キュレーターズノート

椹木野衣『反アート入門』/光州ビエンナーレ/メディア・シティ・ソウル 2010

住友文彦

2010年10月01日号

 おそらく、その大きな波のひとつである光州ビエンナーレは、毎回、企画性の高さを発揮し、アジアでもっとも重要視されている国際展である。今年は光州事件から30周年ということもあり、記念事業が継続的に行なわれ、多くのアーティストや関係者が招待されてきた。韓国の詩人コ・ウンが書いた「一万人の生」という題名の作品からテーマが借用され、日々消費されていく膨大な数のイメージによって、多くの人々の生が伝えられていくことが企画趣旨に掲げられていた。
 テーマに沿って関係する作品が並べられている全体構成の面ではドクメンタ12と似ていた印象もある。その構成の効果を評価する声は、欧米の関係者からもかなり聞かれた。実際、たとえばトマス・ヒルシュホルンの残虐な死体の写真とオブジェによるインスタレーションとジャン・フォートリエの作品が並べられる部屋は時代を隔てた作品同士が響きあう効果を挙げていたように思える。このように、一部のテーマは政治的な抑圧や戦争の悲惨さをかつての軍事独裁政権に由来する当地の事件と結び付ける効果を発揮していたかもしれない。しかし、それ以外の、冒頭の私たちの“見る”という行為を扱う箇所などは、そのテーマに対してそれらしい作品が並べられているだけで、むしろ教養主義的な感じさえ受ける。作品に対して意外な見方を与えて多層的な解釈を引き出すのではなく、わかりやすいテーマによって作品の持つ豊かさが押さえつけられている。また、会場の動線もかなりきっちりと決められ、美術館的な空間構成がされている。展示されていたものには、過去の作品やジャーナリストの写真、アウトサイダーアートと呼ばれるような作品が目に付き、それらが現代の美術作品と違和感なく並べられるという点においてあらゆるものを飲み込む博物館的な機能がそこでも発揮されている。はたして、いまさらビエンナーレという場でこのような啓蒙型の展示が必要なのだろうか? もっと生き生きとした作品を作り出している同時代の作家たちの仕事へ目を向けるほうに役割があるべきなのではないだろうか。そう考えると、前回の光州ビエンナーレのほうが空間構成や作品のセレクションにおいても、身体性と新鮮さがあった点でよかったように感じた。


左=Bruce Nauman, Poke in the Eye, 1994, video installation
右=Herman Glöcknerがつくり続けた小さなオブジェの展示

光州ビエンナーレ

会場:ビエンナーレ館、光州民俗博物館、光州市立美術館、良洞市場
会期:2010年9月3日〜11月7日

学芸員レポート

 「メディア・シティ・ソウル2010」がソウル市美術館で9月7日から公式にオープンした。私はあくまでも共同企画者の一人なので、もちろん不満なところがないわけではない。しかし、あらためて完成した会場を見てみると、準備のあいだに積み上げてきた他のキュレーターとの議論の成果を反映させることができていたと思う。総合ディレクターのキム・ソンジョンほか、若い事務局チームに心から感謝したい。
 なかなか見に行ける人は限られていると思うので、企画当事者の主観になるが紹介をしたいと思う。まずメイン会場の入り口では、ウィレム・デ ・ローイのピンクの花でつくられた大きなブーケが来場者を迎える。多くの人に愛される色だが、それは本物と造花を巧みに混在させてつくっている。それに続く1階は国家や宗教、歴史といった伝統的な共同体をつなぎとめるものをテーマにした作品を並べた。サラ・モリスは北京オリンピックの舞台裏を美しいカメラワークで追い、アラン・セクラはアメリカに住むポーランド人をはじめとする移民たちの姿を写真と引用文を用いた方法で展示し、国際刑事裁判所を入念に取材したジュディ・ラドゥルは、役者に再演させることで裁判の証言や真実をめぐる形式的な側面を浮かび上がらせる。手法はさまざまだが、過去や現在の出来事に取材した点ではドキュメンタリー的とも言える作品が、非常に豊かな表現方法を生み出していると言える。なかでも、小泉明郎はナショナリズムを扱う新作も含めた4作品を出した。ご存知のとおり、今年は日韓併合100周年(現地では「韓日強制併合」という表記をしていた)を迎えている韓国である。どのような反応があるのか関心を持っていたが、多くの若い観客が食い入るように見ていた。数人と話をすると、日本の若い世代の作家が戦争や特攻隊のことに関心を持って作品をつくっていて、それが兵士のかなり個人的な感情、例えば家族や妻への愛、性的な興奮といった面を強調し、情動を前面に描いていることがとても興味深いと語っていた。


左=Willem de Rooij, Bouquet VII, 2010
右=Allan Sekula, Polonia and Other Fables, 2009, installation view


Judy Radul, Court Theatre: Trials of the Soldier Who. Pleaded Guilty and the Accused Former 21st President of the Republic, 2009, installation view

