キュレーターズノート

記録とアーカイブにまつわるいくつかの話──AHA!との協働プロジェクトを経験して

赤井あずみ(鳥取県立博物館)

2023年05月15日号

流れゆく時間のなかで起こる出来事とその記憶を、いかにとどめ、手中に残しておくかについては、人類が共通して抱える課題なのではないだろうか。広場に設置されたモニュメント、分厚い記念誌や分厚い歴史書といった大層なものではなくても、日々行き交う大量のe-mail、新しい出会いの現場での名刺交換、店舗で渡されるレシート、年末になると買い換えるスケジュール帳、InstagramをはじめとするSNSなどなど、日常の些細な事柄を記録するものは案外色々ある。


筆者の10年間分の手帳


学芸員にとっての最大の記録の対象はおそらく展覧会やイベントで、筆者の場合Facebookの投稿を遡れば、当時の行動や思考をある程度引き出すことが可能である。けれどもそれをアーカイブ化しない限りは汎用性をもたず、用を成さないままだ。アートプロジェクトやAIRといった「現場」がメインとなる活動では、記録とアーカイブには強靭な意志と多大な労力が必要とされる。かくいう筆者も、10年分のアートプロジェクトの記録集に着手しながらも、遅々として進まぬ作業にほとほと嫌気がさしている現状がある。

本稿ではこの(やっかいな)「記録とアーカイブ」について書いてみたい。現在筆者が取り組んでいるAHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ] とのいくつかの協働作業がその動機であり、今それを言葉にしておかねばならない、と強く感じる経験をしたことがその背景にある。

地元でアーカイブをつくる

鳥取での8mmフィルムの保存と活用プロジェクト(2015.2.19-2023.3.18)

AHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]の活動は、2017年から約2年間にわたってこの「キュレーターズノート」にプロジェクトの世話人を務める松本篤さんによるテキストが連載されていたため、ご存知の方も多いだろう。彼らは2005年から市井の人々の残した小さな記録に潜む価値に着目したアーカイブづくりを手がけており、各地の美術館や芸術祭、プロジェクトにおいて近年目覚ましい活躍を見せている。

2015年2月、HOSPITALEのトークシリーズに松本さんを招き、「イメージと旅―アーキビストなしのアーカイブの作り方」と題したレクチャーを開催した。その頃すでに地域の記憶をテーマとして、近隣の方々から貰い受けた本による図書室を有志で運営していた我々は、翌2016年、図書と8mmフィルムをあわせた地域の記憶と歴史にまつわるプログラム「すみおれアーカイヴス」をAHA!との協働プロジェクトとして立ち上げることにした。フィルムの収集については、チラシとSNS、口コミを使った呼びかけで、これまででおよそ150巻が集まり、毎年少しずつデジタル化して現在45巻分のデータとなった。公民館での公開鑑賞会や県立図書館での展示など、折に触れてパブリックにする機会を設けてきたが、地味ながらも根強いファンを擁するプログラムである。



出張上映会では、フィルム提供者とともに映像を見る(鳥取県大山町)


集めたフィルムをいかに活用していくかについては、紆余曲折があった。映像を地域の共有財とするにはどういう公開の仕方がベストなのかを探っていたからである。記録を見ることから記憶が生成し、それを共有する現場を重視するのであれば、ウェブ上で公開することはその精神に反することなのではないか。活動開始からの数年間のうちに、映像をめぐる状況は変化した。死蔵されたアーカイブとなることよりも記録へのアクセス方法を広げることは可能性を広げることにつながるだろう。2021年、ひとまずの結論に至った我々は、オンラインでの公開のための準備に取りかかった。昨年は鳥取大学地域学部の学生たちとともに映像の目録作りに着手し、この3月には許可が取れた22本についてウェブサイトでの公開に漕ぎ着くことができた。

映像の「目録作り」とは、映像に映っている事柄でタイムコードを切り、そこで起こっている事象やそれを見て参加者自身が考えたこと、疑問に思ったことなどを文字として記録したものをもとに、映像の概要説明を作成する作業である。参加者はそれぞれのタイムコードと記録を発表し、参加者同士でシェアされる。さらにそこで生じた疑問を各自が持ち帰ってリサーチし、それもまた共有する場がもたれた。最終的にはこのタイムコードをベースに、松本さんとHOSPITALEのスタッフが概要文としてまとめ、映像とともに公開されている。

