キュレーターズノート

生き生きと、長持ちさせる方法を巡って──『ダンスダンスレボリューションズ』と上演の軽さ

谷竜一​(京都芸術センター)

2023年10月15日号

2023年の京都芸術センター Co-programのなかでも、カテゴリーA(公演事業)という上演演目の共同主催での採択企画「松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』」は、松原と小野・中澤の5作目の協働となる企画だった。
1カ月あまりの制作・上演の日々から、上演を続けるとはどういうことなのかについて、筆者はイメージを巡らせることになった。


松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』[撮影:守屋友樹]

集団創作と劇作家の孤独

松原俊太郎は、京都を拠点とする、現代日本では数少ない「純粋劇作家」である。

「純粋」とはどういうことか。彼は日本の演劇シーンでは珍しく、自作の戯曲の演出をせず、また特定の劇団に所属することもなく、劇作家としてのデビューを果たした。実質的な処女作であり、AAF戯曲賞を受賞した戯曲『みちゆき』は、日本の演劇界に少なからぬ驚きをもって迎えられた。以降、劇団「地点」への戯曲提供など、一定の団体との定期的なコラボレーションの機会はあったものの、基本的にはひとりの劇作家として、着実に劇作を続けてきた。


舞台作家の小野彩加と中澤陽による「小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク」は、松原と定期的な協働を行なってきたユニットである。小野・中澤はこれまでも、ロームシアター京都×京都芸術センター U30支援プログラムKIPPUでの『光の中のアリス』(2020)、KYOTO EXPERIMENT 2022での『再生数』と、たびたび京都で作品を発表しており、上記のいずれも、松原が戯曲を提供する上演である。ダンスと演劇の両方の出自をもち、またこれらに限らず多様な上演の形式や構造への研究心をあわせもっていることが、このユニットの特徴といえるだろう。


前述のような活動を通じて、京都でも知られた存在となったスペースノットブランクだが、今回の「不自由な言葉を離す身体」では、8月下旬から9月下旬まで、クリエイションのメンバーが毎日のように京都芸術センターのフリースペースに集い、ほぼゼロから作品を立ち上げていった。

事前に決定していたのは、企画概要とタイトル、メインビジュアルおよび出演者のみ。メインキャストを斉藤綾子、児玉北斗という関西拠点の実績あるダンサーが務め、小野と中澤、そして松原が「出演」にクレジットされていた。


最初の数日は、出演者5人で自己紹介をしたり、ゲームをしたりしながらコミュニケーションを取り、お互いをよく知るという、素朴なスタートが切られたように見受けられた。

この時点では、戯曲はほぼゼロ(クリエイション初日を拝見したところ、タイトル、登場するであろう役名程度)からスタートしたようである。以降、松原が毎日のように、執筆した戯曲を持ち込み、それをメンバーで読み合わせをし、立ち上げていった。


これまでの松原とスペースノットブランクの協働では、松原は戯曲は稽古初日までにほぼ完成させており、これをスペースノットブランクが演出し、出演者・スタッフらで上演を立ち上げていく、という手順がとられていたと聞く。

この進め方は、いわば分業的な態度で、完成されたテクスト(多くの場合、印刷して紙で配られる)をもとに、演出家や出演者がクリエイティビティをもって(つまり、ある種上演のために「わかりやすく」したりして)、それを立ち上げているものと考えられる。このとき、戯曲は「書かれたもの」としての物質的な保存性があり、また戯曲が変わらないことを根拠として、その内容は再現性があるものと考えられている。他方、上演はより即時的、適時的なものとして考えられているといえる。


同じ戯曲をもとにした上演であったとしても、上演は毎回少しずつ異なっており、そしてそれが「やっぱり生身はいいよね」なんて観客に素朴に言わせてしまう理由のひとつである。

言い換えれば、戯曲の再現としての上演はそこそこ反復可能だが、一回一回の上演そのものは、上演するたびに細部が異なってきてしまうため、戯曲ほどは長持ちしない(ことがほとんどである)★1、ということになる。

