キュレーターズノート
田口和奈「半分グレーでできている」/エイミー・ベネット「ヴァケーションランド」/サイレント展
角奈緒子(広島市現代美術館)
2009年12月15日号
対象美術館
ここでは本来ならば広島近辺で繰り広げられているアート活動や動向を伝えるべきなのだが、今回は広島を飛び出し、東京で見た展覧会を取り上げてみたい。
最近、写真が気になって仕方ない。いつも近くにありながらとらえきれない奥深さゆえか、写真のなにが私を魅了するのか実はよくわからないのだが、とにかく気になる存在である。そんな写真というメディアを利用して作品を発表しつづけている田口和奈の個展「半分グレーでできている」が、南青山のvoid+で開催されている。
ご存知の方も多いと思うが、田口の制作過程は大きく三段階にわけられる。たとえば人物が対象となる場合、まず、普段から収集している雑誌の切り抜きやスナップ写真から、顔や身体を構成するパーツを選択し、組み合わせる。こうして存在しない人物を作り出す。次にその人物をカンヴァスに、グレーのモノクロームで描く。そして、そのカンヴァスを写真に撮り、プリントが作品として発表される。カンヴァスの肌理を残しながらもなめらかな表面に浮かび上がるのは、実在しない人物の肖像であること、作品は写真として存在し、絵画ではないことなどいくつかの見逃せない、議論を呼ぶファクターが見え隠れする。昨年、「トレース・エレメンツ」展(2008年7月19日〜10月13日、東京オペラシティアートギャラリー)で発表された作品では、動きが重要な一要素として新たに加わったように感じられた。スローモーションのような動きは、人物が描かれている時間とその人物がカメラにおさめられる、つまりシャッターが切られる一瞬という、異質な時間の融合によって、強調されているように見える。描くことによってカンヴァスに捕らわれた身は、写すことでそこから解放されようとしていた。
今回発表された新作《半分グレーでできている》にもやはり「動き」が含まれるが、前回とは異なる動きのように感じた。スローに刻まれた時の流れが留められているのではなく、流れている時が消えてなくなっていくような、そんな印象を覚えた。この人物は、写されることによってどうにかそこに留まろうとしているような、前作とは逆のベクトルを見た気がした。照明が反射し身体感覚を失いそうになるほど真っ白な空間には、新作がもう1点展示されている。正面にかけられたその大作は、田口にとっておそらく新しい試みだったのではないだろうか。というのも、彼女はその制作過程で、撮影時にカメラを動かすというまた別の「動き」を取り入れたという。描く際に意識的に付与する動きではなく、偶然によって得られる動きは、どのような効果を生み得るのか。絵画と写真の複雑な関係性をまだ咀嚼できずにいる。
「半分グレーでできている」会場風景
ともに撮影=望月孝(takashi mochizuki)
清澄白河の小山登美夫ギャラリー(6F)で、個展「ヴァケーションランド」を開催中のアメリカの作家、エイミー・ベネットの作品は、一見すると写真と見間違えてしまう。大自然の一角で休暇を享受する人々が、風景とともにどこか少し離れた場所から撮影され、光沢の印画紙にプリントされ、厚い板にマウントされた写真作品だと思っていた──近づいてみるまでは。それが筆跡の残るペインティングだということに気づいた時は、軽い衝撃で笑みがこぼれてしまった。しかもこの風景、実際には存在せず、ベネットがスタジオにつくりこんだジオラマであるという。その都度組み合わされ、四季折々の風景を無限に生み出す木々や湖、コテージ、ボート、登場人物たちは、それぞれの物語を紡ぎだしている。模型を使って風景をつくり、ペイントし、写真のような光沢をもつ画面として仕上げる、その制作方法や、静謐な画面から窺えるナラティヴもさることながら、彼女が風景を描く際の視点、つまりやや俯瞰気味の視点は大変興味深い。おそらくこの「俯瞰」という視点も、彼女の作品を写真のように見せている要因ではないだろうか。現在は、Googleマップという便利なツールを使えば、誰でも簡単に世界中を見下ろせる時代になったが、かつて特に西欧において、世界を見下ろすことができたのはそれを創造した神のみであった。大地に木々を生やして人間を配置し、その光景を上から覗いてよしとし、その風景を画面に留めるベネットの創造は、創造主のそれを強く想起させる。そういえば先に見た、自らの手によって人の姿を作り出す田口和奈の創造も、自身の姿に似せて人間をクリエイトした神の業に似ていないだろうか。