」や、1938年の西田幾多郎による講演「日本文化の問題」についての説明である。紗幕の手前に座った観客からは、奥のスクリーンと手前のスクリーンはシンクロさせて編集されたものだと理解できる。しかしそれぞれのスクリーンに充てられた音声は、その一部を共有しつつも別の内容を語っており、天井から吊られた2つのスピーカーから、スクリーンごとに独立して聞こえてくる。


会場の様子「監獄」
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


次のシーン「監獄」へと移動してみよう。通常は観客へ見せないように工夫するはずのキャットウォークやバトンが低い位置に固定され、そこから吊るされた暗幕に取り囲まれたエリアの中央に、2枚の不透明スクリーンが背中合わせに重ねられて配置される。それぞれのスクリーンには、独房のなかで疥癬かいせんという病気を発症して亡くなった三木清、戸坂潤に関する映像が流れている。音声も映像ごとに用意されており、スクリーンが背中合わせになっている配置のため、片方の映像を見ている時にはもう片方の映像を見ることができない。すなわち三木の映像から戸坂の映像へ移るためには、暗幕の外側をぐるっと回っていく必要がある。


会場の様子「空」
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


さらに奥に進むと、今度は向かい合った2枚のスクリーンで構成される「空」のシーンとなる。ここは2つの映像とも、空に浮かぶミリタリーグリーンのメカが、ロングショット、アップショットなどを用いた映像で描かれている。内容は田辺元が1943年5月に京都帝国大学にて行なった「死生」という講義についてである。音声はひとつなので、2つの映像に挟まれた状態で相互に振り返りながら見ることになる。

これまで紹介した3シーン、6つの映像はすべて7分45秒の同尺となっており、音声は囁き声で収録されている。「この作品に声を貸してくださることに感謝します」という同じセリフからスタートし、それぞれシナリオは分岐しつつも、ときおり同じセリフを同じタイミングで語るなど、相互に絡み合いながら進行していく。

これらの3つのシーンを通過した後、最奥にあるのが、畳が敷かれた「座禅室」のシーンである。VRヘッドセットの装着手順などインストラクションを受けた後、靴を脱いで畳の上に座り、ワイヤレスのヘッドセットを装着すると、視点は「座禅室」から開始する。姿勢を動かさないでいる間だけ、この「座禅室」に留まることができるが、動くと「左阿彌の茶室」へと移行する。茶室は「京都学派四天王」による「世界史的立場と日本」という座談会の再現シーンであり、これに速記者として立ち合う大家益造の視点となる。視線を下に落とすと机の上に開かれた紙と鉛筆を持った手が見え、この手は鑑賞者の手の動きと連動する。大家となった鑑賞者は、みずからの右手を動かし速記を続けることで、座談会の内容を聞くことができるが、手の動きを止めると座談会の音声は消え、大家が歌人として発表した『アジアの砂』という歌集から引用された短歌★2が聞こえてくる。仮想空間上の音の定位も、語り手の見えている方向と声が聞こえてくる方向が一致している。背景音なども含め、ヘッドセットの方向に合わせて聞こえてくる音は方向やボリュームなど緻密に設計されていることが窺える。声についてはこれまで見てきたCGアニメーションとは異なり囁き声ではない。このVRのシーンでは鑑賞者自身の身体の姿勢がトリガーとなって、視点が別のシーンへと移動する。たとえば鑑賞者が立ち上がると、「左阿彌の茶室」での大家の視点を離れ、メカの浮かぶ「空」へ舞い上がり、またその場で寝転がると独房のある「監獄」へ突き落とされる。これに対し「左阿彌の茶室」で微動だにせずしばらく時間が経つと、見えている茶室の風景が、西田幾多郎の言葉が聞こえる「座禅室」へと移行することになる。鑑賞者の体験としては、VRヘッドセットのヘッドフォンから聞こえてくるセリフに耳を傾けつつ、鑑賞者自身の身体姿勢を変化させて作品を観ることになる。そしてシーンごとに、自身の身体の姿勢、動き、CGで描かれた身体の重みや希薄さを意識させられる。VR内で語られる内容についてはここで詳しく触れず、本稿読者の鑑賞時の楽しみとして味わっていただきたい。ひとつ重要なのは、あらゆる表現はたとえ同じ内容であったとしても、その形式が異なれば伝わり方も違ってくるということである。没入したVRの世界で声によって受け取る言葉は、単に文章を読む形で知識を得るのとは明らかに異なった、身体的な経験として受容されるだろう。

展示順路の最後には、当時座談会が掲載された雑誌『中央公論』の原物や、登場人物の年譜、戦争とアニメーションの関係性や、山口と西田幾多郎との関わりに関する解説など、作品周辺の情報を整理したコーナーが設置されている。本展覧会では、YCAMの教育普及スタッフを中心に、多様な教育プログラムも展開している。2021年2月13日にスタートしたプレトークを皮切りに、担当スタッフによる解説や、本展に関連するYCAMシネマの特集上映★3、対話型観賞のメソッドを応用した鑑賞会「サンカクトーク」、そして若かりし西田幾多郎が打ち込んだ座禅を体験してみる「座禅体験会」など、多種多様な教育普及プログラムを準備した。今回のようなテーマの展覧会においては、どうしても「歴史」や「政治」といった大文字の言葉でテーマを捉えがちだ。しかしアートの展覧会という場においては、常に作品に立ち戻りつつ、自分にとっての歴史や政治とはどんな意味をもつのか、といった手元の議論からスタートさせていくこともできる。本展の教育プログラムはそうした視点から組み立てられている。