利便性や知名度の高さからプラットフォームにはYouTubeを使い、既存のウェブサイトのページを利用するなど費用と労力は最小限に抑えた。映像は、荒神祭、がいな祭、しゃんしゃん祭り、ホーランエンヤなど地元の大小の祭事が目立つ一方、子供の誕生、七五三、結婚式、葬式といった人生の節目となるイベントや、米子高島屋、鳥取大丸といった百貨店の屋上の光景は、ホームムービーならでは。また、梨の選果場や砂丘での海水浴といった土地柄を反映するものがある一方で、1964年の東京オリンピックの聖火リレーという、国をあげての一大イベントの映像も発掘された。PC画面でサムネイル入りの一覧を確認できるようになると、改めてそのバラエティの豊かさに驚く。



すみおれアーカイヴスのトップ画面


すみおれアーカイヴス NO.13 選果場


映像を順に見ていくうちに、カメラを持つ人のモチベーションに興味をひかれた。撮影者は不在であるため、「なぜこれを残そうと思ったのか」という問いに対し明らかな回答は得られない。見る行為とはいったい何なのだろう。撮影者の意図や内容や目的の不明瞭さとは別の次元で、この記録が存在しているという事実だけは確かだ。完全に開かれた状態の映像は、見る者を揺さぶり、常に問いを発する。

ところで、映像に付された目録は、見る者にとっては理解するための唯一の手がかりである。解釈に開かれた映像を言葉で定義した説明文により、茫洋としたイメージに輪郭が与えられ、意味が浮かび上がる。流れゆくイメージは言語により一瞬でも固定化されるが、それでもなお、言葉からこぼれ落ちるものは多くあり続ける。フロー&フィックスそしてまたフロー。

「アート・フィールド・リサーチ・プロジェクト」のリサーチ(2022.4.25〜2023.3.26)

昨年からは、HOSPITALEでの8mmフィルムの保存と活用に加えて、県立美術館の準備プログラムとして「アート・フィールド・リサーチ・プロジェクト」に取り組んでいる。前回の記事でも触れたように、この事業は美術館が新設される県中部エリアを中心に、参加者とともにリサーチを行ないながら地域について知ることを試みる、という趣旨で立ち上げたものである。このプロジェクトにおいてAHA!に声をかけたのは、実は「ランドスケープ|ポートレート」という、まちの写真館をリサーチして記録するという東北での実践を、鳥取でも実現できたらと考えたことが第一の理由であった。打ち合わせの段階で、松本さんから新しいテーマの可能性も探ってみたいという提案があり、これを受けて2022年度にはリサーチ・テーマを探し、翌2023年度から本格的にプロジェクトを立ち上げるというスケジュールを立てた。松本さんは高校野球、鮭の稚魚放流、定点観測写真、高齢者福祉施設、写真館、樹木と鉢植えといった一見とりとめのない事柄を「記録」という観点からピックアップし、8月、10月、11月、12月と合計4回の現地調査で関係者へのインタビューや拠点施設への訪問を重ねた。



鮭の放流イベントをリサーチしたときの様子(2022年10月13日)


松本さんのリサーチが独特なのは、人との出会いをひたすら待つ、という姿勢である。より正確に言えば、意識的にしろ無意識的にしろ、記録している人を丹念に探し、それにまつわる営みを開示していくことに焦点を当てる。半年間のリサーチで彼が注目したのは、東郷湖・天神川サケの飼育放流プロジェクトである。自然・環境教育に主眼が置かれたこの活動は、元小学校教員の中前雄一郎氏が立ち上げたもので、毎年11月には川を遡上する鮭の見学会、12月には発眼卵の配布、3月には飼育した稚魚の放流が行なわれている。川に放たれた稚魚は太平洋をわたりアラスカ付近まで行って、4年後に元の生まれた川に戻ってくる。その時を刻むかのような鮭をある種の「記録」と捉えれば、それに並行して流れる人間の時間を別の尺度から測ることができるのではないか、という発想から、また新設される美術館が人の手によって「育つ」というイメージが魚の成長と重なったことから、放流プロジェクトをつぶさに観察することがリサーチでは行なわれた。発眼卵の配布会に参加した折、偶然にも卵を受け取りに来ていた知人(HATSUGAスタジオのオーナー一家)に出会った。松本さんはすぐさま彼女に卵の生育記録を依頼し、約75日間にわたる鮭の成長が映像に残された。

