キュレーターズノート

アーティスト・ファイル2010──現代の作家たち/東京芸術見本市2010

住友文彦

2010年04月01日号

 プロジェクターから光が投影されたスクリーンを眺める経験のなかに、じつに複雑な要素を注入することができるアーティストとして、アーノウト・ミックの独創性にはずっと関心を持ち続けていた。1990年代の終わりにオランダで知ったアーティストのなかで、フィオナ・タンとアーノウト・ミックの作品は他の映像作家の作品とは異なる表現方法をみせていた。
 ミックのアーティスト・ファイル2010の展示は、四角く区切られた展示室の中にふたつの作品を相対するようにして配置されていた。ひとつは、アメリカとメキシコの国境に面する街に大量に破棄された自動車などの粗大ごみとそこで遊びに興じる子どもたち、そして国境を越えてくる客を相手にしたジェネリック薬品を売る店の光景が次々に連続して映し出される《浸透と過剰》。もうひとつは《タッチ、ライズ・アンド・フォール》という作品で、空港の手荷物検査場の検査官と搭乗客が映っているが、その厳格であるべき検査とは裏腹に必要のないものまで検査をしたり、まったく検査と関係のない私的なコミュニケーションに没頭をしている。同じ作品をベルリンのカルリエル・ゲバウアーで見ているので、展示空間によってスクリーンの位置や角度、高さ、さらにその厚みなどまで、ほとんど彫刻と言っていいような配置が繊細に考えられているのがよくわかる。
 視点を動かしながら、少しずつ画面の中で起きる出来事を追っていくと、徐々にその場面の中に自分が没入していくような経験が生まれる。しかし、真っ暗な映画館の中で画面を眺めるのとは違い、自分と画面との位置関係も同時に意識されるので、眼差しを送る主体への問いかけがつねに共存している。
 それと、彼は実際にありえそうな場面を描いていても演出を加えている。しかも、ほとんどはプロの役者ではなく素人の出演者なので、それは演技というよりもそれぞれの人が持っている日常の身振りや意識がにじみ出てくるものになる。
 もうひとつの特徴は、無音でゆっくりとしたパンによってつねに動き続けるカメラである。それは、絶妙な空間的な配置と組み合わさり、情動的な運動感覚を生み出している。こうした空間と時間を使った演出によって、現実にはあり得ないような、不穏で、時には不条理な光景を鑑賞者は眺めるが、そこで起きていることと自分とが同じ空間のなかを生きているような感覚をおぼえる。来年は、ステーデリック美術館から巡回する大規模な個展も準備中というので楽しみである。


アーノウト・ミック《タッチ、ライズ・アンド・フォール》2007
国立新美術館での展示風景(2010)

 もうひとつ、先頃参加した東京芸術見本市のセミナーでは、携帯電話やGPSなどのロケイティヴ・メディアやウェブサイトなどを使い、ギャラリーや劇場といった既存の芸術空間から出ていく創造的な表現を誘発する作品が紹介された。こうしたメディアを使うことで、都市、資本、政治、交通、歴史など社会の出来事と大きく関わっていく傾向がとても面白かった。私が参加したのはダンカン・スピークマンの《あたかも最後のときであるかのように(サトルモブ))》という作品だ。サトルモブというのは、フラッシュモブのように日時を指定してある場所に集まった無関係の人々がパフォーマンスを行なうのだが、派手なことはなにもしない。その代わりに、mp3データをあらかじめダウンロードしておいて、参加者が自分のプレーヤーを使って一斉にその場所で再生をする。ヘッドフォンから聞こえてくる音や声に耳を傾けると、文学的な言葉が自分の心の内面に集中するように誘う。都市の雑踏のなかにいながら、ひとりっきりの空間が少しずつ出来上がっていく。さらに、いくつかの指示に従って、少し歩いたり、お店の窓を覗き込んだり、通りすがりの人に微笑んだりする。そうしたさりげなく静かなパフォーマンスを、演技などはまったくの素人の参加者が行なうのである。
 もうひと組、ブラストセオリーは以前にICCの展覧会でも招待して《Can You See Me Now》というプロジェクトを行なっている。このセミナーに共通しているのは、まず、新しい技術であっても誰でも使える簡単な方法でどんな人も参加できるようにしていることだ。技術に注目がいくのではなく、誰でも使いこなすことができることで、性別、年齢、国籍、さまざまな多様性を持つ参加者が作品の全面にでてくる。そして、ここがとても重要なのだが、都市の公共空間の中でとても個人的な感情を喚起させるために、巧みな物語やゲームのインターフェースが導入となっているのも共通している。物語やゲームによって仮に定められたルールに従って、参加者は都市の中で自分だけの空間を少しずつ作り上げ、その結果、周囲の光景がまったく異なるものに見えてくるのである。
 つまり、彼らが仕掛けるゲームは、たんなる子どもだましの遊戯ではない。一時的につくられるルールを他人と共有すること、これは新しい技術によってますます複雑に変化する世の中に対して、自分たちが信じるものを見いだすための実践としても考えられるのではないだろうか。


ダンカン・スピークマン《あたかも最後のときであるかのように(サトルモブ))》、池袋、2010
(c)ブリティッシュ・カウンシル

アーティスト・ファイル2010──現代の作家たち

会場:国立新美術館
港区六本木7-22-2/Tel. 03-6812-9925
会期:2010年3月3日(水)〜5月5日(水・祝)

東京芸術見本市2010

会場:東京芸術劇場
東京都豊島区西池袋1-8-1/Tel. 03-5391-2111
会期:2010年3月1日(月)〜4日(木)

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