キュレーターズノート
「コロナ禍によって失われつつある大切なことをアートは甦らせてくれる」か?──奥能登国際芸術祭2020+
赤井あずみ(鳥取県立博物館)
2022年02月15日号
対象美術館
新型コロナウイルスの蔓延による大きな変化のうちのひとつに、移動の制限があることはいうまでもない。一年の暦を展覧会スケジュールで刻んでいる者たちにとっては、この2年間は針を失った時計のような曖昧な時間を過ごしたのではないだろうか。第2波、第3波などの感染ウェーブは、4つ目以上でもはや記憶のトリガーの役目を果たさなくなった昨今ではあるが、10月からほんの3カ月、以前のような日常生活が戻った期間があり、幸運にもいくつかの芸術祭を見て廻ることができた。そのうちのひとつ「奥能登国際芸術祭2020+」について詳しくレポートしたい。
石川県珠洲市──最涯の地の芸術祭
「奥能登国際芸術祭2020+」は、もともとコロナによって2020年に開催する予定を1年延期して開催された芸術祭である。「最涯(さいはて)の芸術祭」の名にふさわしく、能登半島の最北端に位置する珠洲市を舞台に、越後妻有、瀬戸内といった過疎地での芸術祭を手がけてきた北川フラム氏のディレクションの下、自然や風土、歴史文化を背景にしたサイトスペシフィックな46のアートワークが市内の10地区に展開された。
筆者が居住する鳥取も本州におけるもうひとつの最果ての地といってもよいと思うが、ここから金沢まで電車で5時間半、金沢市内から高速バスで3時間半という交通の便の理由から、2017年に開催された第1回展に訪れることを断念した経緯がある。そうした困難を押してでも足を運んだのは、前回の芸術祭の評判が概ねよかったことと、野外に展開されたコミッションワークの状況を視察したかったこと、この2つの理由があった。
サイトスペシフィックな作品群を廻る
作品にはいくつかの傾向がある。ひとつには2005年に廃線となった旧のと鉄道能登線とその駅舎を利用したものである。旧南黒丸駅を会場としたサイモン・スターリングは、ふたりの男性がワイヤーを廃線上に伸ばしていく作業を映したモノクロの映像作品と映画フィルムのコマを拡大してプリントした写真によるモニュメントを線路上に設置した《軌間》を発表。旧鵜飼駅には香港ベースのディラン・カク(郭達麟)がスマートフォンに耽溺している2匹の猿を駅のホームに座らせた。旧飯田駅の河口龍夫による《小さい忘れもの美術館》、旧上戸駅のラックス・メディア・コレクティブによる《うつしみ》、旧蛸島駅近くのトビアス・レーベルガーによる《Something Else is Possible/なにか他にできる》は2017年から常設されている作品群である。
また、海岸沿いも多くの野外作品が展開された。スボード・グプタ、キムスージャ、原広司、フェルナンド・フォグリノらの作品は、風景に寄り添いながら、それぞれ現代のモニュメントとしての意義深さを湛えた点が印象的であった。
こうした芸術祭の定番ともいえる空き家を活用した作品としては、ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホの元瓦工場を会場とした打楽器音によるインスタレーションや、クレア・ヒーリー&ショーン・コーデイロの元昭和レトロ喫茶の空間に巨大な月のオブジェを設置した作品は、ユーモラスで笑いを誘うものだった。一方、カルロス・アモラレスの《黒い雲の家》は紙でつくられた黒い蝶が古民家の空間を埋め尽くし、不穏さを醸し出していた。
「海」をモチーフとした作家も目立つ。デイヴィッド・スプリグスは荒波そのものを視覚化した圧巻のインスタレーションを制作しており、盛圭太の《海図》、塩田千春の《時を運ぶ船》、山本基の《記憶への回廊》、佐藤貢の《網の小屋》は、船や塩といった海のそばでの人々の営みから着想し、作品化したものだった。