3月末のリサーチ中間報告会では、この記録の協力者をゲストに招き、Dropboxにアーカイブされた映像を上映しながら、鮭とともに過ごした日々の記憶を辿ることが試みられた。身体が白くなり病気で亡くなる卵、目を離したすきに一斉に孵化した日、水の濁りが心配だったこと、誰にも相談できないなかで弱っていく鮭を傍で見ていたこと。彼女の言葉は多くはないが、表情や声色、姿勢といった情報によって記録映像が補完されていく。映像から引き出された記憶が、さまざまな要素によってその場でかたちを結んでいくのを来場者とともに目撃した。今、鮭の子供たちはどの海を漂っているのだろうか。一方稚魚だった頃の鮭は、クラウド上で留まったままいつか再生されることを待っている。フィックス&フロー&フィックスいつかまたフロー。



左:鮭の飼育メモ(2022年12月24日〜2023年3月11日) 右:2023年1月4日の水槽の様子


東郷湖・天神川サケの飼育放流プロジェクト 2023.03.11の記録 from HOSPITALE TOTTORI on Vimeo.

2023年3月11日の水槽の様子。このあと鮭は天神川に放流された。


3.11の震災から私へ、アーカイブをたどる

「わたしは思い出す」についての断章(2023.3.7-4.22)

この中間報告会の前日、筆者はAHA!が近年手掛けてきた「わたしは思い出す」というプロジェクトの一環として刊行された『わたしは思い出す I remember──11年間の育児日記を再読して』(remo[NPO法人記録と表現とメディアのための組織]、2023)の出版記念トークショーにゲストとして参加した。この書籍について紹介する松本さんの「聞き手」として登壇した経験は、かつてない思い出/記憶となったので、ここに記録することを試みたい。

「わたしは思い出す」は、震災後10年を迎えるせんだい3.11メモリアル交流館の企画展に際して立ち上げられたメモリアル・プロジェクトである。「記憶の継承」をテーマに同館で2021年2~7月の会期で開催される企画展での発表を依頼された松本さんは、展覧会までの準備期間が差し迫っていたことと、災害を体験した当事者ではないことから「はじめは断ろうと思っていた」と話す。それでも現地に下見に訪れ、「『震災』から『私』へ主語を変えることができるなら、何かできることがあるかもしれない」と思ったという。仙台の沿岸部を訪れたとき、「日記を書いていた人」が必ずいるはず、という確信を持ち、10年間の育児を記録とともに振り返るというワークショップの参加者を公募した結果、かおりさん(仮名)と出会う。チラシを見て「私のことだと思った」かおりさん。一方「なぜ自分のために書いた日記を、他人に読ませてくれるのだろうか」という疑問をもった松本さん。両者の出会いが決定的となり、この企画は進んでいった。プロジェクトの開始から今に至るまで、松本さんは他者の記録を「なぞる」こと、また、それに伴って必然的に生じる「ズレる」ことの意味を繰り返し問うている。

プロジェクトの概要は、この本の巻末にある松本さんのテキストに詳しく記されている。ここではテキストから日付を拾って簡単にその経緯を示すにとどめておく。

2020年7月5日 メモリアル交流館の学芸員からメールが届く。企画立案開始。
2020年8月28日〜9月1日 現地に下見に赴く
2020年10月29日〜31日 育児日記を振り返るワークショップ実施
2020年11月18日〜2021年6月11日 かおりさんとの日記の再読作業(1回につき2〜3時間程度、合計31回)
2021年2月10日〜7月11日 せんだい3.11メモリアル交流館にて展覧会開催
2021年12月4日〜2022年1月17日 デザイン・クリエイティブセンター神戸[KIITO]にて巡回展開催

