キュレーターズノート
アートイン木町プロジェクト『つなぐ』'09──山口盆地午前五時/「Moids 2.0 - acoustic emergence structure」展
阿部一直(山口情報芸術センター)
2009年10月15日号
山口市で活動するNPO法人YICAが中心となって、市内にある木町ハウスにアーティスト・イン・レジデンスを行なった成果展示が、市内の菜香亭で行なわれた。YICAは、98年にNPOとしてスタートするが、その運営はその10年以上前から地道に行なわれており、トマス・シュトゥルート、ダン・グレアム、ジャン・マルク・ビュスタモン、デヴィッド・ハモンズ、アラン・ジョンストンといった大御所を始め、国内外のアーティストを定期的に山口に招いてレジデンスを行なうなど、継続した活動を行なってきている。またスコットランドのエジンバラと長年にわたって、パトリック・ゲデス(1854-1932)に関する環境文化哲学の研究や人材交流を行なう「エジンバラ−山口」などを実施していることでも知られている。
今回レジデンスのゲストに、狩野哲郎、蛇谷りえ、三宅航太郎の3名を招き、そのうち蛇谷と三宅は新ユニット「いいね!」を組んだので2組のアーティストによる新作と、YICAのメンバー、これまでに関係した内外のアーティストらによる展示で、「アートイン木町プロジェクト『つなぐ』'09──山口盆地午前五時」というタイトルよる展覧会となった。
狩野は、人間の住環境の中に、植物の種子を蒔き、自然に発芽する状況を提示するプロジェクトを行なってきたが、ここでは、100年ほどを経ている日本家屋の木町ハウスを1人で使っての作品展示である。これまでの人間世界と植物の関係に、動物である矮鶏のメス1羽を持ち込んで3者の関係を提示している。家屋の畳をはがしてそこに矮鶏のカゴ(これはいつも開いている)や止まり木など家禽用具があらかじめセットされていて、当の矮鶏もすでにそれらには馴染んでいる。また家禽飼育用種が何種類か室内中央に山状に盛られていて、水を継続的に撒くことで生命力の強い種は発芽してかなりの高さの草に成長している。矮鶏がそれらを啄んだりする。このインスタレーションのなかで、作家の意識は、エコ環境や生態系の循環科学などにはなく(そうであるなら水などの供給を自動化するなど厳密なシステム構想が求められる)、素朴な手順としての、人間/植物/鳥それぞれのせめぎ合いが作り出す風化/時間化を眺めているような視点にある。床の間をセッティングのなかで強調していたりするので、植物や鳥だけに譲歩しているのでなく、人間の住環境域としての主張も引っ込めている訳ではないのだ。
ここでは、植物だけが保持している発芽までの長期的な展開や微細な時間変化が与える、人間の住環境で多用されている表層的人工物や物質を突き崩していく、想像を超えた破壊力を顕在化させている。また大きな姿見を置くことで、矮鶏の持つ人間以上の過剰な空間テリトリー意識(鏡に映った姿を敵の矮鶏だと誤認識して矮鶏は自分の縄張りや食料確保を強調しだす)を、それとなく提示する手法は面白い。そこに作為としての、まさに縄張りを適当にボーダー化しているケバい色彩のホースや鳥脅しの器具類、なぜそこにあるのかよくわからない作家の手になる小彫刻など、自然環境には似つかわしくない人造的なオブジェが意図的に使われ、どの3者に対してもあまり整わない歪な形で、細かく雑然とインスタレーション化されている。そこで重要なのは、人間の生活環境の廃化が生み出す古さの美や廃墟感などを、徹底して足蹴にしていく狩野作品の弱い強さや用意周到な脆弱な緻密さが見て取れることだ。
蛇谷りえ、三宅航太郎のコンビ、即興結成ユニット「いいね!」(「いいね」に「!」がつくと、「あれ、いいね!」という共感的感嘆ととるか、「こうしといてよね、いいね!」という確認にとるかは微妙だ。いずれにせよ、「!」は受ける相手を想像するという仕組み)は、レジデンスにおきまりの地域リサーチから出発して、その地のコミュニティに関する作品を構想しようとしたが、結果的に、その目論みが破散していくプロセスを作品化するという試みに打って出ている。ユニットやコラボレーションという形式の持つ予定調和な同時性や同期性、単一化を、なんとなく受け入れがたく、蛇谷と三宅がユニット内で相互に男女で反発する違和感自体を形にするというもので、結局作品発表までの何カ月間かの期間、信頼感を作り上げられない関係のまま、とりあえずのルールとして、毎朝蛇谷から三宅へモーニングコールを行ない、その音声のか細い録音記録を、携帯電話をスピーカーにして来客に聞かせるという作品になっている。それぞれの寝室で撮影された小型のセルフポートレートが置かれ、またその作品に対する、撮影者を挟んだ2人の対話篇が、サブ的な映像資料として展示されている。
狩野、蛇谷、三宅は、ともに80年代生まれのアーティスト同士であるが、日本各地を舞台にした地域おこし的なコミュニティをベースにしたアートプロジェクトでは、この3人はすでによく相見える存在である。その共通項である、地域コミュニティベースのプロジェクトや地方フェスティバルは、昨今の日本のアートシーンの主なるモチーフとなりつつあり、かなりの勢いでアートシーンを飲み込んでいることは確かだろう。そこで仮説的な疑念として映るのは、90年代由来のキュレータ優位主義が、そのまま地域おこしプロデュースに横滑りし、全体企画優先なあり方としてアートマネージメントのプロフェッショナル化を呼び、それらが主たる批判を経ないままビジネスとしてのヘゲモニーを構成して来ているという構図はないだろうか。サイトスペシフィックという特異な点描の集まりだったものが、より引きをもった展望から眺めるならば、グレーな均質平面になってゆくという矛盾。それには、その表面のグレーナイズに対して、アーティスト同士がその構造下をハッキングする、横の連携や断層化をおこすしたたかさが要請されるだろう。
今回の「アートイン木町プロジェクト」には明確なキュレータはいない。アーティストを紹介し選んでいくやり方も、アーティスト同士による連鎖からきている。したがってアーティスト自体に、観客へのメッセージの投げ方は野方図に託されている。このそれほど広報もされていないアートプロジェクトに対して、来訪者がなにを期待してくるかもまったく読むことはできない。私自身、ゲストの狩野、蛇谷、三宅が、地域アートというちょっとソフトなアートのマンネリズムにどう取り組んでいるのか、とややシニカルな視線を持って訪れてみたのだが、この2組は、ともに「つながれない」自然状態を無自覚にどこかで模索しており、美的な調和性には回収されない、密やかな暴力的力の発見を提示していたように見える。連動状態やコラボレーションを、なかば自主的にテキトーに敷設することで、むしろそこから反発的に発見される歪みや非自由のかたちを、こだわりを持って生み出していたともいえる。ある意味かなり爽快な展示である。その理由は、作品において、ある徹底的な閉鎖部分と、対照的な開放部分の2つの層の混在を残す鮮やかさが見えているからである。この3人のほかに、数多くのYICA関係者の作品があったのだが、先日山口を襲った大洪水の暴力的力をゲーム的自発行為のささやかさにすり替えてみせた中野良寿のインスタレーション以外は、おおよそ各自の持ちネタ展示になっており、グループ展としてある共有線分が見えてこなかったのは、やや惜しまれる。