キュレーターズノート

高山登「遊殺-2011」

住友文彦

2011年04月01日号

 だいたい1月から3月にかけては世間では閑散期と言われているが、じつはいい作品を見るには適している時期である。その理由は、美術館が夏から秋にかけては大量動員を目指した企画を求められがちなのに対して、この時期はそうした期待から自由にそれぞれ独自の企画を立てられるからで、今年も地域の作家を紹介する展覧会や国内作家の個展が集中して見られた。

 荻野僚介と町田良夫(「ニュー・ヴィジョン・サイタマ4」埼玉県立近代美術館、2011年1月29日〜3月21日)、プレイと立花文穂(「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」国立国際美術館、2011年3月8日〜6月5日)など眼を惹くものも多かったが、なんと言ってもこの原稿を書いているのはまだ東日本大地震の余震が続くなかであり、なにか取り上げるとすると高山登がコンセプトスペース(群馬県渋川市)で行なった「遊殺-2011」の記憶が、どうしても頭の片隅に強く残っている。コンセプチュアルアートを中心に、この地域に住む福田篤夫という作家が三十年継続してきた活動がひとつの区切りを迎え、関連する展覧会が今年はいくつか行なわれる。今回は、古いアパートの長屋を使ったスペースのほうではなく、予備校を併設したAIS(アートインスティチュート渋川)の1階奥にあるスペースを使った展示だった。
 外の机に置かれた芳名帳に記名し、今後の展示資料を受け取って、表通りに面していない奥のほうに進む。そうすると、駐車場のような場所から半地下になった空間を、大きな窓越しに覗き込むような変則的な展示空間が現われる。展示室の敷居を跨いで別の空間へ移行するのではなく、あくまで家屋の庭や駐車場のような日常の空間に鑑賞者は身を置いたまま作品を見ることになる。作品がそこにあると言われなければ、まるで倉庫のような場所である。その少し暗がりになった場所に、おなじみの枕木がいくつかが立てたれ、いくつかが横倒しになっている。そして、じっと見ているとそのうち鈍い低音が響き渡る。その振動が枕木に伝わり、真ん中あたりに枕木の溝に挟まり立てられている透明アクリルの板がやや高めの震える音をだす。音響効果のような感じではなく、じわっとしたモノの震えが少しずつ伝わってくるような音である。なにか変化が起きたことだけがまず察知でき、ようやくそれが細かい振動で、それも音が鳴っていることに気付く。展示されている空間から私たちが見ているところへは、物体の重さ、大きさ、素材が異なるため、微妙な差かもしれないがそれぞれ個別の音が響き渡る。


高山登「遊殺-2011」、展示風景

 前日に、私はいままでに体験したことのない激しい地面の揺れを体験していた。そして、またここでモノの震えを体験する。物質は分子レベルで常に振動をしていると言われ、そのために安定した静的な状態を保ち続けることはなく、それが産み出すエネルギーを私たちは利用して生きているとも言える。同時に、物を安定状態に置かず、偶然の動きを生み出す振動は、音楽のみならず現代の表現を作り上げる重要な要素であり続けている。日本の戦後美術においても、小杉武久、佐藤慶次郎、カワスミカズオ、河口龍夫などの仕事にはそうした魅力が備わっている。
 1944年生まれの高山が音を作品に使うのははじめてだと聞く。繰り返し使い続けている枕木に細かい振動を加える新しい試みに挑戦する点にも、また独特の癖を持った空間をこのように使いこなす点にも感嘆した。
 近代化の象徴である鉄道の枕木は、都市社会を下支えしている不可視の存在を思わせる。これはもちろん偶発的に今回の未曾有の出来事とつながっているに過ぎないのだが、高山自身は気仙沼にアトリエを持つ作家であり、たまたま現場には居合せなかったがひとりの被災者でもあった。
 このスペースは、資料を見ると来月、4月6日からはカール・アンドレの作品を展示する案内が入っている。個人の強い意思によって、国内の権威やメディアのほうを向かずに、小さいながらもイギリスやドイツのアーティスト、関係者や教育機関などと結びつくネットワークを作り上げている。前橋市内に残る臨江閣という歴史的な建造物で、国内の作家や若い作家を集めるグループ展も定期開催してきている。
 もちろん、地元の人でこうした活動に関心を持つ人は多くない。しかし、多くの人には理解できない独自の活動が長期にわたって維持されるのには大きな意味があると思う。それは実際に足を運ばない地域住民にとっても、けっして危害を加えられる恐れはないうえで、同じ場所に異なる美的価値を信じる人がいる点では共存の試みであるし、そうした試みが持続されることで人々が依存しがちな過去の関係性とは別のなにかを得る機会にもなっているだろう。表現とそれを伝達するメディア的な側面から考えると、美術には支配的なメディアとは異なる役割を担い続けてきた社会的な意義があると思う。
 震災の被害を伝え続けるマスコミの報道から少しでも多くの情報を得ようとしてテレビを見る一方で、現実の悲惨さとそれを大きく踏み越えた危機の煽動に支配されていくのに気づき、私は三日目からはラジオを聴き始めた。そこでは震災の前から聴いてきた「唄」が流れていて、それはとてもシンプルに誰かに自分の声を届けようとする美しいものに感じて、胸が熱くなった。眼の前の現実に押しつぶされないようにするために、こうした「誰か」を想像し、表現をする行為が芸術であるなら、私たちが生きるためにこうしたことを必要としているに違いない。
 そして、関東大震災の焼け野原で吉田謙吉と今和次郎がはじめた「バラック装飾社」や「考現学」の活動などにも思いを馳せた。近代化の道を歩み始めた東京で、新しさを塗り重ねていく〈表層〉に彼らが着目し、そこに取り残された過去を同時に見いだしていく観察力によって、都市生活者の強迫観念を暴きだしていたようなエネルギー溢れる批評的な創造活動はいま可能だろうか。

