キュレーターズノート
泡と消えた被災地の夢
山内宏泰(リアス・アーク美術館)
2021年09月15日号
対象美術館
復興事業の象徴とも言える気仙沼大島大橋、三陸自動車道、気仙沼湾横断橋の開通。そして東京2020オリンピックの開催、気仙沼大島を舞台とする連ドラの放映。すべてが気仙沼の新たな船出にとって強い追い風となるはずだった。しかし……地域住民がイメージしていた輝く未来、希望はコロナ禍の発生という大誤算によって泡と消えた。
本稿では「震災復興事業」の完了とコロナ禍が重なる宮城県気仙沼市の現在、東日本大震災被災地10年目の日常をレポートする。
「復興オリンピック」とNHK連続テレビ小説への期待、そして
2021年3月11日。東日本大震災発生から10年目のその日、気仙沼市では例年通りの合同慰霊祭のほか、気仙沼市復興祈念公園の開園式典が開催された。しかしこれは同年2月11日に予定されていた式典がコロナ禍によって延期された結果だった。同時期の3月6日には市内を走る三陸自動車道で気仙沼湾横断橋の開通式が行なわれ、仙台~宮古間が高速道路によって直結した。振り返ってみれば、気仙沼市で10年目の特別な日を巡って執り行なわれた記念行事、記憶に残る出来事といえばそんなものだ。
気仙沼市の場合、本来ならば毎年3月は震災
関係のもろもろでまち全体がバタバタする。元来、年度末ゆえに慌ただしい時期だが、よりによってそんな時期にあの出来事が起きてしまったことを毎年恨めしく思う。しかし、そんな状況も4月に入れば一変する。震災への意識は薄れ、皆が新しい生活へと快活に歩んでいくことになる。その様子はある意味で「救い」でもあるのだが、昨年来のコロナ禍によってそのわずかな「救い」さえも感じられないギリギリの生活が続いている。5月、紆余曲折を経てオリンピックは中止、延期ではなく、開催することが決定された。だが同時期、気仙沼市民にとって最大の関心事は気仙沼大島を舞台の一部とするNHK連続テレビ小説の放送が開始されることだった。6月には気仙沼でも聖火リレーが行なわれたが、オリンピックが当地に残した「成果」はそれだけ、「復興オリンピック」などという言葉は実質的には死語だった。
7~8月、観光業や飲食業に携わる地域住民らは「連ドラ効果」に期待を寄せていたが、気仙沼大島が舞台と言いつつ、外ロケが厳しいためか気仙沼が映し出されることはほとんどなく、観光客にアピールできるほどの成果はまったく得られていない。そしてさらに、感染爆発による規制と自粛の結果、ようやく海開きしたばかりの海水浴場は短期間で閉鎖、夏の一大イベントである「みなとまつり」も中止とされた。高齢者へのワクチン接種が進んだ結果なのか、お盆休みには帰省客等が激増し、数カ月間出ていなかった感染者が市内でも急増した。8月20日には「まん延防止等重点措置」の適用を受け、市内の飲食店が一斉に休業、時短営業を開始、現状では9月中旬までの対応となる予定だが、緊急事態宣言の発出も避けられず、先の見えない地下トンネルへと突き進んでいくような状況である。
さまざまな規制が続くなか、私自身も変化のない生活を粛々と続けている。強いて言えば、この4月に館長の任を与えられたことで職務内容は一部変化したが、状況が状況なので身動きの取れない日々が続いている。いずれにしても、この数カ月でレポートできることは身近な話題に限られる。よって本稿では東日本大震災発生10年目の日常、いわゆる「震災復興事業」の完了が見えてきた気仙沼の現在をレポートする。東北の被災地の現況は、本来ならば「復興オリンピック」というお膳立てによって世界に発信されているはずだったが、予想通り、まったくそんなことにはならなかった。よってこの機会に私から現況報告させていただきたいと思う。
橋、道路、防潮堤、復興住宅──巨大コンクリートだらけの復興工事
はじめに、この10年間に起きた目に見える変化、風景の変化について私見を述べる。
これは前提であり、あらためて説明する必要はないかもしれないが、気仙沼市内の劇的な変化は主に津波被災による街並みの消失とその後の嵩上げ工事、防潮堤建設工事による。加えて、居住不能とされた土地の代わりに山林が切り開かれ、市内各所に新しい住宅地が誕生したことも風景の変化に大きく関わっている。嵩上げの後、再開発が進められたエリアでは、震災発生以前とは微妙に異なる区画整理が行なわれ、真新しい建造物が建設されている。文字通り別な街、記憶にない見たことのない街並みが日々増殖している。特に目に付くのは巨大な公営マンション=復興住宅である。2011年以前にはほとんど存在しなかった5~8階、10~13階建てのマンションが市内各所に複数建設された。そういうものと縁遠い地域だっただけに、その佇まいからは気仙沼らしからぬ異様さ、薄気味悪さが感じられる。
あの震災では東北地方太平洋沿岸部全体が最大で80~100㎝近くも地盤が沈下した。ゆえに大々的な嵩上げ工事が必要とされた。嵩上げされた土地にはさらに高さ数メートルの防潮堤、河川堤防等が設置され、同時に市内を流れるほとんどの河川で橋の架け替え工事も行なわれた。津波による被災の有無にかかわらず、堤防よりも低い従来の橋は撤去され、その隣に高く堅牢な橋と新たな車道が整備された。さらに、気仙沼大島には「島民の悲願」とされてきた大島大橋が架けられ、離島はついに陸続きとなった。そして気仙沼湾の湾口には巨大な橋、三陸自動車道気仙沼湾横断橋(かなえおおはし)も建造された。三陸自動車道が横切るかたちとなった市道、町道は高架式の跨道橋に造り替えられた。気が付けば気仙沼市内は橋だらけである。