*KIITOでの展覧会は高嶋慈氏のartscapeレビューを参照のこと。

わたしは思い出す、『わたしは思い出す』を読んだことを

同書は30万字強、832ページにものぼる分厚い刊行物である。仙台での展覧会の会期中にこの企画の書籍化が決定し、新たな聞き取りも含めて実現に至った。2011年6月11日に生まれたあかねちゃん(仮名)の誕生日からスタートし、毎月11日の日記をかおりさんが再読しながら話した言葉が収録されている。全体は1年ごとにチャプターとして区切られ、小口には辞書のように見出しが付されている。

1年を1日で読めば10日で読了することができると考えた筆者は、毎晩寝る前の時間を読書に当てることにした。この書籍に対する興味は大きく2つあったと思う。ひとつは、AHA!はこの本を通じて何を成し遂げたかったのかということ。もうひとつは、名古屋のハワイアンカフェでハンバーガーを食べながら長い揺れを感じていたあの日あの時間に、仙台で何が起こり、そこにいた人はどういう経験をしていたのかというということ。

読み始めてまもなく、日記そのものではないにせよ、個人的な出来事や思いが文字となったものを読むことが、なんだか他人のプライベートをのぞき見ているようようで後ろめたさを感じた。一方でこの主人公の背景を読み解くために少しでもヒントになりそうなものを探してしまう自分もいた。仕事に対する考え方、家族や友人との人間関係、普段の生活圏、その時々の感情や思考など。興味を惹かれたテキストをあとから容易に引き出せるように、その箇所に付箋をつけながら読んでいくことにした。

読み進めるうちに、さまざまな出来事や考えが頭に浮かんでくる。それを記録しなければ忘れてしまうことがなにかよくないように思えた(特にトークイベントを控えていたことが主な原因だったように思う)ため、2日目から読書日記をつけることにした。「『記録(日記)を読んだ記録(書籍)』を読んだ記録(読書日記)」というややこしい状況に、どういう意味があるのかはっきりとはわからなかったが、日記をつける=かおりさんの行為をなぞってみることで、彼女の身体と思考に近づけるかもしれないと、このときは思ったのだ。



筆者の読書日記


この原稿を書くにあたって、3月につけた読書日記を再読した。気づいたことはいくつかある。まず、「変化に焦点が当てられる」こと。かおりさんが時間の経過とともに考え方が変化していく様子に着目しながら読んでいたことが読書日記からうかがえる。そこにある種の「ストーリー的なもの」を見たいと感じたのかもしれない。そして、筆者自身もこの期間限定の習慣をどう経験し受け止めるか、日々変化していく様子が記されていた。

読書日記の記述は大まかに、以下の5つに分類することができる。

  1. 読んだ感想:夫がかわいそう。地震のことを直接書けないのかもしれない
  2. 読んで考えたこと:かおりさんにとってのこの日記とはなんだったのか、親の希望を子は内面化してしまうのかもしれない、など
  3. 読書日記について:スピードが速くなった、習慣になってうれしい、朝読むのもいい、など
  4. 日常の日記的なもの:昨日はイベントで夜遅くなった
  5. 思い出したこと:大学受験の英単語勉強のこと、2011年3月11日のこと、その後の10年間に起こったこと

1と2は一般的な読書日記同様、本の内容とそこから出てきた思考のメモとして書かれたものであるが、3、4、5は筆者の過去(記述した時点の)〜現在を記した「読書体験」のドキュメントであり、本のテキストとは直接的に関係はなく、また時間も行ったり来たりする、いわば思考のフローのようなもので、その時制や内容の混乱には妙な生々しさがある。

結局、この読書日記は当初予定していた10日間ではなく、3月11日に書いた4日目で終了した。この日の文末はこう終わっている。


今日は3/11。2011年〜2023年=12年で干支が一巡した。私は今年年女になった。2011年もそうだったのかと気づいた。2011.3.11という日付はたとえその日が311であることを忘れていたとしても、私にとって基準点になっているだろう。

そんなことを書いていたことは、すでにすっかり忘れていた。

読了することなくトークイベント当日を迎えることとなった筆者は、聞き手としてすでに失格だったのかもしれない。松本さんとの事前の打ち合わせでは、「そもそも読まなくても大丈夫です」ということであったが、本の製作者に直接話を聞ける機会をなんとか有意義なものにしたいという欲もあり、トーク開始直前まで流し読みをしていた。イベントには約20名の参加者が集まり、そのほとんどは未読の方々ばかりという状況で、4日間だけの読書日記を携えて現場に挑んだ。トークはそれなりに盛り上がったし、書籍の売り上げは上々であったと思うが、筆者は頼まれていた「聞き手」の役目を果たすことなく、ひたすら自分の読書体験について語ってしまったという、大失敗を冒してしまった。私は語りたくて仕方がなかった。語るしかなかった。わたしは言葉を欲していた。



