キュレーターズノート

表も裏もない展覧会 「さいたま国際芸術祭2023」(メイン会場)と「Material, or 」

田中みゆき(キュレーター/プロデューサー)

2023年12月01日号

現代アートチーム目[mé]がディレクションした「さいたま国際芸術祭2023」(本稿での記述はすべてメイン会場)は、いわゆる芸術祭や展覧会とは一風違った様相を成している。この芸術祭では、「何気ない経験の数々を、いつもより少しだけ積極的に見つめることで、誰にも奪えないような固有の鑑賞体験につながっていく」★1ことが目指されているという。まず大きな特徴として、透明なフレームがメイン会場に縦横無尽に張り巡らされており、大まかにいうと3つの順路に分けられていることが挙げられる。どちらが表か裏かという区別はないが、それぞれの順路に異なる作品が設置されていて、両側から見ることができる作品もある。もうひとつの特徴は、会場内の至るところに掃除用具などの日用品やソファ、机などが置かれており、建物の記憶や人の痕跡を呼び起こすようなものが置かれていることだ。


さいたま国際芸術祭2023 旧市民会館おおみや(メイン会場) 会場風景(2023)[撮影:表恒匡]


奇しくも、同時期に開催し一足先に閉幕した21_21 DESIGN SIGHT企画展「Material, or 」も、壁が強い印象を残す展覧会だった。中村竜治が手がけた会場構成では、会場全体に高さ1.2メートルの壁を設け、「ギャラリー」や「通路」といった既存の機能から空間を解放する試みがなされていた。それは、「Material, or 」が、特定の意味をもたない「マテリアル」が人や生物との関わりのなかで「素材」として意味づけされるプロセスに着目した展覧会のコンセプトであることと呼応していた。つまり、ほかの展示物と同様に壁自体も、最初から「壁」として受け入れるのではなく、鑑賞者が意味づけすることで「素材」となる可能性へと開かれたものとしてデザインされているのだ。

どちらも、地と図の関係性において、地に目を向けることを誘う点において共通する部分を感じた。一方で、この2つの展覧会には、大きな違いもあった。まず、「さいたま国際芸術祭2023」においては、地となる作品の環境的要素がしばしば図よりも前に出てきている印象があった。鑑賞者には手の届かないところにポツンと置かれたコーヒーの紙コップ、掃除する行為を見せつけるような清掃員。それらは「SCAPER(スケーパー)」というプログラムによるものと推測され、「本当なのか偶然なのか…? 見分けがつかないような『虚と実の間の光景』をつくり出す存在」★2が会期中に集められていた。わたしが行った時には、白鳥建二さんの作品がある部屋で、透明なフレームの向こうに警備員の格好をした初老の男性が新聞を読んでいた。そういった仕掛けも合わさり、足を進めるほど体験は謎解きの様相を呈していく。

一方、「Material, or 」は、展示物と壁との相互作用は見られるものの、それ以上の仕掛けはない。まず目に入るのは、展示物のほとんどが床に置かれ、鑑賞者が展示物に近づくには腰をかがめる必要があることだ。中村は、鑑賞者が散策しながら“素の状態”で物や作品に向き合う状況を目指し、できる限り“展示っぽさ”を排除する設計を施工したという。それにあたり、「展示台やケースをつくらない」、「むやみに壁に展示しない」、「順路をつくらない」、「部屋単位で展示しない」★3などを実現した。また、展示施設としての意味を剥ぎ取り、洞窟や廃墟のような無意味な場所に戻すことを試みたという。実際に、見通しの良い展示室は村のような雰囲気さえ漂い、デザインにおけるモダニズムの呪縛を払拭するような効果を発揮していた。



「Material, or 」展示風景[撮影:木奥恵三]


鑑賞者の主体性の違い

どちらの展覧会も、玄人向けの展覧会のように思われた。しかし、それぞれの展覧会は異なる反応とともに想像以上に鑑賞者に受容されていたように感じた。では、鑑賞者はそれぞれの展覧会をどう楽しんだのだろうか。あくまでわたしの滞在中の話として目に入ったことを書き留めておきたい。「Material, or 」では、しゃがんで展示物にじっと見入る鑑賞者の姿が、至るところで見られた。キャプションも展示物自体も、鑑賞者が自ら近づかないと見ることが困難だ。一方、しゃがんでしまえば通常よりも作品との距離は近く、立って見るよりもほかの人の存在が気にならなくなる。しゃがむという行為は障害のない体を想定したものであり、会場のデザインがすべてそれを前提に設計されていたことは気になったが、小さい頃にしゃがんで虫や花を観察しているような鑑賞者の姿は、研究の始まりを感じさせた。

一方、「さいたま国際芸術祭2023」では、会場中に散りばめられた仕掛けに鑑賞者は目を光らせていた。何気なく置かれたように見えるものが意図されたものかどうか、鑑賞者が口にする様子がどの部屋でも聞かれ、ある子どもは「この(落ちている)靴下は芸術?」「この(床の)染みは芸術?」と保護者に尋ねて歩いていた。展示のひとつである「スケーパー研究所」には、一般市民からのスケーパーの発見を知らせる投稿が壁一面に貼られていた。その内容も、「トイレで弁当を食べていた人」「木の中で一枚だけ葉っぱが茶色」「洗濯物が並ぶ様子」など、展示を超えて日常にもスケーパーを疑う概念が浸透していた様子が窺えた。一方、作品について同じように目を配ることができていた人たちは、どれくらいいただろうか。上に述べた白鳥さんの作品が展示されていた応接室でその場に出入りする鑑賞者の様子をしばらく見ていたが、皆警備員風のその人が仕込まれたものかどうかに夢中で、誰も白鳥さんの作品に目を向けた人はいなかった。少なくともその時間は、鑑賞者は白鳥さんの作品ではなく、警備員を見て去っていった。