最も印象的だったのは、さわひらきの映像インスタレーション《幻想考》である。旧日置公民館の館内全体をつかって展開された本作は、部屋の中に小さな飛行機が飛んだり日用品が動き出したりといった、さわが初期から手がけるシュルレアリスティックな映像作品が、空間へと展開したようなインスタレーションとして発表された。白い半透明のレースカーテンをくぐり最初の部屋に入ると、アンティークの家具や用途がわからない何かの部品、額装されたドローイング、古い写真など、誰かの存在を暗示するオブジェと、スピーカーの部品を改造した小さなスクリーンが配置されている。通路を抜けると一転してモノトーンの空間となる。床の下から発掘されたような原寸大のボートの周囲には、ガラスやプラスチックなどの透明な材質の日用品の一部や、金属性の道具が吊り下げられたモビールが浮かび、ゆっくりと旋回している。絶妙なライティングによる影絵のアニメーションの上映ともいえる。さらに、真っ暗な廊下を点滅する光と小さな映像に導かれながら進むと、ふいに聞き取りにくい音声の館内放送が流れる。奥には部屋が3つあり、手前の小部屋には珠洲でロケを行なった映像作品が上映され、次の最も大きな部屋にはオブジェと映像と光、音声がある時間になると同期して流れる仕組みとなっていた。立体にも映像にも円形と球体が繰り返されるモチーフとなっており、マルチスクリーンの映像と動く光と影により、別の時空間を現出させていた。全体を通して見るとおそらく30分はかかり、展示を通じて一編の映画のような時間が立ち上がっていた。思えば、最初に聞いた廊下の音声は、映画上映を告知する放送だったのかもしれない。
ウェブサイトによれば、本作は第1回展で発表された《魚話》をさらに発展させた作品で、さわの祖父が珠洲に居住していたという個人的なエピソードが発想源のひとつだという。会場の古い写真や地面に埋め込まれているかのような船は、そうした記憶を象徴するものとして理解できるし、そもそもさわの作品には一貫して幻視や幻想、夢といった現実とは別の時空間世界が扱われてきたため、それが本作の鑑賞の助けになっているのだろう。
そうした点をふまえつつ、この作品がなぜ「印象に残ったのか」を考えると、見ることに時間をかけたということも大きな要因なのではないかと思う。芸術祭の宿命として、あるいはアートツーリズムの、と言い換えてもよいかもしれないが、作品の鑑賞というよりもその作品/土地の確認作業に終わってしまうことが多分にある。その性質は、多くの芸術祭で取り入れられている「スタンプラリー」の形式を思い出すだけでも十分だろう。そうした危険性を認識したうえでなるべくそうした「作業」にならないように気を配りつつ廻った結果、時間切れで、訪れることのできなかった作品もいくつかあった。
地域の文化継承と自発的で個性あふれるホスピタリティ
「作品を見逃す」という残念な結果ではあったが、その代わりに筆者が出会った事柄を、2つ挙げたい。
ひとつは、芸術祭以前から行なわれていた文化継承についてである。塩田村 塩の資料館は、能登半島に残る日本で唯一の揚浜塩田を伝える資料館で、塩の製法の発展の歴史のジオラマや塩づくりの道具、塩づくりを記録した映像のマルチスクリーン上映、世界の塩などの展示を見ることができる。揚浜式製塩は人力で海水を汲み上げ、砂地に撒き、天日干しにした砂を集めて塩分濃度の濃い海水を20時間以上釜で炊く、という500年前から変わらぬ製法で作られている。国策により塩田が整理され、効率の悪いこの製塩が縮減されるなかで、この製法を守る個人があったこと、そのうえで重要無形民俗文化財に指定されたということを知った。
また、珠洲市立珠洲焼資料館には、平安から室町にかけて作られていた須恵器のような肌合いの焼物のコレクションが展示されていた。ここはリュウ・ジャンファとカン・タムラの作品の会場であったことから訪問した場所であったが、珠洲焼の素朴な造形と名もなき工人たちの創意の表れた装飾文のストロークに釘付けとなった。15世紀末に廃れてしまった珠洲焼は、戦後の調査研究により1979年に復興され、現在も約20の窯元がその技術をもって焼物を手がけているという。両者とも一旦は(ほとんど)廃れてしまった技術を再興し、次世代につなげていくという、土地の人々の意思を強く感じさせる施設であり、奥能登という土地の輪郭がよりくっきりと現われたように思った。
もうひとつは、芸術祭の会場で出会った人々の自由闊達な雰囲気である。令和3年12月号の「広報すず」