戯曲は(印刷されたりデータ化された場合、上演よりは)保存性があり、作品としての永続性を期待できる媒体ではある。ただし、時代とともにコロコロ変えることはできない★2。むしろ保存が長続きし、年を経れば経るほど、変更させることは困難になってくる。

たとえば、作者が死んでしまった場合である。戯曲の作家が変更を加えたのであれば、変更を認めてもよいかもしれないが★3、それ以外の人物が戯曲を変更するとしたら、それは「脚色」「翻案」等と呼ばれる。そして、戯曲を(たとえその時代や場に合わなくとも)敢えてその言葉を保存したまま上演しようとするなら、上演のやり方そのものを変更していくことになるだろう。


想像しづらい方は、ほかのジャンルの例を考えてみるとよいだろうか。

J.S.バッハが自作の楽譜を書き換えた場合については、それは変更と認めてよいかもしれないが、バッハの楽譜を他人が一部書き換えて演奏するのは「編曲」であり(演出もしくは脚色[テキストレジ]の範疇である)、むしろ演奏行為に属するともいえる場合もあるかもしれない。

バッハの楽曲をもとにシャルル・グノーがメロディーを付し歌曲となった『グノーのアヴェ・マリア』のような例に至っては、むろん原曲の音楽性を下敷きにしているが、やはり別の楽曲となったように考えるべきではないだろうか。


説明がうまくいっているかわからないが、話を進める。「上演」することによって、戯曲はある程度の再現性をもって、そこそこ反復可能である、とすでにに記した。しかし、この上演を介した戯曲内容の再現にも、難所がある。

これは楽譜の場合も同じだが、上演できる人がいなくなると、それがどんな戯曲だったか、どのように上演され、観客に観られていたのか、わからなくなってしまうのだ。ここに「上演」を長持ちさせる困難が、ひとつある。


さて、今回の『ダンスダンスレボリューションズ』に話を戻す。

「上演をつくりながら戯曲をつくる/戯曲をつくりながら上演をつくる」という今回の試みは、スペースノットブランクと松原にとっては新しい実験だといえるが、角度を変えると、いわゆる集団創作への回帰のようにもみえる。

言い換えれば、特権的な劇作家が稽古場とは「別に」存在するのではなく、環境(ファシリティ)が作家に影響を与え、また作家が環境に影響を与える、という循環を前提とした体制を取ろうとしている。

チェーホフは今から戯曲を変更してくれないが、松原は稽古場に面白そうなアイデアがあれば、戯曲を路線変更してくれるだろう。こうした意味では、今回の稽古場においてスペースノットブランクの二人は、ディレクターであると同時に、創作環境を整え、アイディアの創発を促すファシリテーターとしての役割も担っていたものと考えられる。俳優やダンサーがしばしば稽古場で、ワークショップやシアターゲーム的な活動に参加することを通じてその表現が磨かれるように、この企画では、劇作家もファシリテート(あるいはカルティベートと言うほうが適当かもしれない)される。さらに言うなら、この環境下では、演出家のふたりも、相互にファシリテートされていただろう。


長い演劇史のなかで、「戯曲」という(上演を前提としたテクスト)形式が成立してから現在に至るまで、制作の場での「上演」と「戯曲」の関係は刻々と変化してきた。

スペースノットブランクは松原との協働を通じて、その関係性の変化から、さまざまな戯曲と上演の関係のバリエーションについて、実証実験をしているのではないだろうか。

笑い、ト書き、ダンス

松原の戯曲はしばしば難解と評される。

確かに、彼の作品は明らかに日常語とは乖離した文体で、抽象的な登場人物やシーン、イメージを描写するとともに、それ自体が別の構造の比喩としても機能しているように読める。その緊密な構成は、テクストとして非常に込み入った印象を与える。そのため、読みなれない読者が骨の折れる印象をもつことは想像に難くない。