「さいたま国際芸術祭2023」のさまざまな取り組みのなかでも、大ホールは最も挑戦的な試みだったといえるだろう。大ホールの2階から中に入ると、幅3メートルほどのグレーのカーペットが敷かれたスロープが舞台まで長く伸び、さらには舞台奥を容赦なく横断し、観客を舞台上に誘うような設えとなっていた。既存の客席や舞台との間は、例の如く透明なフレームで仕切られているが、決して裏道から舞台を覗き見るような感覚は与えず、どちらが表でも裏でもないという概念が貫かれていた。わたしはその日、倉田翠『指揮者が出てきたら拍手をしてください』を見るために少し早く芸術祭を訪れたのだが、リハーサル中は大ホールは見られないだろうと考えていた。しかし、なんとリハーサルだけでなく、舞台上演中でさえ、展覧会来場者はその通路に足を踏み入れることができるのだ。入口が閉じられていないのを見て中に入ると、舞台上でリハーサルをする倉田さんたちが目に入った。初めて見る構造に胸が高鳴りながら歩みを進めると、少しずつ舞台が近づいてくる。ちょうど倉田さんたちのリハーサルは、最後のカーテンコールの段取りを確認していた。「“バレエをやめた者たち”と共に、身体に残る痕跡と現在を見つめる」と謳われた公演で、舞台上に1人ずつ登場するバレエをやめた人たちとともに、自分も周りにいる人たちも、同じように何かをやめた痕跡をもった存在として、舞台上にライトさえ浴びながら立っていた。正直その体験は、その後に実際の公演を観客席から見る体験を上回ってしまっていた。



「Material, or 」展示風景[撮影:木奥恵三]



さいたま国際芸術祭2023 旧市民会館おおみや 大ホール 「テリー・ライリー コンサート」準備風景(2023)[撮影:表恒匡]


意味を見つける体験と意味づけられた体験

2つの展覧会の壁を用いたアプローチの違いは、アートとデザインの違いを表わしているとも思う。デザインは「ここにあるもの」の営みを見つめることである一方で、アートは「ここにないもの」を想像することに重きがあるという違いだ。先述の通り、どちらも地と図の関係を、どちらが表でどちらが裏かというヒエラルキーに置かず、フラットなものとして捉えている。いずれも鑑賞者がナラティブを見つけることに主眼があり、またそこで得た視点が展示室内に留まるものではないことを伝えている点も共通する。「Material, or 」では、テーマがマテリアルということで、展示物も現前するものがその姿をもつに至った過程とその意味に鑑賞者の思考を向けさせるものがほとんどだった。それらを展示する手法は、一般的にデザインの展示がアートの展示のフォーマットを借りることで、必要以上に神秘化され鑑賞者との距離が生まれてしまうことに対するアンチテーゼとなっていた。

「さいたま国際芸術祭2023」で興味深かったのは、受付の後ろにある事務所や劇場の案内スタッフの待機場所までもが透明なフレームで覆われ、見えるものとなっていたことだ。また、撮影禁止とされている作品が、もうひとつの順路からはフレーム越しだが撮影できたり、事前予約が必要な舞台公演が通路からも見られるなど、散見されるルールの穴のようなものは、ひとつの世界では当たり前のことが見方を変えればそうではないことを表わしていた。そのように作品よりも構造に目がいくわたしは、今回の「さいたま国際芸術祭2023」の企みに思いのほか乗れなかったのは自分でも意外だった。作品以外の要素が作品以上に謎をもっているような側面が強く押し出される一方、ほとんどの作品は仕掛けのなかに置かれていたことで、地と図の関係は反転したままだった。作品の力によってその構造に揺さぶりをかけられるような瞬間を密かに心待ちにしていたが、それはわたしには最後まで訪れなかった。すべてが(自分ではない)誰かによって意味づけされた日常のように見える設定のなかで、作品もギミックのひとつとして見られることは、作品にとって本意なことなのだろうか。そんなことを感じざるを得なかった。メディアの発達により物語をメタ的に見ることが日常に浸透したいま、アートをアートとして見ることの意味について、逆説的に考えさせられた経験となった。



「Material, or 」展示風景[撮影:木奥恵三]



さいたま国際芸術祭2023 旧市民会館おおみや 会場風景(2023)[撮影:表恒匡]



★1──「さいたま国際芸術祭2023」公式サイト「芸術祭について」より。 https://artsaitama.jp/about
★2──「さいたま国際芸術祭2023」公式サイト「スケーパー募集」より。https://artsaitama.jp/scaper/
★3──中村竜治建築設計事務所公式サイト「無意味な空間」より。 https://www.ryujinakamura.com/2_works/230713_material,%20or/1_page/material,%20or.html


[編集部注]「さいたま国際芸術祭2023」の説明について一部修正いたしました。(2023年12月4日)

さいたま国際芸術祭2023

会期:2023年10月7日(土)〜12月10日(日)
会場:旧市民会館おおみや(メイン会場) ほか
(埼玉県さいたま市大宮区下町3-47-8)

Material, or

会期:2023年7月14日(金)〜11月5日(日)
会場:21_21 DESIGN SIGHT
(東京都港区赤坂9-7-6 東京ミッドタウン ミッドタウン・ガーデン)


関連レビュー

さいたま国際芸術祭2023 メイン会場|きりとりめでる:artscapeレビュー(2023年12月01日号)

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