2022年08月01日号
次回9月1日更新予定

キュレーターズノート

2つの民衆版画運動が現代に照射するもの──「生活」的アプローチの広がりとジレンマ

町村悠香(町田市立国際版画美術館)

2022年07月01日号

町田市立国際版画美術館で開催している「彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動展」は間もなく会期末を迎えようとしている。筆者はartscapeで数回に渡り本展の調査経過について述べてきたが、展覧会が始まったあとは企画者の手から離れて成長していったように感じる。来館者アンケートや展覧会レビューなどを読むと、鑑賞者それぞれが自らの体験と照らし合わせながら解釈し、企画者も気づかなかった視点にハッとさせられることがある。


「彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動展」6章展示風景


展示では6章構成をとり、「1章 中国木刻のインパクト 1947−」、「2章 戦後版画運動 時代に即応する美術 1949−」、「3章 教育版画運動と『生活版画』 1951−」、「4章 ローカルへグローバルへ 版画がつなぐネットワーク」、「5章 ライフワークと表現の追求」、「6章 教育版画運動の開花 1950年代−90年代」とした。約400点の作品と資料を通して大まかに前半で戦後版画運動、後半で教育版画運動を分けて紹介している。特に前半の方は当時の政治・社会状況との結びつきが強く、公立美術館という場の性質から、時代背景の伝え方に配慮する必要があった。

2つの民衆版画運動をつなぐキーワードが「生活」だ。1950年代初めの「生活綴り方運動」の影響を受けて、教育版画運動が始まり、また政治との距離が近かった戦後版画運動にかかわった作家が描く対象も変わっていくからだ。



「彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動展」チラシ

主題に対する3つのアプローチ

筆者が図録に寄せた論考では、2つの民衆版画運動の主題とアプローチ方法の共通点に注目し、アプローチ方法を(A)「リサーチ型アプローチ」、(B)「『生活』的アプローチ」、(C)「ライフワークとしての取り組み」と分類してみた。

(A)「リサーチ型アプローチ」は、労働争議が起こっている炭鉱や工場などの現地に外部から取材に行き、社会的に話題となっている事件を伝える。また、ニュースで報じられる弱者の立場にある他者を伝える。戦後版画運動でテーマになったのは、例えば高萩炭鉱や日立の争議、1952年メーデー、基地闘争、第五福竜丸事件だ。同時代の「ルポルタージュ絵画」と近いかたちをとり、概して政治性が強い。

(B)「『生活』的アプローチ」は「生活綴り方」の手法(日常生活を作文で表現することで、現実を知り社会を認識する教育方法)を応用し、生活のなかから問題を見つけ、自身や所属するコミュニティを表現して社会構造を認識し、コミュニティ外部の他者に状況を伝える。教育版画で指導されたガリ版刷りの手作りの版画文集、共同制作作品の多くはこの手法をとっている。

これに関して、「みんな、かつては版画家だった──教育版画運動と大田耕士旧蔵版画集から考える「私たち」の戦後美術史」では、石川県羽咋郡志賀町の小中学校で1950年代から指導した前田良雄の『百姓に生えた子どもら』を紹介した。こうした版画文集では生活を表現した版画と作文を通じて、生徒が人間的に成長することを目指している。

都市部で教育版画が盛んだった地域の例として、本展では川崎市の共同制作作品群を紹介した。1950年代前半に設立され、今も続く「川崎教育版画の会」で中心的な役割を果たした小学校教員・浪江年博の指導作に描かれた工場の煙の変化に注目して作品を選定した。



神奈川県川崎市東大島小学校版画クラブ6年生12名(指導:浪江年博)《造船所》(1968)、同校所蔵


これらはダイナミックな構造物が魅力的で、その造形美を主眼としているようにも見える。しかし現代の「工場萌」とは違い、描いた子どもの生活と密着した存在であることが重要だ。東大島小学校は工場街に近く、工場で働いている保護者が多かった。さらに当時の川崎では、工場の煙による喘息が社会問題だった。煙は日常生活に深く関わり、煙の向きによっては洗濯物が干せなくなる。学校では各教室に空気清浄機が設置されたり、プールに油が浮いて水泳ができなくなったりした。画面上部の煙がリアルなのは、それだけ子どもの生活を左右する身近な存在だったからだ。