今回の『ダンスダンスレボリューションズ』についても、松原の緊密な構成と言葉の密度は健在である。ただし、戯曲において、これまで影を潜めていたユーモアやウィットなど笑いの要素がより押し出され、実際の上演においても「笑い」が機能していたように感じられた。ありていに言うと、ギャグがウケていた。



松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』[撮影:守屋友樹]


この成果には主題の選び方から、さまざまな理由、もしくは演出/上演の技術がある。とりわけここでは、「ト書き」と「ダンス」について記しておきたい。

まずはト書きをみてみよう。

本作の上演において、いわゆる舞台監督や照明、音響といった、「専門の」技術スタッフはいない。

照明はふだんどおりのフリースペースの照明が点いており、音響効果も中澤が効果音、そして古典的な音楽(「白鳥の湖」「動物たちの謝肉祭」といった、誰もが耳にしたことがある組曲の抜粋である)を、PCから再生する程度である。

稽古開始の当初はできる範囲でさまざまな小道具やプロジェクター、スクリーン等の機器を持ち込んで稽古場で試行していたようだが、最終的に上演では、これらのほとんどは取り除かれていた。


そんななか、上演を進行するのは「気印」という役を与えられた小野と「矢印」という役を与えられた中澤の、登場人物や空間そのものへの語りかけ、働きかけである。ディディ(斉藤綾子)とスワン(児玉北斗)の心情やまわりを取り巻く環境を逐一言葉にし、または心の声として、ときにマンガ的に、ときに詩的に惑わせ、また説明的な要素が続きそうになると、観客に「ごめんね、ちょっと長くなるかも」などと声かけてくる自在さをみせる。一般的には「ト書き」として扱われるようなことも含まれる「気印」「矢印」の台詞を、小野と中澤は役として声に出していく。

この上演において、「気印」と「矢印」は、状況説明であり、舞台装置であり、またメインキャストの対話の相手でもある。古代ギリシア劇のコロス、あるいは能楽の地謡的役割とも似ている。ただ、「気印」と「矢印」が特徴的なのは、どちらかというと機能として作用するというよりは、逸脱するために進行させているようにみえる点だ。この奔放な「ト書き」たちは、いやに情緒的なひとり語りを繰り広げたり、会場の外にディディを連れ出したりする。


本作の進行役はト書きの作用であり、上演の推進力となっているのはキャストによるダンスであるといえないだろうか。

先述のとおり、メインキャストといえる斉藤綾子と児玉北斗は、二人が踊るだけで場がエンターテインできてしまう技術と魅力を備えている。

だが、発話についていうならば、特定のメソッドに基づいて訓練してきたわけではないのだろう。そのアンバランスさは、そのまま戯曲と上演の関係の二重性を想起させる。観る側に、物語についていくか、ある種の醒めた視点で干渉するかの選択肢、いってみればノルか、ツッコむかの選択肢を与えている。これは、「生(ナマ)である」ことが二重になっているともいえるのではないか。


たとえば、ショートコントを思い出してほしい。

言葉のうえでは軽妙でしかも身近に、つまり、「(リアルなという意味で)生っぽく」進行しているなかで、何らかのトラブルが起こる。かつらが落ちてしまうとか、タライが落ちてくるとか、水がぶっかけられるとか、そういうなにかだ。すると、演者にまるでアクシデントかのように、「(たまたまそうなったかのような)生っぽさ」がみられる。


斉藤と児玉のダンスは、まさに「生き生き」としており、物語上のディディとスワンの感情表現を逸脱してひたすらダンスとして立ち現われる。片やその発話は確かに逸脱なく戯曲を辿っているのだが、まったく新しい言葉に出会ったような(松原が「新しく」書いた言葉なので、現にそうなのだが)、アクシデント的なあやうさを湛えている。

不思議なことに、これらの不均衡なバランスが、古典的なミュージカル映画などでみられる「ダンスをしたらなんだかよくわかりませんが解決!」というようなシーンを成立させるに至っていた★4



