キュレーターズノート
落合多武 展/横山裕一 展
住友文彦
2010年07月01日号
対象美術館
オープニングのコンサートにいけなかったことがとても悔まれる。ワタリウム美術館の吹き抜け空間の展示は作品から出るいろいろな音が小さな反響音を奏でているような展覧会だったので、そこで楽器ならざる物の音を響かせたコンサートがとても似合っていたような気がしてしかたないからだ。落合多武は、おそらくポートレイトなどを繊細な線で描いたドローイング作品がよく知られているが、今回の展示ではインスタレーションやビデオの作品も多く並んでいる。ドローイング、ベニヤの板、文字、モニター、オブジェが、空間の中にお互いをうまく響き合わせるような佇まいでとても気持ちよく並んでいた。展示空間が作品によって埋められるのではなくて、その空間と一体となって観客の視線や動きを導いているような感覚がある。こんなにいろいろな媒体を扱っていても、その数がうるさく感じず、媒体の違いなどほとんど気に止めていないかのないかのように私たちの視線を転がすのに驚く。そのうちに、別々の物同士がなんらかの関係性を秘めているかのように思えてくる。普段は私たちに見えていないけど、じつは物や空間のあいだをつなぐサインのようなものを作家は感じとっていて、おぼろな連関が少しずつ見えては消えを繰り返しているようだ。展覧会に足を踏み入れたことで自分の知覚が解放感を味わっているような気さえした。各作品から聴こえる小さな音はこちらから耳を傾けないとよく聴こえない。でも、そうすることが自分と対象との関係を相互的で個別性の高い豊かなものに変えている。しかも、そうやって耳を澄ませると、壁にあるシミや窓の外の風景などいろいろなものまで目に飛び込んでくる。吹き抜けの空間の壁には大きな声で主張をする建築家の仕事が数多くのドローイングで描かれ、一つひとつが建築家の固有名ではなく、映画のワンシーンなど個人的な記憶と結びつけられて並ぶのもとても面白い。
落合多武《ブロークン・カメラ》(2009)
©ワタリウム美術館