神奈川県川崎市川中島小学校6年生11名(指導:浪江年博、橋本文惠)《川崎大師》(1980)、個人蔵


1970年代からは公害対策の規制がしかれ、以前のようにモクモクとした黒煙は見られなくなる。浪江が川崎市内のいくつかの学校に赴任しながら指導した共同制作作品を見ると、煙の変化から時代の変遷を見てとることができる。

(C)「ライフワークとしての取り組み」は、長期間にわたってひとつの主題に取り組むアプローチである。この場合、テーマは自身やコミュニティの外部にあっても、長期間にわたり当事者と交流を深め、自分自身の生き方にも影響を与える。その点で(A)(B)両方の要素を備えていよう。

これにあたる代表的な存在は足尾銅山鉱毒事件をライフワークとした小口一郎だ。1950年代初め頃に鉱毒事件のことを知ったという小口は、それまで明治時代に起こった地域の歴史を知らなかったことに衝撃を受ける。そして鉱毒の影響で故郷から北海道佐呂間町に移住を余儀なくされた人々の姿が、米軍基地拡張の影響で生業を続けられなくなった同時代の農民や漁民とかぶって見えたという。振り返るべき歴史として明治時代の農民の闘争を調べ、成果は『野に叫ぶ人々』(1970)、『鉱毒に追われて』(1974)、『盤圧に耐えて』(1976)の三部作に結実した。



小口一郎『鉱毒に追われて』より《馬鈴薯を植えつけたが》(1974)、小口一郎研究会所蔵


小口は実際に北海道佐呂間町の開拓地の「栃木」集落を訪れ、彼らと交流するなかで、栃木へ帰ることを望んでいた子孫の帰郷運動に尽力した。自らの作品に取り組む過程で当事者と深くかかわり、彼らのために社会を動かしたのだ。小口の実践からは、当初は部外者だった表現者が、テーマと深くかかわることで、自身の生き方、当事者の生き方にも影響を及ぼす過程が見てとれる。「地域アート」のプロジェクトなどで、縁がなかった地域にかかわったアーティストが、長く現地で活動することにより、自身と地域に及ぼす影響など、現代の事象を考えるヒントになるかもしれない。

なお、栃木県立美術館では「『二つの栃木』の架け橋 小口一郎展 足尾鉱毒事件を描く」(2023年1月21日〜3月26日)が開催される。3部作すべてが初めて一堂に会する機会で見逃せない。

社会に目を向けるリアリズム美術の系譜にあるため、 (A)〜(C)はいずれも自己の内面を表現するのではなく、現実を他者に伝えることを重視する。2つの民衆版画運動にかかわった者の多くが、熱い運動の時代とその挫折を経ても社会に目を向けた創作活動をつづけられた。また教育版画運動に取り組んだ教員は時に「偏向教育」と目されることもあったようだが、それでも指導を継続することができたのは、(B)「生活」的アプローチをとり、それを各々に発展させられたからではないだろうか。

「生活」から出発することで、政治とはある程度距離を置きつつ、個人の体験を通して心情に訴えながら社会問題を問うことができる。また「生活」を発展させ、民話、民衆史などの視点を加えると、現代の問題を過去から照射することもできよう。

現代において「生活を伝える」/「生活から伝える」こと

さて、この「生活」的アプローチは現代ではどのようなかたちで見られるだろうか。筆者はSNS上に幾多もある匿名の「子育てアカウント」が発信する乳幼児の育児漫画がそれに近い存在であると感じる。自分自身のまとまった時間がとれない母親が、SNSであれば気軽に投稿でき、日常の些細なことを同じ境遇の人と共有できる。小さい子どもをもったことで生活がガラリと変わり、さまざまな個性をもった女性が「母親」というステレオタイプな役割に留め置かれることに対する違和感を問題提起し、共感を呼んでバズるなど、社会的な影響力を持つアカウントもある。子どものプライバシーには配慮が必要だが、生活のなかに課題を見つけることで、制約がある状況下でも無理なく表現を継続できる方法だ。