 それが上の階にあがっていくにつれ、メタファー的な方法によって個人の解釈を反映させたり、フッテージの構成や技術の転用などの手法を使う作品が増えていく。国家のイデオロギーを転倒させるようなユーモアを発揮していたのは、小沢剛とギム・ホンソック、チェン・シャオションによるコラボレーションユニット、西京人と、ライナー・ガナルの中国の台頭と欧米の関係が土台となったビデオ作品、そしてジミー・ダーハムの自伝的ヴィデオである。また、泉太郎は、一定のルールによって伝わっていく情報が独自の解釈をされていく過程をインタビューとオブジェによってみせる作品と、ソウルの街なかで撮影した人の姿が目の前の日常品と組み合わされることで奇妙な映像をうみだす作品を展示した。遠近の操作を使った映像のトリックは手作り感が漂い、その親密さは多くの人に好まれる。そうした個人的な解釈や介入が現実を大きく凌駕してしまう表現は、別館会場のエリック・ファン・リースハウトやリー・ジュヨの映像やインスタレーションにも見出すことができる。それから、過去の事件を個人的な解釈の強い演出によってなぞり直す作品としては、キム・ソンアンやアピチャッポン・ウィラーセタクンの作品が秀逸だった。アピチャッポンについては、今年はカンヌのパルムドールを取ってしまったので、広報チームが色めきだって全面的にPRに出してきただけあって、話題を呼ぶことができるマルチスクリーンのインスタレーションが実施できた。
 また、興味深いのはヤンアチとイム・ミノックという二人の韓国人作家が、パフォーマンスと音によってとても力強い作品をつくっていたことだ。ちなみに、ヤンアチは私の滞在中に若手作家の重要なコンペティションであるエルメス賞も受賞し、テキストを寄稿した私も美酒にあずかった。酒話ついでに記しておくと、韓国の作家が総じて質の高い映像作品をつくっているのは、本格的な映画クルーや音響エンジニアと仕事をしていることが理由のひとつとして挙げられる。それは、もちろん充実した助成金の制度に助けられている面もあるが、ホンデ地区のクラブナイトや、クリエイティブ系の人が集まるこじんまりとした飲み屋で出会うことがきっかけとなっている話を沢山聞いた。社交性の高いラテンのりの韓国人はどんどん領域横断的な活動をしていきながら、作品の質を高めている。

 最後に、1週間という期間限定ながらイギリスのブラストセオリーも、非常に興味深い参加型のパフォーマンスを行なった。参加者は携帯電話を受け取って街に出て、ドイツ赤軍のウルリーケ・マインホフとIRAのメンバーだったイーモン・コリンズのどちらかになることを選択する。ふたりの個人の生活を丹念に調べ上げ、家族との関係などを反映させたスクリプトをもとに行動の指示が電話を通して伝えられ、参加者は時折決断を迫られながら、最後のインタビュー部屋(日韓併合の調印がされた建造物の地下室)まで足を進める。そして、自分の倫理や信念をめぐる問いに答えることになる。スパイやテロといった言葉が日本とは異なる響きを持つ国で、韓国の役者たちが別の国のテロリストの心情に近寄りながら作り上げていく制作のプロセスが非常に興味深かった。
 私個人の経験としては、昨年に続いて規模の大きな展覧会の企画をする機会になり、とても勉強になった。まず、基本的にどういうアートを評価するかという点において大いに共感できつつも、活動する地域が別々で、現代の世の中に対する考えやアートが成り立つ社会的な環境の違いを持つメンバーで何度も意見を交換したことがとても有益だったことを、それぞれが実感していた。しかし、同時にアジアのアートが欧米のそれと異なる固有の表現も持ちえることを伝えるにはまだ時間がかかるとも思った。
 公式なオープンに先立つ、9月4、5日を国際的な美術関係者やプレス、6日を地元のソウル市関係者のオープニングレセプションにあて、じつに3日連続のパーティーには、前述した光州ビエンナーレと会期が近いこともあって世界中のおもだった関係者が大勢集まった。もちろん、はじめて韓国に来た人も数多くいる。いまや、関係者のネットワークや言語能力においてアジアでもっとも国際化されたアートシーンは韓国にあると言っていいだろう。おそらくこの展示内容をあまり理解していないロダン好きの館長は、昨年の記者会見で「ソウル市は世界に発信できる国際展をどんなに経済が困難になっても必ず継続していく」とはっきり言っていた。美術館は大衆向けのアンディ・ウォホール展は高額の入場料をとり、このビエンナーレは無料と、明解な経営方針も持っている。官僚的なシステムの弊害も現場では経験したが、行政と美術館と民間ギャラリーが協力の体制をとりながら外に向かって発信していく努力をする国に、多くの美術関係者が魅力を感じ人が集まれば、やがて目指す姿としてもっとも重要とも言える、異なる文化間で価値観を交換する場となっていくことも可能だろう。

メディア・シティ・ソウル 2010

会場:Seoul Museum of Art、Gyeonghuigung Annex of SeMA、Seoul Museum of History、Simpson Memorial Hall of the EWHA Girls High School
会期:2010年9月7日(火)〜11月17日(水)