キュレーターズノート
目の前の身体とどう向き合うか──Unrest 62|22 レクチャー、アーティストトーク、パフォーマンス 変動する身体 FEAT. 小林勇輝
能勢陽子(豊田市美術館)
2022年07月01日号
私たちはみな、それぞれの身体でこの世界に存在している。ところが、社会のなかで一糸纏わぬ裸になると、それは途端に秩序を乱す異物になり、ノイズを発し始める。なにも身に付けることのない動物たちに比べると、これは奇妙なことであるかもしれない。誰もが持っている自然のままの体は、欲望を喚起し、あるいは生の生々しさを晒け出しすぎるため、社会のなかでは反文明的な存在になるのである。
1960年代から現在、裸体表現の変動
今年で開設60周年を迎えるゲーテ・インスティトゥート東京では、日本における60年代の映画、音楽、パフォーマンスを現在につなげる一連のイベント「Unrest 62|22」が、5月から8月にかけて開催されている。この企画の一環として、パフォーマンスを中心に活動を行なう小林勇輝を軸に、レクチャー、アーティストトーク、小林のパフォーマンスを行なうイベントで、私はトークを企画することになった。登壇をお願いしたのは、小林に加え、高嶺格、遠藤麻衣の、パフォーマンスや演劇、インスタレーションにおいて、ときに裸体になり、また裸体を登場させることがあるアーティストたちである。
研究者・キュレーターの権祥海によるレクチャー「儀式を主軸に60年代と公共性を語る」の後、60年代と現在における裸体表現のつながりや違いについて、登壇者たちの話を聴いた。権のレクチャーでは、60年代のフルクサス、ネオ・ダダ、松澤宥などの作家たちによるパフォーマンスも網羅的に紹介されたが、なかでも予期せぬ場所で突如として裸体を出現させるゼロ次元や糸井貫二(ダダカン)、万博破壊共闘派といった作家たちのハプニングを想定しつつ、互いに意見を交わしていった。なぜ裸体に焦点を当てたかというと、制度や禁忌からの人間の解放として展開された裸体によるゲリラ・パフォーマンスから60年近くが過ぎた現在、公共空間での裸体表現はますます難しくなり、そこにある危険な閉塞感を感じていたからである。そして60年代と現在の裸体表現を比べてみたとき、社会または他者への向き合い方、そしてそれを取り巻く状況というものの違いが鮮明に見えてきたのだった。
戦後15年から25年にあたる60年代は、1960年の日米安保闘争に始まり1970年の大阪万博開催に至る、高度成長期の只中にあった。60年代、ゼロ次元やダダカンの裸体によるパフォーマンスは、近代社会の管理への抵抗を示す、都市空間での文化的テロとして行なわれた。そこにおける身体は、土着性、風俗性を伴っていた前近代に帰るための、失われたアイデンティティを取り戻す原初的な場としてあった。ゼロ次元の加藤好弘は、このように述べている。
この儀式集団は、街頭の人々の集まっている場所が、彼らの表現の舞台になった。なぜなら、事件を予知しないでいる日常生活のなかに、いきなり強姦的な事件が発生することを彼らは計画した。(略)
六〇年代の初めに、東京の銀座の街角に三十名の全裸の男女が走った。人々や車がいっしゅん立ち停まった。高層ビルも驚いて、この芸術テロ行為を自分自身の立場を忘れて見つめた。
徹底して反文明、反権力を表明する、60年代に過激に展開された生身の身体に比べて、現在の作家たちによる裸体表現は、拘束からの解放といったラディカルさはあるものの、あらゆるものに対する「アンチ」という要素は影を潜めているように思われる。現在の社会はより複雑で、何に対して「アンチ」を掲げるべきかわかりにくい時代である。60年代の裸体が、自らの存在を暴力的に曝け出すことで、「反権力」を標榜する政治的メッセージの媒体になったのに対し、このトークの登壇者たちによる裸体表現は、他者(観客)とどのような関係が取り結べるかを探る、よりパーソナルなものであるように思われた。それは、テロのように有無を言わさず介在してくるものではない。60年代における裸体のパフォーマンスが、近代の個人主義を越える集合的、無個性的なものを目指したのに対し、現在の表現における裸体は、あくまで個別性を備えた、それぞれの特徴を持った身体として目の前に現われる。