キュレーターズノート

椹木野衣『反アート入門』/光州ビエンナーレ/メディア・シティ・ソウル 2010

住友文彦

2010年10月01日号

 この連載のいいところは、書く内容についての自由度が高いことだ。なので、基本的にはほかで話したり、書いたりしていないことを記すようにしている。今回は、椹木野衣の著書『反アート入門』(幻冬舎、2010)と光州ビエンナーレの感想で、お互いにまったく関係はない。ただ、私が眼にする時期が重なったというだけである。

 椹木の著書を取り上げるのは、現在の日本で現代美術関係の単行本を定期的に出版し続けているほとんど唯一の人物だからでもある。日本語で読める出版物なので、広く年代も問わず、それをめぐって意見を交わすことができる貴重な存在だ。
 先日手に取ったこの本は、ほとんど二つの書物であるかのように分断されている。前半は、1980年代くらいまでの「現代美術」の流れを丁寧に説明し、門外漢にもわかるように書かれている。こうした大きな見取り図はとくに美術に関心を持つ若い世代にとってはとても重要である。明確に読者が意識されているような文体だ。しかし、「第三の門・第6章」あたりから、相変わらず語りかけ調ではあるが、内容的にはあちこちを逡巡しながら、どうしたら「現代美術」から逃れられるかを模索し始め、独白のような様相を帯び始める。もちろん、彼の書いたものに親しんだ者なら、たんなる思い付きの記述ではなく、それが一貫して追求しているテーマであることはすぐにわかる。欧米とは異なる、日本独自のアートを希求してやまない気持ちが後半のほとんどを覆っている。
 この後半部には、同意できる文章と違和感を覚える文章がほぼ交互に登場する。基本的に、「芸術というものは最終的には、法の支配者である国家によってはけっして統御し切れないものなのです。反対に、もしも芸術というものが国家によって管理・育成されるだけになってしまったら、その国にはもはや芸術は存在しないと言っても過言ではないでしょう」(232頁)という考えには深く賛同できる。おそらく、この考えに沿って、ますます奨励されつつある、まちづくりや教育普及のための「役に立つ」アートを明確に批判することでもかなり有効な議論ができた気がする。そのために、わざわざキリスト教の伝統のない日本を指摘して、ハイデガーや矢代幸雄、水墨画や民藝を持ち出す必要性があったのかはよくわからなかった。もちろん、現状批判にとどまらず、評価するべきものを導きだすための論述を重視した、というのが著者の考えだろう。彼が評価するべきと考えている対象は「キリスト教美術のような永遠性や肉の不滅ではなく、むしろ、現れと消滅のほうに顔を向けた新しい『わるいアート』」(293頁)という文章をはじめ、いくども読者に示されている。そのとき、キリスト教=西洋という図式は強固な前提になっているが、はたして西洋のアートは、そんなに一枚岩で変わらないものなのだろうか。
 この本は2010年に出版されているにもかかわらず、冷戦以後のアートについては、著者の意図に沿うごく一部の動向のみが選ばれて記されているように感じる。本書で述べられているとおり、アメリカのアートからすでに大きく価値基準は他へと動いてきた。南アメリカ大陸や東欧圏のアートへ注目することで、身体性を持ち、時間のなかで生成されては消えていく表現、あるいはリレーショナル・アートと呼ばれる日常の個人的な感覚をもとに他者とつながる表現を多様に展開させた動向、ドキュメンテーションやアーカイヴの形式を用いて社会問題などに言及する傾向など、そうした一連の大きな動きに対して言及することがないのは、前半の記述からすると不自然ではないだろうか。著者が評価するものをよりはっきりさせるためにも、ぜひこうした動向についての考えも記してもらいたかった気がする。そこにも著者が評価する対象があるのかを明確にすることで、欧米を中心とした前半の記述と連続した論理の展開が、同時代のアートへの批評性として有効性を発揮しえたのではないだろうか。
 気になる論理の展開は、後半部分でかなりの量を費やした「貨幣とアート」という箇所でも指摘できる。簡潔に言えば、市場や美術館、ジャーナリズムなどが一体となってつくるアートのシステムは、彼が言うように基本的には資本主義と共犯関係にある。しかし、「その意味で現在の美術界は、情報資本主義のヴァーチャルな投機的段階をモデルに、そのおりごとの価値策定を行っていると言えるでしょう。このことから、現在のアートは資本主義の論理に完全に包摂されている、と言っても過言ではないと思います」(195頁)と椹木が述べるとき、アートのシステムとアート作品は一緒くたにされていないだろうか。当然ながら、両者はまったく異なるものである。アートには、これまた椹木の言うとおり「分際」があり、それゆえに私たちの生を照らし出す力を持つ。しかし、それは限界を持つゆえに、必ず一方の際限なく拡大し続ける資本主義に飲みこまれてしまうものであるのは間違いない。だが、著者はアートが「分際」のなかに留まる価値を持つからこそ、貴重なものだと述べているのではなかっただろうか。しかし、システムのほうには分際などない。なんでも飲み込むだろう。中身と容器の区別をせずに、「芸術作品と貨幣経済は同一の起源を持つ」(220頁)として、現在のアートが「人間であることに踏み留まること」(204頁)を「なかば放棄してしまっている」(205頁)のようにみなすのは、国家や宗教による価値の担保から脱するための闘争を経てきたはずの「現代美術」の役割を過小評価しているように思えるし、現場で日々作品や作家と接している感覚からしても到底同意できない。市場の力が増していることやそれに追随する作家を批判するのはもちろんとても重要だが、ここは混乱を指摘しておくべきだと思う。
 一方で、それはいまの「アート」とは異なるものになると述べているにせよ、著者がアートに望みを託す可能性について所々で散りばめるように記している文章に、私はほとんどの箇所で同意できる。したがって、特定のアートの動向を選び出すことで、独自の論理の展開を目指す著者の批評的な切断の仕方に対して異を唱えたいと思う。あえてアートを現在の高度資本主義のなかで複雑で混乱したものとみなし、独自の道を切り開くような記述をしなくても、むしろ、いま起きている表現の現場を追うことから「なにか流動的な生そのもののような芸術」(304頁)の動きを抽出する批評こそ必要なのではないだろうか。
 ただ、西洋にはない独自の表現をなんとか捜し求めようとする著者の姿勢が、グローバルなアートのシステムがアジアにも大きく押し寄せている現代において貴重な試みであるのは間違いない。困難であっても、ローカルな固有の文脈から生まれる批評を、グローバルなアートの実践と理論に一方的に回収されない方法で接続させることはいまこそ求められている。


椹木野衣『反アート入門』(幻冬舎、2010)