キュレーターズノート

生態系のなかの群れとしての人間観──「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展

能勢陽子(豊田市美術館)

2022年12月01日号

「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」という、意味はわからないが響きとともに耳に残る展覧会の名は、最古の能楽『翁』の冒頭で唱えられる言葉だという。筋書きも時代設定もなく、神事に近いというこの能の始まりに発せられる言葉は、あらゆる意味を超えたすべてのものとしての「翁」の到来を知らせるものだろうか。展覧会では、この「翁」を通して、人、動物、虫、さらに小さな細胞、そして水、火など、生物が生きる環境にある有機物、無機物すべてを包摂した、新たな自然観を探ろうとする。

歌舞伎町の能舞台で

いまや私たちは、人間の営みが自然環境に巨大な痕跡を刻み込み、翻って自然がわずか100年前には考えられなかったような甚大な被害を及ぼしうる、人新世の時代に生きていると言われる。それは、人間に起因する破局を潜在的に抱え込んだ世界である。近年、人新世を掲げた展覧会がいくつか開催されているが、その多くが生物や植物を持ち込めない美術館のホワイトキューブで行なわれているため、どこか無菌状態の工房での実験のような印象を受けていた。人間中心主義から逃れるべく生物や環境に目を向けていても、そこで展開される映像やインスタレーションは、まるで近未来を描いたクリーンなSF映画のようで、生物の気配も自然の息吹も感じさせなかった。ところが、近い問題を扱っているようでも、本展には水や細胞が置かれ、私が訪れたときには囲炉裏で焼いている魚の干物の匂いが漂ってきて、生物の営みを強く感じさせる場になっていた[図1]。そこは、ホワイトキューブからはどうしても抜け落ちてしまう、食物連鎖や生殖といった、生に付随する生々しさも包み込んでいた。それには、人々の欲望がストレートに現われる「東洋一の歓楽街」歌舞伎町に会場があることも、大いに関係しているだろう。


図1 囲炉裏(「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景[第一会場])[撮影:竹久直樹]


本展は、「県道256号線常磐双葉インターチェンジ付近」で撮られた、死んだ鼠を咥えた瘦せ細った狐の写真と、鎌倉時代に描かれた作者不明の《九相図巻》のスライドプロジェクションから始まる[図2]。「九相図」は、死体が朽ちていく様を九段階で図示した仏教画で、修行僧の煩悩を払い、現世の無常を知る助けになる。その第六段階目では、まさに死体が鳥獣に食べられる様が描かれている。


図2 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第一会場)[撮影:竹久直樹]


ピエール・ユイグの映像作品《The Host and the Cloud》(2009-10)[図3]には、パリ郊外の廃墟になった民族学博物館で繰り広げられる、裁判、ダンス、精神療法、集団での性行為など、人間の生の多様な側面が断片的に現われる。それは明瞭なストーリーを描き出すことなく、それぞれの場面が偶然かつ同時に重なり互いに作用することで、多様な事象が生まれてくることを予感させる。その総体は、見えないシステムに則っているようで逸脱可能性も孕んだ、人間もその一部に含まれる生態系そのもののようである。映像作品としては珍しいことだが、内容がどこにも行きつかないため、不定形なまま生成変化を続けるような印象を与える。


図3 ピエール・ユイグ《The Host and the Cloud》(2009-10/「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景[第一会場])[撮影:竹久直樹]



「私たち皆」の……

切戸口をくぐるとそこは能舞台であり、振動スピーカーの生む拍子が足裏から伝わってくる。それは、1980年代の終わり頃に連日報道されていた、崩御が近づく昭和天皇の心拍数や呼吸数のバイタルサイン(生命兆候)をなぞったものである[図4]。見所の地袋からは、1988年9月20日から翌年の1月6日の崩御前日までの天皇のバイタルサインの記録が電光掲示板に流れている(飴屋法水たち)。そして縦縞の壁には、「人間宣言」として知られる1946年の天皇の「新日本建設に関する詔書」が掲示されている(渡辺志桜里)[図5]。昭和の終わり、天皇の身体データが連日学校の校内放送で流れていたことを、よく覚えている。それは病室に祖父を見舞いに行ったときに近親者に伝えられる、医師の病状報告のようであった。テレビで見ることはあっても決して会うことはない天皇が、まるで「私たち皆」の遠い親族かなにかのように身体データが伝えられることに、とても奇妙な感じを覚えた。足の裏から体に伝わる振動と電光掲示板が放つ赤い光は、そのとき感じた「血」の不気味さを思い出させた。