コンセプトを頭から鵜呑みにするのではなく、自らの手で掴み取り、咀嚼して味わうプロセスを重視することで、誰かの言葉ではなく、鑑賞者自身の言葉での議論が可能になり、結果として「アートを通じて社会を知ること」へと繋がっていくのである。単に知識を提供したり教え込むだけでなく、鑑賞者の考えを刺激し、言葉を紡いでもらうためのミュージアムエデュケーションならではの取り組みは、未だに探索のしがいのある広いフィールドである。しかし、こうしたテーマを扱った展覧会でこそよりミュージアムエデュケーションのもつ重要な意義や効果が問われる。


VRヘッドセットを無線化することで、様々な体勢で見ることを容易にした。
撮影:三嶋一路 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]


最後に筆者がYCAMのスタッフであるという事実を脇に置き、セオリーに逆らって一鑑賞者としてのコメントや問いを投げ掛けてみたい。当然これが公式の見解ということにはならないので、その点はご留意いただきたい。会場構成や技術的要素を含めて作品を見直してみると、会場内の動線について手前から奥に向けて進む水平方向の空間とVR空間のなかでの縦方向の空間といった対比、機材の無線化★4といった「鑑賞を経験する身体」に対する意識へと興味が湧く。たしかに情報量の多い展覧会だが、劇場としても用いられる空間を広くとった展示室は、次の情報を手に入れるまでの動線上で、一瞬、情報を自分なりに咀嚼する時間がとれる。絶え間なく圧倒的情報量を浴びせられ続けるというよりも、考える隙が与えられる。会場の暗さも相まって、自分を見つめることが許される場であるといえるだろう。

今回展示されている6本の解説映像は、セリフを一部共有しながら複雑に分岐・交錯させて進行するため、ふとした瞬間に空間全体の音が統一されハッとさせられるが、こうしたシナリオの構造そのものに意味を見いだすことも可能だ。CGアニメーションやVRが用いられているのは、単にツーニェン自身が日本のアニメに親しんで育ってきたから、または新技術へのチャレンジといった素朴な理由からだけではないだろう。アニメという表現の階層的な構造や背景にある文脈を取り入れること、また周囲からの視界を遮断し、ある状況に没入するといった経験など、表現の内容と形式との一致を指摘することもできる。背景および透明なセルを複数枚重ねて奥行きを表現するアニメーションの多層的な構造は、幾重ものステークホルダーが重なり合ってひとつの物語を紡いだように見える当時の状況を暗喩しているとも読み解ける。YCAMシネマの「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」展関連上映でセレクトした、日本初の長編アニメ作品と言われている『桃太郎 海の神兵』が、当時の日本海軍の資金提供によってスポンサードされたプロパガンダ映画の側面をもっていたという事実、現在まで続く日本のアニメーションがしばしば「戦争」における大義と個人との葛藤をモチーフとすること、現在制作される多くの日本のアニメ作品がアジア各地のアニメーションスタジオの協力によって成立していることなど、作品を起点にさまざまな解釈や語りを紡いでいければ、鑑賞はより豊かに膨らんでいくはずだ。

山口にも縁のある西田幾多郎★5を起点として、京都帝国大学を中心に展開した哲学者らのグループである京都学派は、戦争を推し進めた当時の軍部に道義的な意義を提供したとして、戦争協力者として見なされている。そこからさらに、彼らがどんな思考で態度を決め、軍と関わっていたのかを資料のなかに掘り進めていったツーニェンは、一枚岩とはいえない京都学派の複雑な関係性、またはそれぞれの思想のなかにある矛盾や破綻といった不統一な姿勢に触れつつ、一方向からのパースペクティブに陥らないよう慎重にその足跡を辿りながら制作を行なっている。鑑賞者である我々は、この作品が現代に投げ掛ける問いについて話し合うことができる。現在私たちを取り巻く状況と、この作品が示している状況で呼応する点は何であろうか? 芸術作品というものは、議論によって我々自身を映す鏡のようにも機能する。我々は「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」を前にして、どんな声を発することができるだろうか。

戦争へと向かう時代のなかで、戦争という極めて具体的でリアルな事態に対し、道義的意義を考察するという理論武装が必要になったのはなぜか。現代の我々も改めて一人ひとり考える必要がある。当時30代から40代だった四天王の学者らが自ら立ち向かう論理や認識の可能性を探ることに熱量をもって語り合う様子は、座談会の記録からも伺える。また若き学者らの論理の非一貫性は、その場で即時的に生成される対話、座談会という形式とも無関係ではないはずだ。そして実際の戦地に赴いたことが無かった学者らの言葉を、実際の戦地を経験していた速記者が記録したという事実もまたここで際立ってくる。速記者は後世になって、なぜ短歌という芸術形式を用いて当時のことを振り返ったのか★6。作品を巡る議論は尽きないが、できれば作品を前にしてこれらの議論を交わしたい。