に掲載された北川フラム氏の総括の言葉に、珠洲市の「10地区全てで展示できたことが大きな力で、これが成功を支えてくれました」とあるように、この芸術祭では市内を走る道路沿いの隅から隅までに、作品が点在していた。都市型の芸術祭と比較すると、展示エリアの広域性は地方で開催される芸術祭の特徴のひとつであるが、ここではその廻りにくさを指摘するのではなく、10地区の自治会が運営に寄与しているという点に注視したい。筆者が宿泊したゲストハウスのオーナーから聞いた話によれば、芸術祭の開催が決まると、市長自らが地区公民館を訪問し、協力を依頼してまわったという。それが原動力となって、会場受付や看視のボランティアは、住民によって担われているということであった。思い返すと各会場の運営は個性的であった。塩田千春の展示会場では、地元の男性が塩づくりの歴史について熱心に語りかけてくださったし、カルロス・アモラレスの会場ではストーブで焼いたかきもちがふるまわれ、また建物入口に即席の野菜販売所が設けられている会場もいくつも目撃した。
田中信行の《連続する生命》は蛸島町の島崎三蔵家を会場とする展示であったが、作品と空間を区切った母屋の一角に廻船問屋時代の古い道具や家財が陳列されていた。家の歴史を記した印刷物を自ら来場者に配布していた女性に話しかけると、かつてここに暮らした子孫であり、その思い出を話してくれた。思いがけず「家の語り部」となった女性の姿は、例えば「スズ・シアター・ミュージアム」で展開されていた昔の道具の巨大なインスタレーション/上映と同じか、それ以上の強さを持っていたように思う。
恐らく自発的に行なわれたであろうそれらの行為は、観光客に対するきめ細やかな気配りを売りにする「おもてなし」というのとも少し異なる。強いて言葉にするなら、作品への各人の「応答」としてそれらが行なわれていた、といえようか。作品と人との間のやりとりの豊かさは、さまざまな点において芸術祭の評判、ないし成功と直結している。なかでも筆者が重要に思うのは、来場者が足を留め、言葉を交わし、土地と関わることで、より踏み込んだ鑑賞体験が可能となる点である。さらに、作品を前に、運営ボランティアも、来場者がサービスを与える側と受ける側という役割を離れたフラットな関係性を結び、共にその場を祝福するという状況も生まれ得る。
文化政策の成果をいかに測り、伝えるか
たかだか2日間を過ごした町について、筆者が述べられることは多くはないが、もうひとつ書き記しておきたいことは、かつてこの地が原子力発電所の建設を誘致し、市民による反対運動も含めた紆余曲折の結果、最終的に断念された歴史をもつという事実である。芸術祭の財源のひとつとなっている「地域振興基金」も、元を辿れば原発が建設されなかったことによる電力会社からの寄付金によって創設されたものだという「珠洲市人口ビジョン(改訂版)」によれば、人口ピーク時の1950年の約38,000人から2015年には14,625人と4割の減少が報告され、自治体は存続にかけて相当な危機意識をもっていることが窺える。
。令和2年3月に改訂された実は鳥取県も1980年代に原発建設の計画が浮上し、結局、計画が中止された歴史を持つ土地であり、また人口も1985年の約61万人から約54万8千人と約1割減少している。加えて、3月のダイヤ改正で山陰地方のJRの路線が37本減便されることが昨年末に発表されたこともあり、珠洲市の状況は他人ごとではない。近代化から取り残された裏日本地域についてここで議論を展開する余裕はないが、過疎地で現代アートに関わる者として、今後リサーチを続けてみたいテーマである。
今回のタイトルテキストに据えた一文「コロナ禍によって失われつつある大切なことをアートは甦らせてくれる」は、芸術祭実行委員長を務める珠洲市長の言葉を引用させていただいた。コロナを契機とするさまざまな変化は、ウイルス自体が引き起こしたものだけではなく、それ以前から生じている事態をより顕在化、加速化したことも多いように思う。つまりさらに切実になっているのである。
地域振興の名の下で進められる地方自治体の文化政策にとって、この芸術祭は重要なケーススタディとなることが予想される。経済指標では捉えられないその価値をいかに測り、伝えられるかは各人が真摯に取り組むべき課題である。と同時に、それらの知恵を共有し公共財としてゆく回路の創出も、切実に待たれているように思われる。
奥能登国際芸術祭2020+
会期:2021年9月4日(土)〜11月5日(金)
会場:石川県珠洲市内各所