キュレーターズノート
アーティスト・ファイル2010──現代の作家たち/東京芸術見本市2010
住友文彦
2010年04月01日号
対象美術館
学芸員レポート
いまはソウルに来ている。ソウル市立美術館で9月4日からプレビューがある「メディア・シティ・ソウル2010」のキュレーター会議のためである。連日、ほとんど太陽光を見ず会議室で画像を見たり、議論をする時間を過ごしている。ロゴデザインの変更から作品の選定、ウェブサイトの構成まで、決めなければならないことがいくらでもある。
シンポジウムや審査でも同様だが、まず欧米で仕事をしているキュレーターと議論するときには、もちろん英語でしゃべることになるので言語能力が大きくモノを言う。それは絶対にかなわないので、議論の流れを読んで断言をするタイミングなどを最大限に活かさないといけない。しかし、それ以上に問題になるのは、その土台となるお互いの知識、経験が違うことである。自分が知らないことを相手が知っているという事実に謙虚でいることがどれだけ難しいことか。作品の理解についても彼らは徹底的に言語的な理解を求める。視覚的な魅力が勝ることがないわけではないが、文化的な背景やコンセプトをどう理解するかは言語的なコミュニケーションに依存する。もちろん、その限界や弊害も間違いなくあるだろう。しかし、いまのマーケットや作品の評価がどうやって動いているかにおいて、こうした異文化理解の可能性/不可能性が大きく影響を持っていることを実感する。
そうした議論を経たテーマと参加アーティスト・リストは4月末の発表まで控えなければならないのだが、少しだけ紹介をしたい。
まずテーマは、移民、ディアスポラといった人の移動とそれにともなうアイデンティティの複雑化を扱う。とくに、そうした社会の変化を受けて、物語や神話の力がどのようにして共同体の結びつきをつくってきたかに関心を払う傾向に焦点をあてることになるだろう。新しい社会的な共同体を作り上げる、あるいは共同体を再構成するうえで、新旧のメディア技術を使うことがどう貢献しているか。個人の自由と資本主義による欲望の喚起の狭間で、メディアの力を問い直す意図も含む。以前にこの連載でも触れた、過去の出来事や記憶の「再演」を行なう作品もけっこう含まれる予定である。
先のセミナーにも参加したブラスト・セオリーは《ウルリーケ・アンド・イーモン・コンプリアント》というドイツ赤軍とIRAのテロリストの日常生活を描き出した参加型パフォーマンスを街のなかで行なう方法を模索中だ。また、ナスリン・タバタバイ&ババク・アフラシアビによる世界中に配信されているイランの衛星テレビの舞台裏を撮影した作品や、ジュディ・ラドゥルは、社会や政治で用いられている装置に関心を持つアーティストだが、裁判の形式を再演するインスタレーションを出す予定。また、デイマンタス・ナルケヴィシウスの、場面設定を変えたうえでタルコフスキーの『惑星ソラリス』の再演を行なった作品も興味深い。
視覚芸術のなかに、あえて演劇や物語の形式を持ち込むことによって情動の作用をうみだすことに関心を持つアーティストが多いことは、共同体のあり方について大きな変化が起きていることと深い関係があると思う。ぜひ、機会があればソウルにまで足を運んで見ていただきたい。