『わたしは思い出す I remember──11年間の育児日記を再読して』


その失敗は『わたしは思い出す』を本だと思い込んでいたことに起因しているのではないだろうか。あえて言おう、この本は、その形状にも関わらず本ではない。かおりさんという女性が「日記を読む」という「体験そのもの」とでも言おうか。規格外の書籍の厚みは、その時間の厚みをそのまま体現したものである。ここに書かれたテキストを追うことは、かおりさんになりきる、というのでもなく、物語にのめり込むというのとも異なっていた。むしろ逆で、[話し手 ─(編集者/AHA!)─ 読み手]という明確な距離感は自覚された状態で、日記に触れて再生/生成された言葉と思考をなぞり、その時間をなぞることであった。隔たりをもったままの体験の重なり合いは、8mmフィルムのアーカイブを見ることと似ていて、その主体とその人が構築してきた世界に揺さぶりをかける。私がそのとき言葉を必要としたのは、それらを再構築するためだったのではないか。

わたしは思い出す、『わたしは思い出す』を見たことを

すでに述べたように、AHA!の「わたしは思い出す」は、当初より展覧会を前提に企画されものである。筆者の失敗談はさておき、このプロジェクトの全容を把握したい気持ちから、松本さんのレクチャーが開催される日に合わせて「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」展を見に水戸芸術館へ向かった。現場性を重視するAHA!が、「展示」というアートのフォーマットをどのように使いこなすのか、確認したい気持ちも大いにあった。先に開催された仙台や神戸での展示風景は何度か記録写真によって見ていたが、現物を体験していないことからそれに対する美術的な判断を保留にしていた。

展示会場は細長いアートギャラリーの一番奥側に設けられており、空間には天窓から入る自然光が満ちていた。真っ白な壁面に近づくにつれ、小さな文字が4つの壁全面にカッティングシートで貼り付けられているのに気づく。書籍で見たあの文字「わたしは思い出す、○○○○○を」が、日記を付けた日数を示す数字とともに記されている。既に書籍を読了していた筆者にとって、テキストとの再会により、本に書かれていたその日のエピソードが思い起こされた。「そうそう、あんなことあったよね」と。行間の余白は、膨大な出来事と時間、それにまつわる記憶を雄弁に語っている。近づいて焦点を合わせないと読めない明朝体の文字は、何かを思い出す行為と相似形を成しており、忘却の海に建てられた標識──フィックスされた記憶──のようでもあった。

「わたしは思い出す」はかおりさんを離れ、AHA!からも離れて、作品として自律した存在となっていた。





「ケアリング/マザーフッド:『母』から『他者』のケアを考える現代美術」展 会場風景 水戸芸術館現代美術ギャラリー


「わたしは思い出す」は、いまなお私にとって謎めいた存在として漂っている。書籍と展示に触れた経験を振り返り、素直に文字にしてこのテキストが出来上がった。前半を占める8mmフィルムと「アート・フィールド・リサーチ・プロジェクト」についての文章は、これまで書いてきたものと同様に、筆者の活動とそこでの視点、考えていたことなどを綴ったレポートのスタイルをとっている(この体裁はartscapeのほかの著者たちのテキストを読み込み、記事の性格や趣旨を理解してようやく身につけたものだ)。翻って「わたしは思い出す」のテキストは、筆者の経験と思考をそのまま定着させた断章のようなものとなった。果たして、これは記録なのだろうか、と問うてみる。少なくともこのウェブ上にアーカイブされ、誰かの元に届く日が来るだろうと思った。そして、記録とはいつも不完全なもので、その不完全さゆえに可能性に開かれ、未来へ継承されることができる、という言葉が浮かんだ。《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》というゴーギャンの問いを思い出した。

ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術──いつ・どこで・だれに・だれが・なぜ・どのように?──

会期:2023年2月18日(土)~5月7日(日)
会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー(茨城県水戸市五軒町1-6-8)

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