もう一つは、他者の生活に着目し、忘れられがちな人々の存在を伝えようとするものだ。これらはどちらかというと「生活から伝える」といえるあり方だ。本稿の後半では、こうしたアプローチが印象的だった映画と展覧会を紹介したい。

『東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート』

青山真也監督によるドキュメンタリー映画『東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート』は、一年遅れで開催された昨年の東京オリンピックの開会式から公開され、評判を呼んできた。舞台となる都営霞ヶ丘アパートは旧国立競技場に程近い場所にあった公営住宅だ。1960年代前半に建設されたが、その時は1964年の東京オリンピックに際した都市計画で移り住んできた人々が多かった。2020東京オリンピックに伴う再開発でこのアパートは建て壊しが決まり、高齢者の住民のなかにはオリンピックで二度にわたる引っ越しを余儀なくされた者もいた。



『東京オリンピック2017都営霞ヶ丘アパート』チラシ


映画ではカメラを固定して撮影し、アパートに住んでいる人々の生活と、引っ越しの様子を伝える。生活の一場面を長回しで映し出すと、近所の人が来てお茶を入れる、パックご飯をレンジで温めて食べるなどごく自然に見える暮らしの営みが続く。



映画中の数少ない「公的な場」(都庁記者クラブでの会見風景)[© shinya aoyama]


この映画で移住の強制に対する「反対運動」として出てくるのは、時折挟まれる都庁での記者会見のシーンだ。住民たちは移転について東京都が住民の声を聞くこと、そして誠意ある説明を欲していた。印象的だったのは90代のおばあさんが、長年慣れ親しんだ場所から移り住むことで生じるさまざまな不都合を切々と訴える場面だ。彼女の言葉から置かれている状況の切実さはわかったが、会見場というプレーンで必要最低限のものしかない公的な空間の中では、彼女の心情までは伝わりにくかったのではないかと感じた。



映画のほとんどは「私的な場」を映す(霞ヶ丘アパートの住民の日常生活)[© shinya aoyama]


対照的に、アパートの部屋の中で撮影された彼女は、年季の入った家具や台所用品、遺影など実に多くの「もの」に囲まれている。暮らしの歴史を伝える品々と、そこでの日常生活を映すことで、高齢者が長年住んでいた場所から引っ越すことの難しさ、それが強いられる残酷さを実感できるようになる。青山監督は「オリンピックという国家的な『ハレ』の場ではなく『ケ』の場所を撮りたかった」ため、撮影を始めた当初から住民の生活に注目したという。監督のカメラが捉えた映像の力で、言葉にしきれない心情も実感をもって伝わってきた。

「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」展

もう一つ紹介したいのは、国立ハンセン病資料館で開催されている「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」展(2022年3月12日〜8月31日)だ。同館は長年にわたって隔離を余儀なくされ、人権を著しく侵害されてきた「患者・元患者とその家族の名誉回復を図るために、ハンセン病問題に関する正しい知識の普及啓発による偏見・差別の解消を目指す」ことを目的に設立された施設である。展示室と図書室を備えており、近年ではオンライン発信にも力を入れている。

「生活のデザイン」展は学芸員の西浦直子氏と吉國元氏が企画し、療養所の患者、回復者が使用していた生活を手助けする道具を紹介している。ハンセン病が進行すると末梢神経の麻痺によって手足が思うように動かせず、触覚や痛覚、温覚が鈍くなり日常生活に支障をきたしてしまう。症状は病気が治ったあとも後遺症として続き、結果として手や足を失わざるをえない者も多いため、こうした道具が不可欠なのだ。