橋は風景、特に空や奥行きを寸断する。それは縁取りのようであり、額縁のようでもある。完成直後のコンクリートや塗装されたばかりの鉄骨の肌は眩しく人目を引く。ゆるやかなアーチ型は造形的にも美しい。そして大災害をも克服していく人間の科学技術力を実感させることから、暗黙のうちに「復興の象徴」と見なされる。特に気仙沼ではその傾向が顕著である。
市内全域を見渡してみると、橋以外にも鉄筋コンクリート製の巨大建造物が目につく。岸壁、防潮堤、河川堤防、マンションなど、復興事業において新造された大型の構造物はたいていコンクリート製である。今は白光りしているそれらの構造物も、数年後には水垢やカビ、埃などによって黒く薄汚れてしまう。そうなったとき、それらの構造物は地域住民の目にどう映ることだろう。
インフラの変化による地域社会の揺らぎ
気仙沼湾横断橋の開通とともに岩手県沿岸部から福島県沿岸部までが高速自動車道によって直結した。例えばリアス・アーク美術館から5分ほどの気仙沼中央インターから三陸道に乗った場合、石巻、仙台、福島各所へ、一般道を一切使わずにたどり着くことができる。ちなみに仙台~気仙沼間ならば2時間以内の移動が可能となった。震災発生以前と比較すれば、約30分の時間短縮を実現している。とはいえ、JR気仙沼線が一部区間BRT化されたことで、仙台~気仙沼直通鉄道路線は実質廃線となった。現在、鉄道による仙台、東京方面への出張などはJR大船渡線、一関経由新幹線利用一択になっており、なお一層車社会化が進んだことに、地域住民はひそかな不安を抱いている。
気仙沼大島に橋が架かり、陸続きとなったことは、今後気仙沼地域の歴史や文化を大きく変える出来事である。島民にとっては生活の利便性が「別世界」と言えるほどに激変したことだろう。そして島外の者にしてみれば、気仙沼市が一回り大きくなったような感覚である。橋ができたことで、気軽に出かけられる場が増えた。あるいは、将来的には居住地としての可能性も見えてきた、そんな感覚である。だが、無制限に車で上陸可能となった気仙沼大島の自然環境は、今後間違いなく望ましくない方向に変化していくことだろう。なお、気仙沼湾横断橋の完成によって劇的に交通の便が良くなった唐桑地区についても、大島と同様の変化が起きている。
三陸自動車道も大島大橋も、震災が発生していなければ現在の状況にはなっていなかった。地域住民にしてみれば、どちらも非現実的な夢物語、「自分が生きているうちに完成することはないもの」と半ばあきらめていた巨大事業だった。それが復興事業に化けることで一気に実現された。確かに生活は便利になった。そしてさまざまな可能性も見えている。経済的な効果も期待できるはずだ。しかし、そう楽観視ばかりしていられない状況もある。外部から来やすくなった気仙沼、唐桑そして大島ではあるが、逆に、「外に行きやすくなった」ということでもある。地域住民は休日になると気軽に日帰りが可能になった石巻や仙台に出かける。大型ショッピングモールや都市部の衣料品店を利用しやすくなった結果、地域住民はますます地元でお金を使わなくなっている。ということは、観光客が来なければ、気仙沼に明るい未来は期待できないということではないのか。
10年後の被災地が被ったコロナ禍
昨年来のさまざまな出来事が気仙沼に与えたインパクトは10年前の震災被災にも匹敵する大きなものと言える。地域住民がイメージしていた輝く未来、希望的観測はコロナ禍の発生という大誤算により泡と消えた。
未だまちの機能回復が完全ではない気仙沼市は、次へのステップ、希望のはしごを外されグラグラの状態に追い込まれている。「10年目」とオリンピックに照準を定め資金を投入し、前倒しで事業を進めてきた地元企業も、結果的に見込んだだけの収益を得られてはいない。最大の理由は二重三重の期待をかけた観光客増加の機会を失ったことだ。地元経済はアイドリング状態のまま自らの体力を失いつつ空回りを続けている。
悪いことは続くもので、まちの生命線である漁業の不振はもはや致命的である。よりによって昨年度はサンマもカツオも歴史的大不漁だった。サンマ漁は今後しばらく回復を望めないらしいが、今年のカツオ漁は近年にない豊漁となった。しかしながら、外食需要の激減と全国的な豊漁が重なりカツオの価格が下落、「経費割れ」の危機だという。やはり非常に厳しい状況と言わざるを得ない。まさに踏んだり蹴ったりである。
さて、震災発生から10年を経過した被災地が今どのような状況に置かれているのか、多少ご理解いただけただろうか。勿論、コロナ禍が全世界的災厄であることはわかっている。しかし、気仙沼のみならず、日本国内でコロナ禍×自然災害の重複被災に追い込まれている地域は、やはり相当大変な状況に置かれているはずだ。何をどうすればよいのかわからないが、こういった状況は間違いなく文化、芸術分野にも強烈な影を落とすことになる。今後数年間、われわれには淘汰の時代を生き抜く知恵が必要だ。