キュレーターズノート

泉太郎「山ができずに穴できた」/池田亮司 + / - [ the infinite between 0 and 1]

住友文彦(ヨコハマ国際映像祭2009ディレクター)

2009年04月01日号

 日常のなんでもない風景は、眺めているときにそこで進行する出来事がどう変化していくかを意識することはあまりない。風景は自然に少しずつ、勝手に変化していくように感じられる。その均衡を保っているかのようでありながら、そこにある作為が加わることで、軌道を逸脱した運動が生じていく……、泉太郎の作品を見るのはそういう出来事を目撃する経験のような気がする。
 これはこの展覧会についての感想というよりも、これまでいろいろな機会で見てきた彼の作品は、いつもそうした運動として連続しているようにも感じられる。どの場所でも、作品が置かれる前からそこで継続されてきた日常がそのままありながら、しかし彼がそこにある運動を加えていくことが、確実にこの作家の持つ身体的な感覚を反映させものになっているようなところが興味深い。だから、脱力系というか、そういうゆるさだけがクローズアップされ、世代的な感覚の中に回収されてしまうにはもったいない魅力があるように思える。
 とくに、見る者の視線を誘う場所には映像があって、コマ撮りアニメの原理を使うことが多いのだが、撮影される対象が空間の遠近であるとか、時間の跳躍などを利用して視覚のトリックを軽妙に使いこなし、実際にはありえないような光景をつくりだすときの手法にその特徴はよく表われている。どれも編集やCGによってつくり込んだ映像ではなくて、あくまで見ているうちにそのトリックは必ずわかってしまう。画像を記録装置の作動結果としてみなすとまるで自動的に発生してくるようだが、彼はそれがどのように作動する装置なのかについて、シンプルだが、あるいはそれゆえに厳密な扱い方をしていて、記録装置が自動的に作動していく過程のなかに、もっと偶然性をはらんだ作為を加えていくことができる。その結果、見る者には画像が、それを構成している光や時間などが、どういう役割を持っているのかが明白に暴かれる。
 これが、彼の映像の作品を見るときに感じる自由さの理由だと思う。映像の中に生まれる運動が、理解できないブラックボックスのなかに閉じこまれるのではなく、私たちが日常で知覚している光や時間の連続上に画像が置かれているために、そこで自由に遊ぶことができる。
 もうひとつ、独特の身体性を感じさせるのはインスタレーションの仕方である。はじめはなにが置かれているのかわからないこともあるほど、ごちゃごちゃと雑多な物がカメラやモニター、プロジェクターなどと一緒にあって、そこを体をかがめたり、回り込みながら覗き込むことになる。そのささやかな移動と時間の持続のなかで、鑑賞者自らが作家の身体感覚をなぞるようにして画像と、その自由な作為の介入を発見する。記録メディアとはとか、社会についてとか、そうした俯瞰的な視点はそこにはなく、自分の身体が置かれた空間、手にしたビデオ機器をどうやって使いこなすかというほかには代えられない作家独自の感覚に賭けられた行為の軌跡のようなものとして表現が実践されていてすがすがしい。

泉太郎《ステーキハウス》2009、DVD、ミクストメディア

泉太郎《五段腹》2009、鏡、ヴィデオ、ミクストメディア

泉太郎「山ができずに穴できた」展示風景、2009
以上3点、courtesy hiromiyoshii

泉太郎「山ができずに穴できた」

会場:NADiff GALLERY
東京都渋谷区恵比寿1丁目18-4 1F/Tel.03-3446-4977
会期:2009年1月20日(火)〜3月9日(月)

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