キュレーターズノート

京都造形芸術大学 映像舞台芸術学科 高嶺・森山クラス授業発表公演「美しい前歯-Roads to Lebanon-」

能勢陽子(豊田市美術館)

2009年03月01日号

 高嶺格の作品を観た後には、特別な手触りと、喉の奥に刺さったまま抜けない棘のようなもどかしさが残る。昨年は山口情報芸術センターの「大友良英/ENSEMBLES:orchestras」の出品作品、せんだいメディアテークの個展「大きな休息──明日のためのガーデニング1095m2」を観に行ったが、そのためだけに遠方に足を運ぶに十分な、しばらく余韻が残り続けるものであった。こうした展覧会に出会ったとき、国際展などで瞬時に価値判断をしながらいくつもの作品を観ていくような状況は、やっぱりちょっと異常で、せめてその制作にかけた作家の時間や思考に少しでも寄り添いながら、じっくり作品に向き合いたいと思わされる。高嶺は、過ぎ去る時間や当たり前と思われている社会的事柄の流れに、生のノイズとともに棹さして、私たちを立ち止まらせることのできる稀有な作家である。その高嶺が、今回で二回目となる、京都造形芸術大学の学生たちとともに制作した舞台の公演を行なった。

「美しい前歯-Roads to Lebanon-」ウェブサイトより

 「美しい前歯-Roads to Lebanon」──私たちの日常と遠く離れたレバノンという地で起きた出来事や、そこに住む人々について考えてみるという一年間の授業を通して出来上がった舞台である。フードの付いた白い衣装を身に着けた学生たちが、互いに対話し、群れをなし、もしくは一人で、立ち止まり、そして動き回る。舞台上では、授業の過程で交わされた言葉が音声で流れ、またスクリーン上にも映し出される。そこでは、「レバノンのことをどうでもいいと思ってしまう」とか、「日本に生まれて良かった」といった言葉が語られている。レバノンはほとんどの日本人にとって、一度も訪れたことがなく、ニュースで空爆や紛争の情報をおぼろげに知っている程度のものであるから、彼らの言葉は、観ている者の日頃の無意識的な態度にも重なってくる。白い衣装を纏った彼らは、日本の若い人々の代表のようであり、また無垢なもの、犠牲になったレバノンの人々の写しのようでもあって、彼らに目の前に立ち止まられ、じっと目を覗き込まれると、ある気恥ずかしさを感じてどきりとしてしまう。
 舞台が進むに連れ、「録音されているとわかると嘘をいってしまうかもしれない」という言葉が出てくる。そもそも仮構の場である舞台で、「演じる」ことを躊躇するというこの言葉。架空と日常が奇妙に入れ子になった舞台において、この個人的な逡巡が、舞台とそれを見ている者とのあいだに風穴を開ける。「レバノンについて考える」ことには、「他者のことを“本当に”考えることができるのか」という問いが絶えず突き付けられるが、それが私たちの喉元に迫ってくる。私たちは舞台に限らず、日常生活においても自らを取り繕い、演じている。そして、しばしば「他者」についてわかったような振りをしたまま、もしくはそれさえすることもなく、多くの「他者」や「出来事」とすれ違っている。ふと、そうしたことを思い起こされる。
 その後、客席に座っていた高嶺の指示にしたがい、彼らは素早く動き回ったり、回転したり、またペアを形成したりする。それは、先生と学生──指示するものとされるもの──という、大小さまざまな形でこの世界を覆い尽くす権力構造の縮図のようであり、また彼らは指示を受けているほうが動きやすいようにもみえる。最終的に、この舞台に安易な落とし所が与えられることはなかった。「レバノンについて考える」というこの一年間の授業を通して、彼らの心境に変化がもたらされたかどうかは、結局のところわからなかった。しかしこの間、等身大の姿を晒して「他者について考える」ことに向き合った形跡は、舞台上にしっかりと残っており、だからこそ私たちは彼らに重ねて、ほんのわずかの時間であるがそれに追随することができた。自己中心的なスノビズムに陥っているといわれる現代の日本において、「他者のことを“本当に”考えることは可能か」と自らに問うてみることは極めて重要である。しかし、まず自らの心に問うてみなければならないそれは、簡単に答えが出るようなものではなく、またもや喉の奥に刺さった骨のように、微かな痛みともどかしさとともに、しばらくそこに留まるのである。

同、公演風景

京都造形芸術大学 映像舞台芸術学科 高嶺・森山クラス授業発表公演「美しい前歯-Roads to Lebanon-

会場:京都芸術劇場 studio21(京都造形芸術大学内)
京都市左京区北白川瓜生山2-116/Tel.075-791-8240
会期:2009年2月20日(金)、 18:00〜/21日(土)、13:00〜