キュレーターズノート
Twist & Shout: Contemporary Art from Japan
能勢陽子(豊田市美術館)
2009年12月01日号
11月のほぼ半分を展覧会準備のためバンコクで過ごし、そのほかにはほとんどなにも観ていないような状態なので、今回は学芸員レポートの拡大版として、バンコクでの展覧会の報告と初の海外展で考えたことなどについて書くことにする。
「Twist & Shout」展は国際交流基金の主催で、インディペンデント・キュレーターの窪田研二氏との共同企画になる。海外で日本の現代美術展を開催するにあたり、キュレーターが複数いることは、ある視点やテーマに偏り過ぎず、包括的で多様な作家を紹介することに繋がるだろう。バンコクはニューヨークに次いで日本人が多く住む都市であるが、これまで大規模な現代美術展を開催する場所がなかったこともあり、意外にも日本の作家はまだあまり紹介されていない。しかし昨年の秋、バンコクの商業的な中心部であるサイアム・スクエアに隣接した場所に、バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)がオープンしたことで、大規模な現代美術展を開催する素地が整った。本展はこのBACCを会場に行なわれた。タイではまだ日本の現代美術にあまり馴染みがないとはいえ、マンガ、アニメ、ファッションなどの日本のポップ・カルチャーは、コスプレなども含め、私たちが想定している以上に隆盛しており、それはBACCに隣接した商業エリアを歩いてみればすぐにわかる。しかしまず本展を企画するにあたり、共同キュレーターの窪田氏と話したことは、この「ポップ・カルチャー大国日本」というステレオタイプから脱却しようということであった。タイでは日本の若者文化が人気を博しているが、逆に日本ではストレスの多い競争社会に疲れ果て、タイに惹かれて移り住む人々が多いことが知られている。消費や娯楽と結び付くポップ・カルチャーより、むしろこうした状況の背後にある精神的な「捻れ」のようなものをこそ伝えたい──そこからこの展覧会タイトル「Twist & Shout」がきている。
だから本展には、一見マンガ、アニメからの影響を直接受けているようにみえながらも、その背景には鬱屈した社会背景が透けてみえるような作家たち、またそれとは対照的に、あくまで現実に向き合い、他者とのコミュニケーションを図ることで、閉塞感溢れるこの社会から抜け出して、再び人間性を問い直そうとする作家たちが含まれている。第一章の「捻れた世界/精神」では、現在社会から湧き起こる捻れた精神性を、禍々しいほどの想像力で解き放つ作家たちを紹介する。ヤノベケンジは、BACCの吹き抜けに高さ6メートルある《ジャイアント・トらやん》を、また展示室入口に小さなトらやんたちからなる《森の映画館》を設置した。トらやんはキャラクター的役割を果たして、来場者を即座にユーモラスで奇妙な世界に招き入れるが、その背後には未来の核戦争、もしくは環境汚染後の不気味な世界像が透けてみえる。また会田誠は、手首の自傷行為の跡をみせて微笑む少女を中心に、おびただしい少女像、時の総理大臣、紙幣、団地、ラーメンなどを巨大にコラージュした。商売繁盛を願う「熊手」の形をしたそれは、資本主義社会における欲望とそこに潜む幼児性をポップに浮かび上がらせる。
第二章の「世界の再構成」では、日々の生活のわずかな隙間から詩情や新鮮な驚きを紡ぎ出し、この世界に対する新たな手触りを得ようとする作家たちを紹介する。金氏徹平は、旧作の立体、映像作品に加え、バンコクで集めたプラスチック容器やステッカーを用いて、展示室の壁や柱に新作を制作した。あらゆるものを「空」で覆う金氏の作品は、創造的なリセット行為により物事を無化/純化していくようにみえる。また泉太郎は、二階建ての展示室をつくり、バンコクで撮影した映像を含めたインスタレーションを設置した。街の片隅での泉のぎこちない身体行為が映し出されたその映像は、バンコクの日常になんともいえないユーモアと不条理感を生み出していた。
第三章の「密やかな/声高な叫び」では、現実社会と向き合い、他者とコミュニケーションを取ることで、いまでは見えにくくなってしまった共同体や魂を再び浮かび上がらせる作家たちを紹介する。ここでは、志賀理江子と高嶺格の二人が、タイの人々との関わりのうえで新作を発表した。志賀は今回の展覧会に際し、バンコクで頻繁に見かけるバイクに二人乗りした恋人たちに並走して、彼らを写真に収めた。《Blind date: don't smile, just look at me》は、志賀が撮影の際、運転する男に抱きつく女に向かって、「笑わずに私(カメラ)を見続けて」といったことからきている。髪を風になびかせながら、バイクから投げ掛けられる刹那の視線。疾走するバイクの背後には常に死の影がちらつくが、それがいま現在の彼らの生、刹那の恋を強烈に照らし出す。恋愛は他のどのような関係よりも、他者とのディープなコミュニケーションの可能性を孕んでいるが、壁に無数に貼られた恋人たちは、時間を超えたラブ・ストーリーのようであり、現代社会が失ってしまったかにみえる情熱がそこで鮮やかに浮かび上がってくる。高嶺格は、自分たちでつくった家でレジデンスComPeungを運営するOng(Pisithpong Siraphisut)と共同制作を行なった。高嶺とコラボレーターたちは、美術館での制作に先立ち、まずチェンマイのComPeungに行き、そこで住居状の東屋を制作した。そののちバンコクに移り美術館での制作を始めたのだが、それは宮島達男の《メガ・デス》の巨大展示室の裏側の、細長いスペースにおいてであった。そこにつくられた作品の前には、さらに壁が設けられているため、うっかりすると見落としてしまいそうなのだが、その隙間を通って先に進めば、土嚢と草の屋根の住居状の壁に囲われた庭が現われる。庭は芝で覆われていて、土製の小さな家がたくさん置かれている。この目新しいアートセンターの片隅にできた庭は、このうえなく場違いな力を持っている。庭のベンチに腰を下ろした目の先には、二台のテレビ・モニターがあって、それぞれで二人の建築家が日本の量産住宅の耐久性、効率とコスト重視の行き過ぎ、またそれが精神におよぼす見えない影響について語っている。チェンマイの空気そのままに、バンコクで高嶺とOng、そしてコラボレーターたちによりつくられた、原初的な魅力に満ちた土の家の庭でみる、その映像。それははっとするほど、現代日本の漂白されたような空気感を伝えてくる。高嶺+Ongの作品は、展覧会の裏側から、もっとも辛辣で重要なことをほのめかしているようであった。
さて、今回のように日本の現代作家のみのグループ展を行なうことは始めてであったが、それを国外で行なうとなれば、当然それは「日本現代美術のパッケージ化」を免れないだろう。それでもやはり、ただ網羅的に現在優れた活動を行なっている作家たちを紹介するのでは、アクチュアルな生彩を欠いてしまう。しかし本展において、確かにタイで制作してこの地でみせることの意義が見出せる作品が出来上がったことは、じつに幸福なことであったと思う。それはけっして、日本(人)とタイ(人)との交流という言葉に絡め取られてしまうようなものではない。オープニング翌日、タイの作家やキュレーターも参加したラウンド・テーブルでは、依然として日本イメージとしてのポップ・カルチャーが現代美術に重ね合わされている印象を受けたが、しかしタイの観衆には、現代日本が抱える複雑な襞、そしてそこにある同じような幸せを感じてもらえたら幸いである。