松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』[撮影:守屋友樹]



松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体『ダンスダンスレボリューションズ』[撮影:守屋友樹]


本作のダンスシーンおよびその前後は、一見すると、いや、どう見ても信じられない荒唐無稽な展開ではある。

しかし、その荒唐無稽な「上演の時間」を担っているのは、中央にでんと構えた長机で、観客と対面し、観客とともにダンスをみている、「ト書き」を担う小野と中澤、そして劇作家本人でもある松原である。

松原は自ら上演前のアナウンスを預かり、「人生初舞台です」と自らを茶化してみせるなど、「上演するということそのもの」を、楽しんでいるようにもうかがえた。劇作家自身が上演を遊び(ときに遊ばれ)、そのこと自体を観客とともに楽しんでいる。その様子が観客に一定の安心感を与え、この作品のチャーミングさを保証していたように見えた。

続けていくことを巡って、巡って続けていくこと

さて、私の立場で言及したいのは、この上演の楽しみももちろんあるが、もうひとつは制度的な問題についてである。


京都芸術センターのCo-program カテゴリーAの枠組みでは、80万円の制作費を提供している。少額とは思わないが、京都で1カ月程度の滞在制作を2名が行なおうとした場合、交通費とマンスリーマンションの賃料で半額以上が消費される。

入場料収入は原則アーティストサイドに出納される★5とはいえ、持続的な制作環境を維持していくためには、ここで制作した作品がどのように展開させていくことが可能なのかを考えないわけにはいかない。


そのことに対するアーティスト側からの提案が、今回の企画でみられるような、スタッフをできる限り省いた、シンプルな「より軽い」上演形態の開発であると、認識しておいたほうがいいだろう。

施設の人間の立場としては、専門のテクニカルスタッフを入れていただいたほうが、機構的にも心理的にも安全管理的にも、安心するのは間違いない★6ので、その旨を当初に伝えるようにしている。京都芸術センターはいわゆる劇場機構を備えた空間ではない。そのため機材も都度搬入出があり、いわば「劇場らしく」しようとすればするほど、多くのスタッフを要する。


しかし、たとえば1カ月創作にかけるとして、チケット料金が3,000~5,000円といった相場の価格帯におき、200名程度の入場者数の予算規模では、多額の設営コストをかけることは難しい。遠方のアーティストならなおさらである。

一定のアーティストフィーを確保しようとすると、簡単な計算であるが、たとえば1カ月間2名が日当1万円(この想定もずいぶんな金額だが)で稼働すると、月20日と仮定しても、20万×2名で40万となり、それだけでチケット料収入の3分の2以上を使ってしまうのだ。この状況で、まっとうな金額でテクニカルスタッフを雇用するのは簡単ではない。もっとも安易な方法としては、より観客数を増やす、ステージ数を増やす、ということになる。そうでなければ、チケット料金を上げる。


とはいえ、そのような方法に手を出さず、こうした「実験的な上演」をプロトタイプとして、さらなる活動の発展につなげていくことはできるだろう。その際に「自分たちでできることはやる」というかたちを試行した結果、テクニカルスタッフの問題を出演者本人が解決する例は、過去にもいくつか存在した。

Co-programの上演においては、たとえば2018年のホンマタカシ×コンタクトゴンゾの『鹿を殺すと残る雪』の例がある。コンタクトゴンゾのメンバー自身が、舞台装置である削り出しの木に据え付けた照明のコントロールを行ない、ホンマらによる演奏が上演を彩っていた★7

また、テクニカルスタッフは存在するにせよ、異なるアップサイクルを求めた例には、奥野美和らによるnakiceの実践がある。ダンス/パフォーマンスを主軸としながらも、モノの運動に着目する展開はインスタレーションとほぼ相違がない。Co-programでの実践を含め着実な実験を期待され、美術の領域からも注目されている。