本稿前半においては、護るべき柔らかい我々を未来へ繋いでいくための確約を求め、秩序によるシステムを強大化させたことにより、結果として不測の状況や未曾有の事態への応答力が衰えつつあることなどを想起してみた。本稿後半も含め、2つの展覧会を往来して考えたのは、未来を確定させる技術として形成した、秩序やシステムに未来を委ね過ぎた事の顛末から学べることや、現在我々が置かれた状況と関連づけて考え応答できることは何なのかということである。それはたとえば、冷静に現実と向き合うこと、能動的に過去を捉え直すこと、創造的に言葉を紡いでいくことなのだろう。美術館やアートセンターは、作品を横に観ながらそうした対話が紡がれる場所になっていかなくてはならない。


★1──天才的な棋士による新しい指し筋の探究はもちろん創造的である。加えて最近はAIによる探究も無視できないものになっている。DeepMind社による、囲碁を指す人工知能AlphaGoは、当初人間の棋士が指した記録、いわゆる棋譜を学習して強化し人間の棋士を打ち負かすまでになった。しかしその後に開発された、ルールのみを教え、棋譜は学習させない、いわゆる人工知能分野でいうところの「教師無し学習」によって生まれたAlphaGo Zeroは、棋譜を学習したAlphaGoをあっさりと打ち破った。このことは人間が探索していた囲碁の手の範囲が、すべての手の探索範囲に比べて限定的であったことを示すものであり、AlphaGo Zeroが人間の思いもよらなかった新しい指し筋を開拓したといえる。こうした発見もひとつの創造性として捉えることができるだろう。
★2──大家益造(増三)は歌人として歌集『アジアの砂』(そろばんや書店、1971)を発表している。
★3──YCAMには毎週映画を上映しているYCAMシネマがあるが、このタイムテーブルのなかに、展覧会に関連する特集上映を組み込んだ。上映作品は『戦場のメリークリスマス』(1983、監督:大島渚、4Kデジタルリマスター版)、『東京裁判』(1983、監督:小林正樹、4Kデジタルリマスター版)、『細雪』(1983、監督:市川崑)、『桃太郎 海の神兵』(1945、監督:瀬尾光世)。
★4──装置を有線化することにより表示レスポンスや電源の問題は改善されるのだが、今回の作品においては鑑賞者が立ったり寝転がったりする身体的な経験の自由度を重視するため、技術チームの尽力により最終的にはVR機材を改良し無線化と電池駆動を実現させ、作品として成立させた。
★5──西田幾多郎は1897-1899年、旧制山口高等学校の教員として山口に滞在していた。プライベートでも悩んでいたこの時期に京都の寺を中心に座禅の修業に勤しんでいた。
★6──『アジアの砂』に収録された短歌には、例えば以下のようなかなり辛辣な批判を当時の学者へ向けた句が残されており、今回の作品のなかで引用されている。 “絶対無などといえる語ありたりき 彼の学者ら今いかなる語ありや”

野口哲哉展—THIS IS NOT A SAMURAI

[香川会場]
会期:2021年2月6日(土)~3月21日(日)
会場:高松市美術館(香川県高松市紺屋町10-4)

[山口会場]
会期:2021年4月15日(木)~6月13日(日)
会場:山口県立美術館(山口県山口市亀山町3-1)

[群馬会場]
会期:2021年7月3日(土)~9月5日(日)
会場:群馬県立館林美術館(群馬県館林市日向町2003)

[愛知会場]
会期:2021年9月18日(土)~11月7日(日)
会場:刈谷市美術館(愛知県刈谷市住吉町4-5)

公式サイト:https://noguchitetsuya2021.exhibit.jp/

ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声

会期:2021年4月3日(土)〜7月4日(日)
会場:山口情報芸術センター[YCAM]スタジオA(山口県山口市中園町7-7)

公式サイト:https://www.ycam.jp/events/2021/voice-of-void/

関連イベント

座禅体験会
開催日時:2021年6月20日(日)14:00〜15:30
会場:洞春寺(〒753-0082 山口県山口市水の上町5−27)*現地集合、現地解散
参加費:無料(要申込)

サンカクトーク
開催日時:2021年6月12日(土)、6月26日(土)各回 14:00〜16:00
集合場所:山口情報芸術センター[YCAM]ホワイエ 参加費:無料(要申込)

担当スタッフによるトーク
開催日時:2021年6月5日(土)14:00〜14:40
集合場所:山口情報芸術センター[YCAM]ホワイエ 参加費:無料(要申込)

*イベント詳細・申込方法は下記ホームページよりご確認ください。
https://www.ycam.jp/events/2021/voice-of-void/

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