図4 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第一会場)[撮影:竹久直樹]


図5 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第一会場)[撮影:竹久直樹]


コラクリット・アルナーノンチャイの富士山や恐山等で撮影した映像作品《Natural Gods》(2017)には、山や川、空に、宗教施設、イタコ、そしてたくさんの動物たちが現われる。唯一絶対の視点からではなく、異なる高度から捉えられた光に満ちた空や多様な生き物たちの姿は、作家の出身地であるタイと日本に共通する、あらゆるものに精霊が宿るアニミズム的視点を感じさせる。

能舞台の背後に描かれた松、焦げた電気鍋、座布団でできた模様、ストライプの壁紙、人々が集う囲炉裏、そして花や水など、どれが作品でどれがそうでないのか、どれが誰の作品なのか、そしてそれも展示の一手法なのかと考える前に、そのような問いはどうでもよくなるくらい、そこにあるものはすべて互いに連関し合っているように見えた。


生に付随するあらゆる営み

図6 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第二会場)


そこからから歩いてすぐの第二会場は、雑居ビルの改装中のホストクラブにある。先ほどの能舞台と同じ拍子で、少女がひとり階段の踊り場で足を踏み鳴らす映像が流れている。そして壁には、「私は誰に殺されれば良いのだろう」という言葉が、黒い大きな字で描かれている(飴屋法水たち)[図6]。普段は閉ざされている屋上に上がると、歌舞伎町を中心にした東京の夜景が見渡せた。屋上の中心には傾いた冷蔵庫が置かれていて、中には冷凍されたナマケモノの赤ちゃんとセンザンコウ、そしてアフリカオオコノハズクが入っているという。かつて飴屋が経営していたアニマルストア「動物堂」の運営の過程で死んだ動物たちである[図7、8]


図7 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第二会場)[撮影:竹久直樹]


図8 「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展示風景(第二会場)[撮影:竹久直樹]


ここで、先ほどの壁に描かれていた言葉が蘇ってくる。あらゆる生物を含めた世界には殺すものと殺されるものがいて、決して公平ではない。私たちも、日々動物の肉を食べて生きている。屋上からの眺めは、地上の様子を少し客観的に眺めさせ、「群れとしての人間」という言葉が浮かんできた。私たちは、人間がほかの動物たちとは違うことを理由づけるために、しばしば文化を用いてきた。だから文化は、往々にして生に付随する生々しさを覆い隠す。しかし屋上からの眺めは、人間もまた動物であり、群れでもあるのだということを思い出させる。さらにその地面の下には、いまも能に登場する怨霊や幽霊たちのように、昭和の終わりに延命措置を施された天皇と、昭和前期に天皇の名を唱えて死んでいったたくさんの人たちがいるのではないか。しかし、目を上げると東京の夜景はきれいだった。


「とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう」展は、作品も会場もほかに類を見ないもので、人新世が示唆するいつか必ず訪れる破局的未来より、ずっといまの私たちの現実の生に近いのではないかと思えた。



とうとうたらりたらりらたらりあがりららりとう

会期:2022年11月18日(金)~11月27日(日)
※12月3日(土)、4日(日)の2日間のみ延長(詳細はこちら
会場:新宿歌舞伎町能舞台(旧新宿中島能舞台/東京都新宿区歌舞伎町2-9-18 ライオンズプラザ新宿2階)ほか
公式サイト:https://toutoutarari.com/