ただし、いずれにせよ当館の例は、オルタナティブなスペースである京都芸術センターだから可能な側面もあることは付しておきたい。いわゆる専門的な劇場の場合、劇場付きの舞台監督がいなければ、作業灯すらつかない。安全管理上そうすべきだと、私も思う。



nakice『ABITA@京都芸術センター』[撮影:井上嘉和]


話がループする。

京都芸術センターのプログラムとしては、アーティストの主体的な活動を支援を考えた枠組みながらも、ここでの上演成果が直ちに再演の機会や、さらなるステップアップの場を紹介できるとは限らない。そのため、常に新しい経済的サイクルや、それぞれのアーティストにとって望ましい制作サイクルを検討していく必要がある。

新たな市場に売っていけるかどうかは、こちら側の信憑性もさることながら、買う側、つまり劇場や、それに類する施設の経済状況やミッションの変化にも左右される。


そんななかで、アーティストは、どのように上演をもち運び、作品を長持ちさせることができるだろうか。アーティストは常に答えを迫られ、回答し続けている。

アーティストたちは上演の仕組みをつくっていく。仕組みをつくることは世界観をつくることでもある。我々もそれに加担する。それはリスクのある行為である。

思考のループ、行動のサイクルは止まらないが、時折はいったんそれを上演の場において眺めてみよう。


★1──ただし、映画や映像作品などのかたちを「上演」に含むと、戯曲とそう変わらない程度には保存可能で、変化しないものだと受け取られているだろう。余談になるが、松原とスペースノットブランクによる『再生数』は、まさにこの点を扱った作品だった。
★2──昨今の社会的な価値観の変化を顧みて、過去の映画や小説作品について、注釈が入る例なども想起されたい。
★3──しかしその場合においても、「バージョン違い」として、改稿ごとに取り扱われることもある。シェイクスピアの作品のいくつかは出版の版型と時期ごとに「Q1」「F1」といったナンバリングで識別されている。
★4──実際納得するかはわからないが、筆者は「恋とはそういうものかしら」と思い、納得することにした。これには「白鳥の湖」よろしくロマンチックバレエと、少年/少女漫画的な悶々たる描写の下敷きがあるが、本稿では「観る人には明らかなパスティーシュ/オマージュ/パロディ」であることのみ記しておく。
★5──2023年度からは入場料収入の10パーセントを当財団が徴収することになっている。
★6──京都芸術センターは機材の保護と安全管理のため、施設のテクニカル管理スタッフは設営や本番に立ち会うが、作品にかかわる照明・音響等仕込みと本番のオペレートには、アーティスト側が雇用した専門のスタッフの参加をお願いしている。これは私の知る限り、一般的な劇場施設も同様である。もし劇場内部の人間ですべてのテクニカルのプランとオペレートを解決すべきだと考えた場合、施設が抱えるテクニカルスタッフを増員し、より充実させる必要がある。
★7──とはいえ、あまりに当館にとって実験的な上演だったため、本企画では別途舞台監督、音響管理スタッフを手配し、立ち会ってもらった。


京都芸術センター Co-program2023 カテゴリーA「共同制作」採択企画
松原俊太郎 小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク 不自由な言葉を離す身体「ダンスダンスレボリューションズ」

会期:2023年9月21日(木)~9月24日(日)
[オープンリハーサル:2023年9月2日(土)、9月18日(月・祝)]
会場:京都芸術センター フリースペース
(京都府京都市中京区室町通蛸薬師下る山伏山町546-2)


京都芸術センター Co-program(コープログラム) 2024プラン募集!

募集枠:
カテゴリーA「共同制作」(公演事業)
カテゴリーB「共同開催」(展覧会事業)
カテゴリーC「共同実験」(リサーチ、トーク、ワークショップ等)

申請受付期間:
2023年10月10日(火)〜 11月10日(金)23:59 必着 ※郵送・持込での提出不可

申請方法等:詳細はこちらのページでご確認ください。


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