「生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち」展ポスター


ポスターデザインで2足の義足が目を引くように、展示室前半では義足を詳しく紹介している。ブリキでできた義足は明治末に療養所の患者自身が考案し広まっていったものだ。1950年代から義肢や装具を作る専門の職員が置かれるようになると、より一人ひとりの身体の状態に合わせ、生活の悩みを解決していく道具が作られるようになっていく。

展示室に並んだどの義足にも同じ形はない。解説を手がかりにさまざまな形や工夫が施された義足をみていくと、その人が何に苦しんでいたのかがうかがえる。存在しないはずの手や足に痛みを感じることを「幻肢痛」というが、失った手足の代わりに作られたこれらの道具には、魂が宿っていそうな気がした。義肢装具士がオーダーメイドの道具作りにかかわることは、人間に対する尊厳を形にすることであり、道具に魂を込めることでもあろう。

展示室後半では、タバコを吸うための道具、知覚を失いさらに目が見えなくても操作できるよう工夫されたラジオなどが並んでいる。これらは義足のような「歩く」という人が生きるために必要不可欠な動作を助ける道具というよりも、日常生活で自分らしさを保つため、外界とのつながりを保つために工夫された道具だ。



療養所で使われた白杖、竹杖


訪問時に吉國氏から紹介してもらった道具で印象的だったのは、野菜のツタを這わせる時に使う緑色の園芸用支柱を白く塗り加工して白杖にしたものだ。身の回りのものを加工、代用することは、学校用品にまで費用をかけられない家庭が多かった1950年代の教育版画運動でも重視されていた。そのため当時の教員たちは「身辺材」を利用した版画づくりを研究、発表していた。

ハンセン病資料館は、国の政策で患者や元患者の自由と人権が奪われたことへの反省がつねに展示の基底にあり、彼らの生活は強いられたものであったことを伝える。訪問者としては身の回りのものを使った工夫を見ると、道具を自作する楽しみもあったのではないだろうかと読み解きたくなるが、それはやはり隔離や制約のもとに生まれた喜びであったことを伝え続ける使命が資料館にはあるのだ。

「生活のデザイン展」では、「もの」とそれを説明する言葉も的確だった。合同歌集『陸の中の島』(1956)や療養所内の同人誌に寄せられた患者たちの短歌の引用から生活の苦楽をイメージさせる展示方法が、文脈や心情を伝えるのに強い効果を発揮していた。「もの」から想像をさせ、共感できるが誤読されないよう語り継いでいくという博物館、美術館、資料館が持つ本来の仕事の重要性を痛感させられる展示だった。

「彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動展」では、公立美術館という場の性質に配慮をしつつ、政治と表現の距離感が近かった時代の作品を紹介するバランスのとり方に苦慮した。その過程で、社会問題をストレートに表現した作品群がこれまで展覧会で扱いづらかった理由を痛感した。そのため企画者としても政治との距離を置きつつ、共感を通して社会の問題を伝えることができる「生活」から発するアプローチの作品は「扱いやすい」と感じた。しかし、それだけではある種のトーン・ポリシングへの加担になりかねない。

展覧会を開催してみると、労働状況の改善や平和を訴える力強い「正論」に勇気づけられ、今こそ必要だという反響もあった。社会問題を直接的に訴える言葉が扱いに困るような世の中では窮屈だが、教条的で正しさを疑わない態度も息苦しくて人は離れていってしまう。こうしたジレンマから目を背けず、表現の芯にあるものをいかに伝えられるか、今後も現場から取り組んでいきたい。


彫刻刀が刻む戦後日本─2つの民衆版画運動 工場で、田んぼで、教室で みんな、かつては版画家だった

会期:2022年4月23日(土)~7月3日(日)
会場:町田市立国際版画美術館
(東京都町田市原町田4-28-1)

生活のデザイン ハンセン病療養所における自助具、義肢、補装具とその使い手たち

会期:2022年3月12日(土)~8月31日(水)
会場:国立ハンセン病資料館 企画展示室
(東京都東村山市青葉町4-1-13)

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