 もうひとつ、私は阪神大震災の記憶を伝える企画を芦屋市美術博物館で2回見た記憶がある。震災から5年後の「震災と表現」展と10年後の「米田知子」展である。地域の作家として世界的評価を獲得した具体美術協会のコレクションで知られている同館だが、具体だけではなく地方美術館としての充実した活動をしてきたと言っていいだろう。ここの学芸員4名が2011年3月末で一斉に辞職をすることは美術館関係者であれば大きな問題として知られていると思うが、東日本大震災の騒ぎによってかき消されなければよいと願う。私は詳しい経緯について知らないことが多い。しかし、これを芦屋固有の問題として片付けるのではなく、美術館関係者であればほとんどの地方美術館が直面している問題として引き受ける必要があるのではないだろうか。
 美術館の経営問題は理念やモラルとしてだけでなく、地域の文化資源として具体美術協会の作品が持つ大きな資産価値も無視できないはずであり、数字の問題へと矮小化しがちな行政側へ再考を迫る議論はまだ可能ではないだろうか。この美術館がそうした価値を作り出してきたことについて、まずは関西の美術館や美術大学などで社会的に重要な立場にある人はもっと意見を出すべきではないだろうか。そうした議論があるのかどうかはこの時点で私が知らないだけかもしれないが、彼らに課せられた重要な責任ではないだろうか。また、昨今増えてきたアートマネージメント関連のアカデミズムや総研などで活発に発言をしている人たちはどうなのだろうか。これが、そのまま幕引きされるのであれば、もっと地域や世代を超えて話し合う機会を持つべきではないだろうか。
 多くの人たちが他者の困難に対して、それを忘却の彼方に追いやることなくメッセージを送ることをいま実践している。芸術は災害に対して無力であったり、あるいは時間を置いて余裕を取り戻すことが必要だとは思わない。チャリティやケアのようなかたちをとって実践するのもひとつの方法かもしれないが、忘れ去られたり、眼を向けられなくなっているものに眼を向けることで、人の存在を肯定し、生きることと密接に結びついた表現を創ることもできる。そうした芸術の基本的な力とも言えるようなことを、美術に携わる人たちのあいだで実践することが求められている。
 多くの都内の美術館が早々に再開を決定したが、そのときに福島の原発事故によって故郷に戻れなくなってしまうかもしれない人々へ想像を働かせたのだろうか。東京の過剰な消費と物質に覆われた社会を支えるための電力が、このような悲劇を生む可能性について私は恥ずかしながらまったく気づいていなかった。だから、日本経済を復興するために消費を落としてはいけない、と声を上げる声には同意できない。むしろ、私たちは同じ社会に戻ってはいけないはずだ。美術館は精密な温湿度管理のために大量の電力を消費する施設である。もちろん、こういうときに芸術を見せるべきだと考えることもできるし、いっぽうで今後変革が必要な社会と文化について考えるためにあえて自粛という選択肢もあると思う。
 私がこういう考えを持ったのも、たまたま沖縄出身の照屋勇賢と一緒にいたからかもしれない。福島の人たちの声は、沖縄の基地に反対する人たちの声と同じだと感じたのである。彼が前橋市の美術館構想で実施されたアーティスト・イン・レジデンスで滞在中にこのような作品をつくったので、まだ制作中のものだがぜひ写真で紹介しておきたい。


照屋勇賢による制作中の作品

高山登「遊殺-2011」

会期:2011年3月12日(土)〜3月19日(土)
会場:コンセプトスペース
群馬県渋川市渋川1763-12/Tel. 0279-24-5252