artscapeレビュー

スペースノットブランク『光の中のアリス』

2021年01月15日号

会期:2020/12/10~2020/12/13

ロームシアター京都[京都府]

『ささやかなさ』(2019)に続き、松原俊太郎の書き下ろし戯曲に挑んだスペースノットブランク。戯曲の「粗筋」を抽出することは困難だが、『ささやかなさ』同様に恋人を不慮の事故で亡くした女性(ヒカリ)が、その辛い事実への直面から逃れようと、記憶喪失と引き換えに閉じこもった自閉的な時空間の中で、彼女自身の妄想の産物のようなキャラクター(バニー、ミニー)、そして恋人(ナイト)と繰り広げる会話劇である。そこは、ルイス・キャロルさながら、メタファーが逐語的に変換され、狂った論理とナンセンスの見分けがつかない「アリス」的世界である。いや、狂っているのは、外部に広がる現実世界のほうであり、資本とファンタジーの投下による「夢の国」の精神的支配を受けた「現代日本」の病理と絶望的なまでの多幸感が、バニーとミニーによって(しばしば脱力的な言葉遊びとともに)語られる。一方で彼らは、『鏡の国のアリス』よろしく、予め決められた筋=チェス盤のルールと厳格なゲーム進行に抗い、外部への「脱出」を企て続ける。それは、「おもひで」への後退的な自閉からの、「日本」という自閉空間からの、そして「物語」という虚構からの、不可能なまでの「脱出」への希求である。

この戯曲の「上演」にあたり、スペースノットブランクは、きわめて堅固で理知的な空間構成をつくり上げた。下手側の壁は全面鏡張りになっており、舞台上の光景の「映像的複製」を生み出し続ける。その二次元性は、(作中で示唆されるディズニーとジブリのように)奥行のないアニメ的世界と呼応する。また、もうひとつの複製装置が、ライブカメラに向かって発話するバニーとミニーのアップを映し出す、4面の大型モニターである。それらは観客席を監視する4つの「眼」のように、正面2階バルコニーの高い位置に掲げられ、見下ろしている。



[photo: manami tanaka]


このように「鏡」と「ライブカメラによる中継映像」というイリュージョン生成装置で固められた空間構成のなかで繰り広げられるのは、しかし、流動的で可塑的にこねくり回される、身体の運動性と発話の熱量である。松原戯曲へのアプローチという点で、ここで地点との比較をしてみたい。地点と同様、「役」に依存してべったり癒着した身体ではなく、いかにテクストから距離を取りうるかが賭けられているが、地点の場合、(作品によって運動の「質感」は異なるものの)カンパニーとしてのある種の同質性が共有されている。一方、本作では、俳優たちは同じ戯曲に向き合い、「テクストとどのような距離がありうるのか」という問いを発話する身体に引き受けつつ、そのサーチのための受信機のセンサー幅や出力回路がそれぞれ異なっているように感じた。より正確に言えば、「センサーの感度や出力回路の差異」を望ましい「規定値」に強制/矯正しようとする(演出という)暴力性に対して、彼らは繊細に抵抗を示し続けているのだ。


そうした「抵抗」を許すのが、松原戯曲の(言葉の情報量だけに留まらない)豊穣さなのではないか。形式としては一貫して「会話劇」だが、「自然な会話」としてはそこここで破綻し、相手に応答はしているが、ちぐはぐで噛み合わない応酬がさらなる言葉のダイブを生んでいく。逐語的な意味に(誤)変換され、文脈は横滑りし続け、かと思うとトリッキーな架橋が成立し、言葉遊びが倍音的に意味を増幅させ、唐突に関西弁が「混入」し、「統一された人格」を破綻させるバグが侵入し続ける。

ただしそうした破綻やバグは、「対立」や「不和」にはドラマとして発展しない。なぜなら「裂け目」はすでにそこにあるからだ。それは、「日本」という裂け目や矛盾であり、「発語に先立って書かれた言葉」という「戯曲」が宿命的に内包する裂け目や矛盾でもある。いずれ「声に出して読まれる宿命」だが、「まだその身体を獲得していない」という、来るべき受肉の時を待つ空白としての裂け目。その裂け目を、「自然な演技」によって統合し、縫い合わせて見えなくすることこそ「嘘」である。むしろ積極的に引き受け、舞台に(不可視の「裂け目」自体を)現前させることが、戯曲に対する誠実さの発露なのだ。



[photo: manami tanaka]


最後に、「演出」に対するスペースノットブランクのもうひとつの態度として、主宰の2人、中澤陽と小野彩加自身が演じる「キング」と「クイーン」の立ち位置について触れたい。作中では、ヒカリが身を置く世界のもう一段上に属する審級として、「キング」と「クイーン」が設定されている。「キング」は舞台正面奥に置かれた演台という全体を俯瞰する位置に立ち、演台の上にノートパソコンを広げ、設計した演出プログラムの進行を見守る存在を思わせる。その背後に立った「クイーン」は、終盤まで背中を向けたまま一言も発さず、黒い服に長い黒髪という影のようなシルエットは、「そこにいる」がほぼ不可視の存在として立ち続ける。この2つの「役」が、主宰・演出の2人によって担われている点はきわめて重要だ。つまり彼らは、「演出」という(不可視の)ポジションを作品世界内に自らインストールし、メタ的に現出させているのだ。



[photo: manami tanaka]


この「キング」と「クイーン」のさらに奥の正面壁際にずらりと設置された「照明器具=舞台美術」は、「ヒカリ=光」の両義性をめぐる、(鏡とモニターに続く)第3の重要な装置である。それは、(ディズニーランドの起源でもあるアニメ)映画、すなわちファンタジーやイリュージョンへの現実逃避的な没入であるとともに、そこからの「覚醒」を促す光の投射でもある。また、客席に向けられるこの「光」は、「知らない顔がたくさん並んでいる集合写真」として観客を二次元の世界に取り込み、写真(=「死」)の領域に固定化しようとする。数メートルの高さのスタンドに設置されたライトの列は、「首をちょん切れ」と命じるクイーンの台詞によってギロチンを想起させつつ、客席に向けて一斉に光を浴びせかけるその激しい明滅は、私たちに覚醒を促す集中砲火でもあるのだ。


公式サイト: https://spacenotblank.com/

2020/12/10(木)(高嶋慈)

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