キュレーターズノート

木村友紀「POSTERIORITY」/少年少女科学クラブ「理科室の音楽、音楽室の理科 TUNE/LABORATORIUM」/館勝生 展

中井康之(国立国際美術館)

2009年09月15日号

 天候不順な冷夏とはいっても、やはり夏は暑く、この時期は毎年の事とはいえ美術の話題も若干少なくなる気がする。月ごとの展評を担当していた時などは、夏期休廊を羨ましくも恨めしく思っていたかもしれない……。

 それで、という訳でもないが、この期間にもっとも注目したのは木下長宏の『美を生きるための26章──芸術思想史の試み』(みすず書房、2009)という書物だったことを最初に触れておきたい。木下氏は、長年、京都芸術短期大学で教鞭を執られ、人づてにその名講義の噂を耳にしてはいたが、残念ながらそれを体験する機会は訪れてこなかった。中井正一による美学の解読や岡倉天心に関する研究書によってわずかに木下氏の思考の方法を眺めるばかりであった。正直な話、ここ数年は木下氏の名前を意識していると言うことはなかったかもしれない。この『美を生きるための26章』も、一般向けの美術書なのかなという程度の感覚で手に取った。26章というのは、AからZまでのイニシャルを持つ人物(一部は遺跡名など)を集めているわけである。しかしながら、その章立てを覗くと、中井正一、岡倉覚三(天心)は入っているものの、アナ・メンディエタや尹東柱などのまったく知らない人名、そして北一輝やドン・キホーテなど、「美」との距離感がわからない人名など、一知半解なことでは見当がつかないような組み合わせなのである。まず最初のAはレオン・バティスタ・アルベルティである。アルベルティは『絵画論』を著し、そのなかで一点透視図法を確立したことで知られている訳であるが、その意味を改めて問い直すようにしながら、この世界把握の方法が近代思想の基礎を築いている、という展開を見せる。そして、次のBでは与謝蕪村を選び、彼の絵を通して東洋の「遠近法」である「三遠」を説明し、その世界観の違いを際立たせる訳である。このように、一見無関係な人物を取り上げているかのようでありながら、しかも、アルファベットという制約を設けながらもアクロバティックに、先史時代から現代までの美術を縦横無尽に駆け抜けるさまは、実際に体験することのなかった講義を擬似的に受講しているかのようである。ここは書評欄ではないのでこれ以上は詳しく触れないが、『新潮』で文化月評を著している四方田犬彦が、9月号で全頁をこの『美を生きるための26章』に割いてその博覧強記振りを賛嘆していた。

 冒頭からイレギュラーなことから始めてしまったが、この期間、西日本において注目すべき動きがなかったという訳ではない。最初に取り上げなければならないのは広島の大和プレス・ビューイングルームで6月から8月まで開催されていた木村友紀の個展「POSTERIORITY」であろう。ファウンド・フォトと称し、木村が旅先などで手に入れた写真を介して、独自な作品を発表し続けてきた。今回はこの広い会場全体9つの展示室に43点の近作・新作を巧みに組み合わせることによって、いまだ誰も試みたことのない「写真を問うための写真によるインスタレーション」とでも解釈できるような構成を繰り広げていた。そのことについて考える機会があり、文章化を試みていた。ある展望を持ちながら論考を重ねていったつもりであったが、そこに、あるストーリーとも呼ぶべき状況が発生している、ということに気づき、その文章は中断するようなかたちで一先ず筆をおいた。ストーリーという表現をしたが、なんらかの事象がある関係性を持ちながら時間軸を絡めて展開していく、というそれではない。そうではなくまったく写真的な、あるいは幻想的とも形容できるようなある関係性である。そのことはいま引き続き考えている。


木村友紀「POSTERIORITY」展示風景

 さて、前回から京都の美術地図のような話をしてきた訳だが、まだ触れていなかった公共機関によるオルタナティヴな場所として京都芸術センターがある。近年、都市部において就学児童の減少によって使われなくなった小学校施設を利用する機会が増えていると思うが、この施設はその先行例のひとつであろう。少しレストレーションしすぎている嫌いはあるが、それもひとつの試みではあるのだろう。この8月に、その施設内のギャラリーで少年少女科学クラブによる個展が開催されていた。彼らは、その作家名から感じられるように、小中学生の頃に抱いていたであろう未知なる物への郷愁を誘うような作品をつくり続けている。特に今回の新作《Water 2009 + She says nothing》(笹岡敬との共作)は、熱電冷却され霜で白くなった銅板が電気を一定期間遮断させて、霜は水滴となって熱を帯びたステンレスパイプにあたり、水蒸気となって上昇する作品である。観者が暗い展示室の中に足を踏み入れると何事も起こっていないような静寂が待っている。その緊張をほんの少し破るかのように、電気が切れて霜が溶け、白化粧していた金属板が赤銅色となる。その瞬間、人は淫靡な美しさを感じるだろう。
 同じ部屋に展示されていた、小さな放電の装置や化学反応による発光装置なども同様に、ささやかな仕掛けでわれわれの心の奥底にある、ある記憶を呼び起こす仕掛けとして機能するのである。


少年少女科学クラブ《Water2009 + She says nothing》のなかの「Water2009」を時間軸に沿って連写したもの

 京都について連続してレポートを続けてきたが、大阪の状況を見ていく必要があるだろう。今期は「堂島リバービエンナーレ」というものが突如として始まり、また「水都大阪2009」という村起しイベントが開催されているのだが、それはさておき、夏休み明けにギャラリー白で「館勝生 展」が開催されていた。館は、関西ニューウェーヴと呼ばれた世代に僅かに遅れた世代で、おそらくはその多面的な展開(インスタレーションという用語が盛んに喧伝されていた)、ポップ・アートの日本的な受容(その一人である中西學は館と同じ大阪芸術大学出身であった)、グループによるパフォーマンス(「イエス・アート展」「フジヤマゲイシャ」)といった状況を批判的に継承していった一人、もしかしたら唯一の存在であったかもしれない。彼はそのような状況を観察することによって、自らが信じる、より原則的な美術というものを希求したのであろう。それがオイル・オン・キャンヴァスであるのか、という問いはここでは不問としたい。もちろん、館自身にとってもその問題は頭に浮かんだこととは思うが、研究者としてではなく作家が、美術という対象に取り組んでいきたいと考えたときに、その歴史的な背景や、それを支えてきた理論や技術が十分に手応えのあるものとして見えてきたのがオイル・オン・キャンヴァスであったことになんの不思議もないだろう。この展覧会は、その館が生前に死期を自覚して取り組んだ最後の個展だった。彼が挑もうとしていたことに周囲の条件は十分ではなかったかもしれないが、彼の残した痕跡は観る者にある臨界状況を感じさせるほどに成熟した表現になっていた。


「館勝生 展」展示風景 撮影:南野馨

木村友紀「POSTERIORITY」

会場:Daiwa Press Viewing Room
広島市安佐南区西原2-26-21/Tel. 082-850-3668
会期:2009年6月13日(土)〜8月30日(日)

少年少女科学クラブ「理科室の音楽、音楽室の理科 TUNE/LABORATORIUM」

会場:京都芸術センター
京都市中京区室町蛸薬師下る山伏山町546-2/Tel. 075-213-1000
会期:2009年8月4日(火)〜30日(日)

館勝生 展

会場:ギャラリー白
大阪市北区西天満4-3-3 星光ビル2F,3F/Tel. 06-6363-0493
会期:2009年8月24日(月)〜9月5日(土)