通常は親しい間柄でしか見られることがないだろう裸体が、無防備にあるいは無垢に、観る者と何らかの関係性を構築するためそこに存在する。裸体は、もちろん観る人によっては不快に受け止められる可能性もあり、大なり小なりの衝撃を与え得るものである。しかしだからこそ、ほかの表現にはない仕方で、境界を一歩越えて観る者の方に踏み込んでくる可能性を持っている。60年代の身体表現が、儀式的行為を通じて前近代的な共同体を志向したのに対し、現代のこれら登壇者たちの裸体表現は、儀式のような特異なものではなく、欲望の眼差しを超えた新しいかたちの共同体を模索しているとも言えそうである。例えば小林勇輝は、ゲーテ・インスティトゥートを主な拠点に2019年にパフォーマンスアートのプラットフォームStillliveを立ち上げ、人々が共に集まり多様なパフォーマンスを展開する実践を行なってきた。高嶺格は、演劇やインスタレーションごとに、日本のみでなくさまざまな国の参加者と共同制作やワークショップを行ない、新たなつながりを模索してきた。そして裸体になればむしろ性差は隠しようもなく明らかになる遠藤麻衣のパフォーマンスは、それでも欲望を超えて他者とつながることはできないかという肯定的な動機に裏付けられている。
裸体表現が困難な状況のなかで
トークの後行なわれた小林勇輝によるパフォーマンスでは、かつてスポーツ選手を目指していたという逞しい体躯をした小林が、いくつかの球技を淡々と続けていく。そして、立派な社会人男性の象徴であるスーツを脱いで裸体になった後は、義足を取り付けてさらに太く逞しくなった足を開いて、ニュージーランドのラクビー選手が試合前に行なうハカを全力で繰り返す。ハカは選手たちの闘志を鼓舞するために行なわれる、マオリ族の民族舞踏に根ざした儀式であり、それを介して母なる大地とつながり、人々の心がひとつになるという。それは試合の前に行うにふさわしく、熱狂的な闘争心や一体感を掻き立てる。
しかし自らの胸と腿を激しく叩き続けながら全力でこの儀式を繰り返す小林の身体は、みるみるうちに赤くなり、ただひたすら消耗していくようにみえる。そこには、対戦により刺激される攻撃性、高まる感情が醸成する一体感、男性性に負わされる期待や負荷が、まざまざと浮かび上がってくる。自らを激しく叩いて何かを応援し続ける裸の小林を前にした私たちは、もはやその痛々しくもある裸に向かって、安易な鼓舞や高揚感に加担できないことを知るのである。
生身の裸体によるパフォーマンスは、まるで供物のように、あるいは自然で無垢な存在そのものとして、私たちの目の前に現われる。そこで起こるのは、作品のみに対峙するときとは異なる、パフォーマーとともに過ごす時間と空間、そしてそこに生まれる感情である。そんな風に目の前に他者の身体が現われたとき、私たちはどのように反応し、そして自らを開き、また関係を結ぶことができるのか。
現実には、現在の日本の公立美術館で裸体表現を行なうことはなかなかに困難である。そうしたなか、登壇した作家たちが口々に語っていたように、こうした表現の場をつくり続けるゲーテ・インスティテュートの活動は、改めて素晴らしい。そして本来は、すべての人々にとって快いとは言えないだろう表現を、公共空間で展開する、あるいは守っていく意義が十分に議論できたなら、日本において芸術を公共に開くことの意味をずっと深められるのだろう。裸体表現は、何より人間が人間であること、また他者に向き合うとはどういうことかを、思考に寄りすぎず鮮烈に伝えることができる手段であり、特に他者との接触が加速度的に失われていく現代、重要性を増してきているのではないかと思う。
Unrest 62|22 レクチャー、アーティストトーク、パフォーマンス 変動する身体 FEAT. 小林勇輝
開催日時:2022年6月26日(日)15:30〜20:00
会場:ゲーテ・インスティトゥート東京 ホール(東京都港区赤坂7-5-56ドイツ文化会館内)
公式サイト:https://www.goethe.de/ins/jp/ja/sta/tok/ver.cfm?event_id=23074662