キュレーターズノート

落合多武 展/横山裕一 展

住友文彦

2010年07月01日号

 もうひとつ、一緒に書いておきたくなった展覧会が川崎市市民ミュージアムの横山裕一展である。4年前に共同通信社に「今年の美術書3冊」という主旨の記事を寄稿したときは、横山裕一の本を入れるのを少し悩んだ。そのときはヴィクトル・ストイキツァ『ピュグマリオン効果──シミュラークルの歴史人類学』、古田亮『狩野芳崖・高橋由一──日本画も西洋画も帰する処は同一の処』がほかの二つだったので、現代美術でもうひとつあげようと思い、できればアーティストブックを選びたいと確か考えて『トラベル』をいれた。つまり、アートの表現形式としてページをめくることで時間を扱う漫画を作家が選んでいるとみなしていいように思ったのだ。今回は、本人が明快に「時間を描く」というコンセプトを示しているので、おそらくそこから作品に触れていける人が多かったのはとても効果的だった。実際になにが起こるのか、どこに行くのかという物語的な展開ではなく、この時間の持続的経験こそが作品がもたらす最大のものだと言えるのは、コンセプチュアリズムの表現が追求したものとも重なる。
 また、独特の色使いは漫画として接してしまうと注意が向かないかもしれないが、今回は原画や絵画作品の展示がそれを大きく補っていた。それを強調すると伝統的なジャンルとしての絵画によってアートの正当性から評価をすることにもなりかねないので避けておきたいが、展覧会という形式によって観客が作品に接するうえでは重要な役割を果たしていた。


『ニュー土木』より「ブック」(部分)
©Yuichi Yokoyama, 2002

 どちらのアーティストも、近代芸術ジャンルの自己参照性や周縁性のヒエラルキーから自由だと私には感じられた。かといって、それらを回避して批評性、歴史性を持たない「特殊な日本」に入り込むのでもない。最近よく耳にする、合理的かつ構築的な表現のロジックや、他人と同期し続ける感覚の重視と、彼らの作品が提示するものはかけ離れている。あるいは、文化的な差異に価値をみいだした結果、現代美術における中心的な権力を残存させたままローカルなものとポップを結びつけてしまうものとも異なる。それゆえに、同時代の視覚表現が持ちえる可能性が優れた感性によって示されている展示を、ぜひいろいろな人にみてもらいたい。

落合多武 展──スパイと失敗とその登場について

会場:ワタリウム美術館
東京都渋谷区神宮前3丁目7-6/Tel. 03-3402-3001
会期:2010年5月22日(土)〜8月8日(日)

横山裕一 ネオ漫画の全記録「わたしは時間を描いている」

会場:川崎市市民ミュージアム
川崎市中原区等々力1-2/Tel. 044-754-4500
会期:2010年4月24日(土)〜6月20日(日)

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